10.繋がる迷路
あの大雨の翌日。
隣の席はカラだった。風邪で休みらしい。
噂話好きの涼すずが教えてくれた。
ガランとした空間を視界の端に入れながら、ホッとしたような物足りないような変な気分を抱える。
隣からのプレッシャーがないならないで、調子が狂う。
いつの間にかそれさえも日常になっていたのだと嫌なことに気づいた。
ホワイトボードの佐伯さんの名前の横には『10:00~直帰』の文字。パソコン内の自分の予定を確認する。今日は急ぎの仕事はない。
頭に浮かんだ思いつきを消そうと頭をブンブンと振った。しかも佐伯さんをダシに使うなんて失礼だ。
机にバンと勢い良く両手をつくと椅子から立ち上がる。手を組み両腕を上げてグーッと体を伸ばすと、少し気持ちが楽になった気がした。
腰を屈めてあれ? と違和感を感じたときにはもう遅かった。
瞬時に備えるほどの反射機能が私には備わっていなかった。
何もない場所に気付かずそのまま座ろうとして……思い切り尻餅をついた。
幸い腰を打たずに済んだが、何の迷いもなく後ろに体を預けたものだからお尻へのダメージは相当なものだった。
「……っ」
言葉にならない声が漏れる。
立ち上がろうにもお尻が痛すぎて、力が入らない。
「日向、大丈夫?」
駆け寄ってくれた涼。声は心配しているのだが、残念なことに顔から笑いが消えていない。
私がコケてから駆けつけるまで間が空いたのはそういうことだ。
痛みのショックと昨日に引き続く自分の情けなさで、涼に大声で怒る気力も湧いてこない。
顔だけでも不機嫌を表すと「ごめんごめん」と涼が手を差し出してくれた。
その手を支えにして足に力を入れると同時に、打ったところに言い表せないような痛みが走る。そのままバランスを崩して再度後ろに倒れそうになった。すんでのところを涼が椅子を引いて受け止めてくれた。
どうやったらこれ以上この痛みが増えないだろうかと試行錯誤しながら椅子に座る私を見て、涼の大爆笑が再開された。
笑ってないで手を貸してくれたっていいじゃん。
「日向、勢い良く立ち上がるから椅子が後ろに下がっちゃったのよ。キャスター付の椅子なんだから気をつけなさい」
普段通りに歩くとお尻が痛むので、少し足を引きずり気味にトイレまで向かう。
まだ朝の早い時間だったのが運の尽きだった。廊下にはまだ多くの人がいた。
一応気は使ってくれているらしいが、私が通り過ぎて少しすると笑いが起こる。いっそ、目の前で笑ってくれた方がフォローのしようもあるというのに。
廊下の向こう側から佐伯さんが同じ営業部の人と歩いてくるのが見えた。
佐伯さんも私に気が付いたらしい。営業部の人と一言二言交わして近づいてくる。
「昨日の雨で風邪引いてないみたいで良かったよ。……にいは今日来てないの?」
「風邪らしいです。まだ出られてなかったんですね、佐伯さん」」
「どんな顔してるかなって見てから出ようと思ってたんだけど、やっぱ沈んだ顔してるね」
と続けた彼はすぐに下を向き、肩を小刻みに震わせ始めた。
「……さっきの見てましたね」
「ごめん、あまりにも盛大過ぎて」
さっきの私の醜態っぷりを思い出したのだろう。
とうとう佐伯さんは堪えきれなくなって笑い出した。その笑い声は廊下中に響き、通り過ぎる人皆こちらをチラチラ気にしながら私達を遠巻きにして歩いていく。
こんなに笑う人だったっけ。付き合いは長いが、こんな佐伯さんは初めてだ。
私達の周りにバリアーが張られたように人が避けていくのが彼の笑い声の威力を示している。
その原因が私にあると思われないように、努めて平静を装ったが無駄な努力だった。
ようやく笑いが治まり、佐伯さんは一度大きく深呼吸をした。
「あー、久々に大声で笑った」
「佐伯さんには面白いことでも私には災難なんですからね」
――お尻に痣できてそ。
小さく零した声は佐伯さんにも届いてしまったようで。彼はもう一度プッと勢い良く吹き出した。
ここまで純粋に笑われたら、自分の情けなさよりも間抜けな自分に可笑しくなってしまった。
固くなってた自分の頰が少し和らいだ。佐伯さんも優しくゆっくり笑む。
「俺、今日直帰だから早く終わるよ。笑ったお詫びに病院まで送るのとごはんどっちがいい?」
――病院へ行くほどでもないのでごはんで。高くつくので覚悟してくださいね?
――わかった
断ることもできたのに、佐伯さんから提案された選択肢から1つ選んだ。
*
佐伯さんと駅で待ち合わせをしてお店に向かう。
ご飯に行くのはこれが初めてじゃない。仕事終わりに行くこともあるし、接待で付き合うことも多々ある。
けれども、あんなに泣いてしまった後で少し照れ臭い。
仕事の話をしていたらストレスも相まってお酒が進む。佐伯さんとの共通の話題といえばそれくらいしかないのだ。
あと一つを除いて。
「ねぇ、なんで昨日泣いてたか聞いてもいい?」
机に頬杖をつきながら私を真っ直ぐ見つめて佐伯さんはそう言った。
彼はグラスビールを3杯空けていた。接待慣れしている普段の彼からするとまだ酔う量ではないはず。
でも目が少しだけとろんとしていた。
「愚痴の相手になるって言ったでしょ」
私は首を左右に振ると、佐伯さんの片眉が少し上がった。
「私にもよくわからないんです」
残り少ないカシスオレンジのグラスを一気に傾けるとカラン、と氷が唇にぶつかった。その感触に空いた方の指を当てる。
「人に話してみると、心の中整理できるよ」
諦めて、私は昨日あったことをぽつぽつと話し始めた。
佐伯さんは黙って聞いていた。たまに静かに頷きながら、軽く腕組みをして。
ここが居酒屋で助かった。様々な音が入り混じるこの場所なら、喧騒に紛れてあのオフィスよりずっと話しやすかった。
本当は新倉を知っている誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
全て話し終えたところで佐伯さんと目が合った。
「成瀬はどう思ってるの、にいのこと」
私は佐伯さんから視線を逸し、軽く唇を噛んだ。
佐伯さんは軽く握った拳で額をトントンと2回叩いた。
「ごめん、言い方変える。あいつのことどう見える?」
「……いつも自信たっぷりでそれを隠さないでいられるのが羨ましい反面、ちょっとムカつきます」
「うん」
まだあるよね? という顔をしながら私の言葉の先を促す佐伯さん。
「嘘もつくけど、たまにまともなことを言うからかえって言葉に説得力があるんですよね」
「童話の中で悪いやつが良いことすると、良い人に見える心理に近い?」
「というより、私には当たり前のことばかり言う方が信じられないから」
佐伯さんに話しながらわかったことがある。
わからないなりに新倉を理解しようとしている自分がいることを。
だからこそ、今までのことを総合してもこの前のことは理解できないでいる。
「見えるものだけが当たり前で真実ではないよ」
理解しているから考えてわからなくなる。
佐伯さんの言葉も自分の言葉も。
「遠慮してたけど、やめた」
佐伯さんがずっと組んでいた腕を解く。
何を? と聞き返す前に佐伯さんが続けた。
「俺が、事前の約束もなしになんで取引先に成瀬を一緒に連れて行くか考えたことある?」
「……意地悪ですか?」
「違う」
さっき、店員さんが空いたグラスを下げてくれたけどまた新たに3つ空いたグラスが机に並んでいる。
いつもよりペースが速い。
「佐伯さん飲み過ぎですよ」
「俺がこの量で酔わないの知ってるよね」
「……はい、そうですね」
佐伯さんの目が座ってきた。
反論を諦めて思い返してみる。
重大な事案以外の外出は図ったかのようにいつも突然だった。その上驚くことにタイミングよく急ぎの仕事が入っていなかった。
佐伯さんに視線を向けると、彼はニヤリと落ち着いた声でゆっくりと言った。
「成瀬がにいと話してるのを見たくなかったからだよ」
佐伯さんの問いに対しての答えを聞いても、すっと頭に入ってこない。
「佐伯さん?」
佐伯さんはニヤリと私を見つめたまま、
「やっと言えた」
と呟いた。
ぽんと自分の顔に当てた両手がほんのり熱い。
どこからどこまで仕組まれていたことなのか。答えがわかるような、余計もやがかかったような。
私も飲み過ぎたのかも知れない。