15.偽想考作(ぎそうこうさく)
非常階段から抜け出した先のことは考えていなかった。
こんな気分のまま仕事には戻れるわけがない。
ちょうど、目の前をガラガラと台車を押す友人が通った。その背中に思い切り飛びついた。
「私あんたの駆け込み寺じゃないんだけど」
返ってきた言葉は慰めでも非難でもなく、文句だった。
「そんなこと言わないで聞いてよアネゴ」
背中に縋り付いたまま鼻をすすった。
「マジで誰かが真似するからやめて。それと鼻水つけないでよ。この服気に入ってるんだから」
……安定の毒舌。こんなときに優しい言葉を掛ける涼がいたら、ドッペルゲンガー? と思うくらいには涼を知っている。
大量の資料が積まれた台車を見て、会議室へ向かう途中だったのだとわかる。
涼は台車を会議室の扉の脇へ寄せてから、取り出した鍵で鍵を開ける。
「ちょっとここ押さえてて」
涼の背後霊になっていた私を背中から剥がすと、私の両手をドアへ添えた。
涼が手を離したドアは一気に重くなり、閉じていく。私は慌ててドアの隙間に右足を差し込むと両手でドアを押さえ直した。
そこまで見届けてから涼は台車を押して部屋の中へ入っていく。
やがて部屋の中が明るくなり、何列にも並んだ机と椅子が見えた。
そこまでボーっと見ていると怒号が飛んできた。
「話なら聞いたげるから、さっさとそこから離れて中へ入る!」
思わず全身にピシッと力が入り、慌てて中へ入りドアを閉めた。
涼は会議室の奥の席に陣取って作業を始めていた。
私はおもむろに涼の後ろへ空いている椅子を移動させ、再び背中に腕を回して座った。今度は文句は飛んでこなかった。
「いつもの日向ならパパッと解決できてたでしょ、面倒事は嫌いだって」
「むり」
「何が不満なの」
「人をわがままな子どもみたいに言わないでよ」
「違うところを見つける方が難しいわね」
ヘコんでいる私に全く態度を変えない涼と背中から伝わる体温。なんだかホッとした。
徐々に胸の不安が治まってくる。
「……あたし新倉に何かしたかな」
涼の背中に顔を埋めたまま出した言葉。語尾は消えたかもしれない。
聞いて欲しくて出たものだけれど、なんだか気恥ずかしかった。
涼の背中の動きが止まった。
「私が知るわけないでしょ」
涼の背中に伏せていた顔を背中から離して涼の顔を覗き込む。
「2人のことはあんたが一番よく知ってるんだから答え出せるのはあんただけよ」
回していた腕を離し、涼の隣に座り直した。
聞く姿勢のまま、じっと見続ける私にとうとう彼女がしびれを切らしたらしい。
涼が浅く息を吐いて私に向き直った。
「よく考えて、周りを見ればわかるはずよ。日向。あんたバカだけどほんとのバカじゃないわ」
涼が珍しくヒントらしいヒントをくれる。最後の言葉が余計だけれど。
言い返そうすると入り口の方から声が飛んできた。
「相変わらずキツいなぁ。そんなに邪険にしなくてもいいのに」
ビクッとなった肩をすくめたまま、声が聞こえた入口に視線をやると。
会議室のドアを背にした佐伯さんがいた。
「この子鈍感だから、時には言わないと気づかないんですよ」
涼は声の主が初めからわかっていたようだ。驚くこともなく淡々と返す。
佐伯さんも涼の態度に臆することもなく、続けた。
「ああ、それには俺も同意する」
佐伯さんはいつからいた?
「私は言いたいこと言ったんで、あとはよろしくお願いしますね。佐伯先輩」
口だけでなく抜かり無く手も動かしていた涼。
まとめたレジュメの束を何部かに分けて机の上に軽くトン、と置いて端を揃えると台車に乗せた箱に次々と詰めていく。
「佐伯さん。気をつけないと、いつかストーカーで訴えられますよ」
「あは、高梨さんに言われると冗談に聞こえないから肝に銘じとく」
すっかり作業を終えた涼は台車を押して部屋を出ていった。
流れるように出ていってしまった。
パタンと会議室のドアが閉まると同時に、佐伯さんが口を開く。
「高梨さんって結構はっきりモノ言う人だよね。気持ちいいくらいに」
「オンとオフの切り替えが上手いんですよ」
佐伯さんがこちらへ来る前に涙をなんとかしなければ。
「物は言いようだね」
佐伯さんの声が近づいてくる。
「でも、その性格に救われてます」
佐伯さんが静かに笑う。
そして私の座っている場所から一つ空けた椅子をクルッと私に向けて座った。
「さて、俺は何をフォローすればいいのかな?」
「佐伯さんにしてもらうことなんて、ない、です……よ」
まだ鼻の詰まる声で返すと腕組をした佐伯さんが「ん?」と片眉を上げる。
泣いてた証拠があり過ぎる。
「……どこから聞いてたんですか?」
「最後だけちょっとね。もう全部言っちゃえば?」
ああ、この人にはやっぱ嘘がつけない。
「さっき、新倉と話したんです。コンペがこのまま進まないのは嫌だから、なんで不機嫌なのか?って。理由が全然わからないんです。部長からコンペ指名されたときも様子が変だったし」
真面目に答えたのに、佐伯さんはキョトンとした様子で私を見つめたままだ。
「にいとはなした?」
「はい」
「俺にパートナー変わってると思ってるからじゃないの?」
「多分……」
「ごめん、えとバカなのかな?」
「な」
「バカにバカって言って何が悪いの」
佐伯さんがさらにバカを被せてくる。
「涼に負けないくらいはっきり物言いますね」
「俺ももう後がないからね」
目を伏せて佐伯さんが呟いた。
少し怪訝な顔をすると「こっちの話」と、さっきの表情なんて嘘のような顔を私に向ける。
「にいは全然動かないし? 成瀬はバカだし? この俺が本気出して力になりましょう。さぁ、徹底抗戦の時間です。準備はいい? 成瀬」
茶目っ気をこめて、佐伯さんは怖いくらい不敵に笑った。