39. バカにつけてはいけない薬(1回あたり末端価格金貨8枚)
「意識を保て……」
声にしないと消えてしまいそうだった。
あたしは、今どこにいる?
目を閉じれば暗闇がある。
目を開ければ狂気がある。
歪んだ精霊使いと天候使いが、100人居ても再現できなさそうなその発光する風景は、懐かしくも新しい。
自分が曖昧になる。ここがあたしで、あたしが世界で。
境界がなくなる。世界があたしに溶けだして混ざる。
右手の先から少しずつなくなっていく。
あたしはなんなんだ?
「自我を保て!」
自分の頬を左手で思いっきり叩いた。
痛い。同時に、痛くない。
その意味はわかる。
なんでわかる?
「わかってきた。この世界の仕組みと、歪みの構造が」
歪みがあれば、是正できる。
それがあたしの能力だから。
さっきの奴は、歪んでいなかった。
だからこそ、この世界は歪んでいない。
『同時に、歪んでいる』
ここがとっかかりだ。
今、あたしの一部は溶けだして流れてしまった。右手の肘から先がない。
『しかし同時に、ある』
あるのはこの世界の中でだけだ。
まぁ仕方ないだろう。
こんなやべえ世界に取り込まれて、片手で済んだら安いもんだぜ。
そろそろ手が届きそうだ。
あと一歩。
「この世界は、全てが歪んでいないんだろ?」
返事は聞こえない。
『ハイ』
パキン
能力を発動させた。世界が消える。
「……お前、強かったよ。相手が普通の人間なら絶対負けねえ」
「な、なんで」
「ま、概念系の奴でも弱い方なんじゃねーかお前は」
あたしは明るい部屋に居た。
トリアナのスプライトも死んでいない。
下着はどこだ? ねえぞ。
……なんかしらされたかもしれねえな。あとで抉るしかねえか。
全身土で汚れているが、今は勝ったという事実の方が重要で大きい。
右手は、予想通りだが仕方ねえ。無いままだ。
「お前、概念使いだろ。なんで歪んでねえんだ?」
「ありえない」
土偶のような恰好をして、白い仮面をつけた男に話しかけたが無視された。
仮面には達筆な文字で『猫道』と書かれている。
クソうぜえ。こう言う無視するタイプは本当に嫌いだ。
「行儀が悪い二重の猫!」
「もう無駄だッ!」
空間が侵食されていく。
星々が地面に降る。
顔が浮かび上がり、消えていく。
「お前は全く歪んでいない」
『つまり同時に……?』
あたしの能力が発動した瞬間そいつは、ふっと居なくなった。
空間も元に戻っていく。
「あーーーー……どっと疲れたぜ」
ホントに空間使いだの概念使いだのの相手は無理だ。
だが、弱点と自分の能力を噛み合わせれば勝つことも不可能ではない。
勝てる相性になる確率は2%くらいか?
……偶然じゃないよな。
トリアナじゃ勝てない運命が出てきた。
同時に、だからこそあたしがここにあてがわれたのだ。
「トリアナのヤロー、絶対元の体に戻ったらバラバラにしてやる」
---
「ところでさ『猫』ってなんだ?」
マスターがさっきから俺に視線を合わさない。
まるで気づいていないような。
チーム分けの時名前も呼んでくれなかった。
見えてるかー?と手を振ってみても反応がない。
「猫道の事ですね。ルードダンジョン下層に居る冒険者狩りです。
151層目を踏んだ事のある実力のある冒険者からは、謎かけが好きなだけの無害なヤツとの評が多いんですけど……」
「行方不明が多いんだろ?」
「……そうです。彼は何者かの命によって篩い分けをしているとの噂です」
話もちんぷんかんぷんだし。
その情報がなんの役に立つんだろう。
さっきからマスターに無視されると、心臓が軋む。
別にどうとも思っていないはずなのに、勝手に。
さっきまで殺したいとしか思ってなかったのに。
ドキドキするんだ。
どうしちゃったんだ俺。
「篩い分けねえ。そんなに強いのか?」
「彼のスキル行儀の悪い二重の猫を受けて、生きて戻った者は居ないそうです」
「シュレーディンガー……概念系だな絶対。
概念売買があるから俺でも対応できる可能性はあるが……。
噛み合わなきゃただ負けて死ぬだけだろうな」
概念売買? さっき使われた気がする。
自分自身何が変わったのかよくわからないけど。
「そうですね、彼の能力は地下の情報屋に流れていました。
『認識した全ての事象が表と裏を重ねあわせた状態になる空間を作る』
それが概念使い猫道、通称猫の能力です」
なんだそれ。どこが強いのかよくわからないぜ。
「強いっちゃ強いが、どこが強いのかよくわからないぜ?」
「そうですか?」
ドキッ。
言葉にしてこそいないが、全く同じ考えをしていた事に嬉しくなる。
思えば口調も似てる。
意識してしまう。
あぁ、ダメだ。ダメな感覚だ。一旦ここを離れよう。
走って、さっき教えてもらった部屋に駆け込もう。
お水が飲みたい。火照った体を冷やしたい。
*
「……思い出した、リタだ」
「今の足音ですか?」
……概念売買で気配を0まで売っていたのを忘れていた。
いや、認識できなかっただけだ。
「そう。リタは最後の砦として使いたい。
アジトに残ってもらって、侵入してきちまった奴らを殲滅してもらう」
ま、できればそんな状況は避けたい。
保険だ。
「なるほど、いい案ですね。
……リタの部屋を用意しないといけないです。家具を揃えないと」
「そうだな、時間ねーしとりあえず俺の部屋を使ってもらうように言った」
その瞬間、ちょっと部屋の空気がピリッとした気がする。
……いいじゃんよ別に、ちょっと部屋貸すだけじゃん。
「……あの部屋に一人残すんですか?」
「何か問題でもあるのか?」
「……マスターのへや……」
フランとアリスの顔が桜の色に染まる。
雪国にも春来らんと言わんばかりに爛漫と咲き誇っている。
意識した事ないけどそんなに何かしらやべえのか。
シルキーに正確なデータを取ってもらう必要があるか……。
いや、何がヤバイかは知らないけど。
……んー? アレか?
*
「はぁはぁ……点け」
ぎぎぃ、と軋む扉を開けて、ふかふかの絨毯を踏みしめ歩を進める。
部屋に据えられた丸ガラスの中に居る精霊に命令して明るくしてもらった。
ここのものは好きにしていいって言われたが、あれこれ弄るのも怖いぜ。
最初に感じたのは、金木犀のような、饐えた匂い。
香りに集中してみると、実にいろんな匂いが混ざって独特の雰囲気を醸し出しているようだ。
ここの女の子達、特にフランから漂う甘酸っぱい獣臭もちょっとする。
果実の匂いと、泥臭さと。甘い匂いと、汗臭さと。
マスターは、香りに関してはすごく気を使っている印象を受ける。
扉を閉め、暖炉のあたりまで歩く。
「香だ……こんなものまであるのか。……使ってもいいのかな」
レコの一族も、香りには敏感だった。香も使っていた。
……獣神を引き継がせてもらった両親には謝らなきゃならねぇ。
謝っても許されないだろう。一つになっちまったんだから。
俺はもう誰にも引き継ぐことはできないんだろうぜ。
撒いた種だ。した約束だ。後戻りはできない。
未だに少し腹立たしいが、マスターを思い浮かべると胸が締め付けられる。
それがまた腹立たしい。
好きにしていいって言われたんだ。
香くらい使わせてもらってもいいだろ。
とりあえず火ぃつけて……マッチもあるし。使っていいって事なんだろ。
「……とりあえず、水が飲みてぇ」
香に点火したのちガラスのテーブルに設置する。
誰に言うでもなく声に出し、マスターから伝えられていた家具を探す。
キョロキョロするとすぐ見つかる。あった。この白いやつだ。
横開きの輝く小さなタンスを引き開ける。
金属やガラスのボトルに入った液体がずらりと並んでいる。
「冷たい」
びっくりするほど冷えている。
中には水の精霊のような、見たこともない白い精霊が居た。
「お前が冷やしてるのか?」
コクコクと頷く精霊。言葉がわかるって事は中位以上ある。
「氷の人工精霊って奴か。初めて見た」
もう禁忌とか屁でもねぇんだなマスターは。
俺にしたみたいに歪みを増やすようなマネするし。
人工精霊も作っちまうし。
「とりあえず、飲みもんくれ」
精霊は冷えたコップと液体が入った透明な瓶を差し出してくる。
そんな小さい体でよく持てるな。ありがとう。
受け取ったコップに液体を注ぎ入れる。
ああ、いい香りだ。ライチか?
南大陸、東の外れ周辺が主な特産の果実。
薄く濁った液体から放たれるフルーティな感じが余計に渇きを加速させる。
一気に呷れば気分も晴れるだろう。
喉を鳴らしながら一気に飲んだ。
駆け抜ける爽やかな甘さと微かな苦み。
そして、激しい熱さが体内を巡った。
「けほっ……、なんだこれ、熱いぜ……」
酒だったのか? 一気に飲んじまった。
横にならないと……早速頭がぐらぐらするぜ……。
息が上がる。こんなにも体とは動かないもんか?
どうにかベッドに辿り着いた。
いい香りのするベッドだ。マスターのシャツみたいな……。
飛び込む。吸い込む。脳髄が蕩けそうな感覚がする。
香の香りと、ベッドの匂いと、酒の熱さでダメになりそうだ。
熱い、暑い。脱ごう。全部。
俺はもう、全部ダメになりそうだ。
そんな中で枕元にもっと興味深いものを見つけた。
缶から漏れる、蠱惑的な雰囲気。青と黄色が基調の、危ない色彩。
震える手で開けてみる。
……粉?
小指の先程しか残っていないその粉末は、魅力の塊に見えた。
獣のように飛びついて、鼻を突っ込む。
視界がスパークした。
脳が溶けるみたいな感覚がする。
全身から迸る多幸感。
これだ。
さっきマスターにやられた奴。
ちょっと物足りないけど、ずっと欲しかった感覚だ。
「にゃあ…………」
半ライオンとは思えない情けない声が出る。
さっきからマスターに感じていた苛立ちと焦燥は、ここから来るものだ。
もう戻れない。
いや、今はもう戻らなくていいぜ。
俺はダメになるんだ。
マスターの香りがする枕に顔を突っ込んで身を捩る。
今から長々し夜をひとりかも寝む事になろうが、とても幸せな気分だぜ。
パーティーが始まるんだ。
フレミングって、言ったっけ。
バカにされたような態度で言われたけど、今はもっと言ってほしい。
いや、放っておいて欲しい。
冷たくしてほしい。
見下してほしい。
俺は、もう気高いライオンなんかじゃない。
「……ひぁっ! あっあっ、あぁっ……」
俺ってこんないい声出るんだなと、他人事で俯瞰的に思った。
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「常に未確定であるというのは、歪み以上に危険な因子だ」
『存在』が言った。
『無』が続ける。
「『あの子』も実際危ないんだけどね、まぁ約束だから」
「……どこだここは? なんだお前らは」
土偶のような姿の男は、何が起きたかわからない様子で辺りを見回した。
『運命』が怒った。
「君もね、やっていい事と悪い事があるんだよ。限度も超えたし」
「運命が、彼女に託すように動かなければ全部ご破算だった」
『原初』が言った。
『力』は呟くように言う。
「罪や罰はもうないけれど、君は裁かれねばならない」
「俺は何もやっていない、普通に生きただけだ。それに俺だけじゃない」
顔の仮面に猫道と書かれた土偶の男は、命乞いをするように呟いた。
『情報』が呆れるように言葉を放つ。
「アレを識っておいてよくそんな事言えるもんだね」
「ネコミチくん? 君が往くのは生き地獄だ」
「なんで、なんで俺だけ……!」
真っ黒な扉が開き、腐った野と黄色い空が広がる世界に繋がった。
咲く花は紫一色。街は灰色。
運命が、云った。
「君らの世界だけ見てるわけじゃないし、それに」
「君だけじゃないに決まってるでしょ」
赤子の形になった『猫道だったもの』は終わりかかった世界へ入り。
今にも崩れそうな家屋の、今にも死にそうな女が、悲しそうな目で抱えている、小さな男の子の中に入った。
扉は、世界中に響き渡るかのような音を鳴らして、閉まった。




