16.きっとずっと前からーsideS
透明なアクリルの壁に囲まれた喫煙所の隅。深くタバコをふかしているにいを見つけた。
にいはアクリル越しにちらりと俺の姿を認めるとすぐに背中を向けた。
構わず俺は喫煙所のドアを開けた。途端にカカオとバニラの香りがした。
吸煙用のファンが稼働していても、簡単に消える香りではない。
「あれから成瀬とまだ話してないだろ」
「……今手が詰まってるから成瀬サンに任せてる」
少しは罪悪感があるのか、少しの沈黙の後にいが答えた。
「あと2ヶ月半だけど? お前、意味わかってるよな」
コンペの準備は依然として進んでいない。俺と成瀬だけで進めることもできるが、今するのは本意ではない。
成瀬と話して1週間。本当ににいはいくつも仕事を抱えているらしい。企画部を覗くと、にいは落ち着いて席にいることがなかった。
選ばれれば、社の一大プロジェクトになるかもしれない社内コンペ。指名されるということがどれだけの責任と期待を背負うことなのかは、こいつだって理解しているはず。
「わかってるよ」
相変わらずにいは俺の顔を見ない。
「お前やる気あんの?」
「……あるわ」
自分が吸うマルボロのメントールとにいが吸うブラックストーン。正反対の甘さと苦さが混じった香りで頭がクラクラとする。
口からタバコを離し、もう片方の手で頭を支える。
「青ちゃん、このタバコの匂い甘ったるくて嫌いって言ってたじゃない。匂いがシャツに付くと面倒よ。さっさと出てけば」
俺は肺の中の空気がなくなるんじゃないかという程の深い深い溜息をついた。
「この匂いと同じくらい甘いお前も嫌いだよ」
初めてにいが俺を見た。心底鬱陶しそうな目で。
「あら、奇遇〜。珍しく意見が一致したわ」
にいがカウンターに付属している灰皿にグシャッとタバコを押し付けた。
「掬ってやるって言ったの、冗談じゃねぇぞ」
「アンタのそういうところが嫌いなんだよ」
ガンッ!
飲み終えたコーヒーの空き缶を力一杯ゴミ箱に投げ入れると。にいは休憩スペースを後にした。
俺は灰皿の上からまだ長さの残るタバコを指から離した。
*
いつものように高梨さんに頼んでいた書類を受け取りに企画部に向かう。
俺に気が付いた彼女が書類片手に近づく。
「どうぞ。できてますよ」
「ありがとう」
渡された資料に一通り目を通して、高梨さんににっこりとした。
高梨さんは軽く頭を下げた。
「しごできの佐伯さんにも不器用なことってあるんですね」
「俺、自分で結構なんでもできると思ってるけど」
聞こえなかった振りをすれば良かったのに。彼女の「不器用」が何を指してるのか、意図が気になる自分もいる。
「新倉くんの先輩だけあって、無駄に自己意識高いですよね」
にっこりと笑顔でそう言い放つ。
成瀬はしっかりと芯は通っているけど可愛気が垣間見える。けれど高梨さんの場合は見えない場所にボディブローを食らわせるような、そんな印象。じわじわとダメージを与えに来る。
「高梨さんは俺のことが嫌いなのかな?」
逆効果かもしれないが、敢えてストレートに伝えた方が好感触になるかもしれない。
「そんなことないですよ。気に入らないだけです」
「それを嫌いって言うんじゃないの」
「嫌いなら、そもそも言葉を交わしません」
そう来たか。
彼女も俺と同じように面倒な性格なのかもしれない。俺は口元に手を当てて密かにクスリと笑った。
「嫌われてなくて安心したよ。高梨さんにはこれからも仕事頼みたいし。成瀬の言う通り、すごいねオンオフの切替」
「ここまで言われて尚、話し掛けてくる佐伯さんにも感心します」
「ここで引き下がったら負ける気がして」
「変なところ、意地っ張りですね」
「君もね」
高梨さんは静かに目を伏せた。
「仕事に私情を入れても良いことはほとんどありません。その方が物事スムーズに進みますから。それは佐伯さんも身に染みてるのでは? わからないように上手くしてますけど、女子社員と距離取ってますよね?」
そこまで強気の発言をしていた声が急にトーンダウンした。
「え」
顔には出さないように努めたが、背中を冷たい汗が流れる。
高梨さんがそこで初めてふわっと笑った。そんな笑い方も知っているのだと少し驚いた。
「彼女たちは気付いてませんよ。人に広めるつもりもないので安心してください。私もそういうタイプなので気付いただけです」
「ああ、そう」
同族ってやつか。
「仕事で一緒してる日向とも一線置いてたんじゃないですか?」
「……そう見えた?」
「少なくとも私には」
左の袖口をめくり時計の文字盤を確認する。まだ余裕がありそうだ。
「ちょっと愚痴っていい?」
「聞いてるだけですけど」
あくまで自分のスタンスは崩さない。その方が俺も助かる。
「俺、地道にやっていけばなんでもできると思ってたんだ」
「できてると思いますよ」
そう彼女は片眉を上げ首を傾げた。俺の話の意図が掴めないらしい。
気にせず話を続ける。
「でもどうしょうもないこともある。形に残らないものってどう頑張っていいかわかんないじゃん? どこまでできたのか、あとどれくらい頑張ればいいのかわかんなくて不安になる。だから。成瀬の反応がわかんなくてこのままいっていいのかなと思う」
「ひたすら観察ですね」
迷うことなく即答だった。
「成瀬、表情クルクル変わってわかりやすいくせに我慢するの上手いからわかんないんだよな……」
俺は軽くため息をついた。
成瀬は芯が強くて責任感が強い。相手のことも考えるからいつも頑張りすぎる。それがいい方向へ動くこともあるが、心配になる。成瀬にもっと頼って欲しいのに。
「まだまだですね」
「高梨さんぐらいの観察力がいるかぁ……」
成瀬に対してフィルターが掛かっているのは否定できない。冷静に見れてないんだろう。
「佐伯さん、どうしてそんなに自信持てるんですか」
「自信ないから悩んでる。繰り返して繰り返して、失敗しないようにしてるだけだよ」
「自信がない人は次の手を考えずに諦めるんですよ」
「なるほど、じゃあ俺はまだだいじょぶだな」
高梨さんの言葉が腑に落ちた。
「頑張ってくださいね」
「高梨さんは成瀬の味方じゃないの?」
「日向が幸せならいいです」
「成瀬のこと、大事に思ってるんだね」
「憎めない可愛い妹みたいな存在です」
二人の間に笑いが起こる。
腕時計に目をやると、次のアポの時間が迫っていた。
「佐伯さん。よければこれどうぞ」
高梨さんが手渡してくれたのは携帯用のファミブリックミスト。
さっきの喫煙所の香りがまだ取れずコンビニで買って行こうと思っていた。
「ありがと、助かる。高梨さん、営業アシスタントの方が向いてるんじゃない?」
「私も最近そっちの方が向いてる気がしてます」
「高梨さんがいるとすごく助かるよ。部長に推薦しとく」
「今すぐじゃなくていいです。今は企画が面白いので」
「わかった」
高梨さんは深くお辞儀をして、背中を向けた。
その背中に向けて、ちょっと意地悪をしたくなった。
「ありがと。高梨さんのおかげで少し気が楽になったよ。高梨さんも辛い恋終わるといいね」
「なんでわかったの?!」とポーカーフェイスが崩れた高梨さんが最高におかしくて、腹を抱えた。
「人間観察も営業スキルのうちです」
「間違いなく、佐伯さんはうちの営業トップです」
そう言って高梨さんは唇をぎゅっと結んで悔しそうにした。
*
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
別件で外出していた成瀬を途中で車で拾った。
成瀬は後部座席のドアを開け、抱えていた箱を置いた。
「成瀬、今日の資料は準備完璧?」
「完璧です」
後部座席から伸びた手からファイルが差し出され、受け取る。
「ん。ミスもないし、こないだ指摘したこともちゃんとできてる。よしOK! もう、成瀬1人でいけそうだね」
後部座席のドアをバタンと勢いよくしめ、慌てて助手席に乗り込む成瀬。
「え……いやいやいや! まだまだ力不足です、佐伯さんの背中追い続けます!」
「俺のこと評価してくれてるのは嬉しいよ。でも成瀬も入社してそろそろ3年目。うちは専門的な職種だから他の会社よりは多分独り立ちは遅い方だけど、成瀬ならできるよ」
成瀬が黙ったまま返事をしないので、隣に視線をやった。
乗り込んだ姿勢のまま、成瀬が動かない。
「まぁ、いきなり突き放すのも可哀想だから1社ずつ任せくよ。安心して」
「はい……」
戸惑いの色は消えないまま、成瀬はシートベルトをする。
準備ができたことを確認してから、アクセルを踏んだ。
急に突き放されたように感じたかもしれない。隣からの緊張した空気が消えない。
「俺、最初から仕事ができたわけじゃないよ」
成瀬が安心できるように、ゆっくりと言った。
「高校の時、生徒会長やってたって聞きましたし学生の時からできる方なんだと思ってました」
「まぁ、完璧主義なんだと思うよ。自分にできないことがあるのが許せない」
「入社した時から佐伯さんの噂は聞いてました。顔も仕事も完璧な奴がいるって。正直近づき難かったです。部長から指名された時は逃げ出したいくらいでした。周りの女子社員もキャーキャーいう人だったし。新人の頃は佐伯さんについていくのが精一杯で。佐伯さんの仕事に一緒になるようになって、一つ一つ仕事を見ていくうちに、人との関わり方とか仕事の仕方とか一つ一つが丁寧でちゃんと相手のことを考えて仕事していて。積み重ねって本当に大事なんだなと思いました」
信号の黄色が見え、ブレーキをゆっくりと踏む。
「……どしたの。そんなに褒められると照れる」
「私が佐伯さんを見て感じた正直な感想です」
「俺が伝えられることは全部伝えてあげたいけど、言葉で伝えきれないこともたくさんある。入社の時のプレゼン見て、「成瀬はちゃんと前を見て仕事をするコだろうな」って思った。だから俺についてもらったの」
「初めて聞きました」
「照れ臭くてこんなこと言えないでしょ」
「そしたらやっぱり成瀬はちゃんと自分で努力するし、俺が伝えたこと以外も俺のこと見てくれて吸収してくれてた。カタギリ製薬の西島さん。成瀬が担当になっても問題ないよ」
信号が青になる。アクセルをゆっくりと踏んだ。
「……嬉しいですが、そこはまだ佐伯さんも同行でお願いします」
「了解。スパルタで行くからついてきてね」
「努力します!」
明るい声が返ってきた。運転中で成瀬の顔を見れないのは残念だ。
成瀬を早く独り立ちさせたい気持ちとまだ隣で成長を見ていたい気持ち。二つのせめぎ合いはしばらく続くと思う。