epr. その後
俺の母親、白瀬 小百合は28歳という若さでこの世を去った。
名字が俺と違うのは、夫婦別姓にしただけであって特に理由はないのだという。
俺の姓は親父から貰ったものだ。
父さんも、物心ついた時には既に居なかった。
別に、寂しいという気持ちはない。
でも恋人なんかがいるわけじゃない。
ゲームが好きだから、そればっかりやっていると全てどうでもよくなるんだ。
母さんはいつも言っていた。
『人生そんな長いもんじゃないから、いつ終わってもいいように、悔いのないように、誠実に生きるんすよ』
そう、だから俺は、真っ当に生きて、ちゃんとした職に就いて、ゲームにハマったりはしているが教え通り普通に過ごしている。
そう、普通が一番だ。
母さんみたいに、変な体育会系っぽい喋り方を大人になっても続けたりしない。
普通の社会人になれた。
誇れることなんじゃないか?
……仕事でミスして怒られたりしなきゃもっといいんだけどなぁ。
「増田ァ!! 増田順人!! 聞いてんのか!」
「……んじゃ俺定時なんで上がります」
「は? おい! ちょっと待て!」
ケアレスミスにガミガミ怒鳴り散らす上司を無視して事務所の扉を開け、出ていく。
後ろからはまだがなる声が聞こえてくるが、もはや俺の視線は手元の携帯端末に集中していて、その背後の音波はなんの効力も持っていない。
「クソ、お前は、最……」
パタン、とエレベーターの扉が閉まり、声は完全に聞こえなくなった。
やれやれ、やっと家路につける。
はてさて、さっき説教されていた時は何について考えていたんだったか。
……確か。
……そう、母さんの事だ。
つらい時はどうしたらいいか、母さんが何か言ってたような気がする。
母さんは元気の塊みたいな人だったから、そんな時はなかったかもしれないけど。
あれこれ思いを巡らせながら、まだ寒い春先の路上を往く。
日も暮れてきたし、いい加減暖かくなってほしいところだね。
「……ん?」
ふと目に入ったのは、宝くじ屋。
紅白の屋根が縁起の良さを強調する、お手軽公営ギャンブルの店だ。
例えば……ここで3億なり当てたら、会社辞めて一生遊んで暮らせるだろうか。
『ザッ』
……なんだ今のは?
何かが見えた気がする。
強烈に印象付けられたその感覚。
俺は吸い寄せられるように宝くじ屋へ足を向ける。
数字が一瞬見えた、気がする。
その、見えた数字は『75』
フラフラと店員に歩み寄り、俺は……声をかけた。
「あの」
買うのか。
なんか、当たってしまいそうな気がする。
……しまいそう? 当たって困る事があるのか?
「いらっしゃいませ、大きな夢、如何ですか?」
「えーと、連番でなな――」
『ザザッ』
なんだ?
……話し声……?
母さんの声が、聞こえて……。
『ギャンブルなんかやっちゃだめっすよ』
『なんで?』
『うーん、いつだか忘れちゃったんすけど、君みたいな名前の子が賭け事で大失敗したって話を聞いた覚えがあるんすよね』
『増田順人? ふーん……』
『宝くじなんかは一番買っちゃだめっす。あれは半分以上胴元が持っていく最悪の悪徳ギャンブルっすからね」
『そうなんだ』
『ザザザザザザ』
「……ごめんなさい、やっぱりなしで」
「はい、またのお越しをお待ちしております」
笑顔を崩さない店員に背を向けて、俺は再び歩き出した。
そう、これでいいんだ。
仮に当たりでもしたら、そりゃもう普通の生活はできなくなる。
普通が一番だって母さんが言ってたし、死ぬ間際だってそう言ってた。
現状だって悪くない。
生きるのには困らないし、好きなゲームだって満足に遊べる。
『最悪』なんて程遠い。
ああ、なんだ。
そう。
普通が一番だ。
「……普通って、いいな」
呟くように、同時に吐き捨てるようにそう言って、見ていた携帯端末から目を離す。
孤独な俺はただただ、透き通らんばかりの空を見上げた。
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「もう、同じ世界を作ることはできないみたいね」
「最悪もシラセも、上手い事やったもんだなぁ」
『精神』と『星』が言った。
『空』が呟く。
「また一からだ。大分理想に近い世界になってたんだけど」
「なんでもできる世界。楽しい世界。人が人に救われたり、救われなかったりする世界」
「感動があり、感情があり、感傷があり、心揺れ動く世界」
『空間』と『異常』が合わせた。
『命』は返答する。
「我々が見ていて楽しい世界が、理想の世界だ」
「いくつでも、何度でも、何周でも、作って壊して繰り返す」
『嘘』が言った。
『真実』が続ける。
「最悪は成功の一つだ。時間は無限にある。僕らは理想を追い求めよう」
「ただ、問題がある」
『障害』が言った。
『天命』はそれを受けて続ける。
「『全て』が『最悪』になり、その最悪は隔離空間に閉じ込められた。僕らは奴に手出しできない。僕たちも、全ての世界の住人達も、もう二度と思うようには行かないだろう」
「……それは果たして、理想から離れたものなのだろうか」
『反対』が言った。
思い通りにならないのならそれでいい。
立ち塞がる障壁が高ければ高い程、乗り越えるべき山海が険しければ険しい程、道中は遣り甲斐を感じ、超えた後には達成感と解放感がある。
観測するものにとっての不都合は、手出しができずやきもきする程度か。
快勝の続く物語。
最強の作る常勝の道。
不都合のない、レールの敷かれた人生。
そんなものはもう生まれ得ない。
しかし『最悪』を見れば。
生きる分には、相手取る分には『そう』だっただろう。
ただ見る分には、観測する分には、観察する分には。
エンターテイメントの提供という観点からは、全く問題にならない存在だった。
「我々に終わりはない。観測を続けよう」
「最悪の起こした改変が、どう影響を与えるのか。それを見るだけでしばらくは楽しめるんじゃないか」
『原初』が提案した。
『終焉』が憎たらしい笑顔を浮かべる。
「最悪の物語はこれにて終わり。我々に変化はない。ああ、これこそ最悪じゃないか。次はどの物語を終わらせようか?」
「しばらくは見るだけにしておけ。また干渉して第二の最悪を生んでも面白くない」
「いいや、それはそれで面白いだろう?」
『無』が窘めたが『終焉』は手を叩きながら、笑った。