135. 想い
「……首わ」
「ん?」
ぽつりと、シルキーが切り出す。
トリアナが去った後の沈黙のさ中に、突然だった。
「首わ……もっていっても……いいですか?」
「……いいよ、持ってけ」
『首輪』という要素、それを次のシルキーに受け継ごうという考えだろうか。
それは、不可能だ。
人は裸で生まれてくる。首輪をつけたまま、この世に生を受ける人間などいない。
契約とて然り。
『この』マスターとの繋がりは、必然、ここで消える。
それでも、そう。
想いがある。
マスターはこの先全てを奪われて、永遠に限りなく近い年月を過ごす事になる。
そんなマスターに『シルキーは斯くあった』と、想いを遺せる。
持っていくシルキーに、意味はないのだ。
マスターにこそ、意味を遺す、その為に持っていく。
そこまでシルキーの頭が回ったかはわからないが、マスターはそう受け取った。
「わたしは、やく立てましたか? ますたぁの、かぞくとして、ちゃんと……」
「たりめーだろ。これ以上ねえ。……心配すんなよ」
即答。
シルキーの事を思ってか、労いの意からか。
それを受け、シルキーは目を伏せ首元にそっと手を添える。
慈しむように、温めるように。
添えた手の側に光るのは、青、赤、紫、三色のダイヤ。
それはシルキー自身のものと、フレイとルビィが遺した、最後の欠片。
シルキーは、二人のイフリータ達と数えきれないほどの困難を乗り越え、力を合わせて戦ってきた。
シルキーやマスターと、本来のイフリータ達は存在格が違う。人間と魔神では、世界の見え方も、その高さも違う。
どこにでも居る、現象そのものである精霊や魔神は『世界を渡る』という概念などない。
この世界で顕現し、この世界で消滅したフレイとルビィにはもう、会う手段などない。
例え向こうへ渡ったとして、向こうのマスターが召喚を行ったところで、違う魔神が現れる事だろう。
首輪のダイヤを持っていったところで、それはもうただの石。墓標に過ぎない。
それでも、あるのだ。
シルキーには、そこに居るように思える。
世界を超えても、共に生きたい。
そこに、記憶も意味もなくても。
「さいごに、ぎゅっ、て、してください」
「……たけぇぞ」
迎え入れるように、両の手を広げて待つマスター。
シルキーは、すぐさま飛び込んだ。
マスターの着る、特徴も味気も素っ気もない商人服にすっぽりと包まれると、満足そうに声を上げた。
「えへへ……」
マスターは胸の中の半妖精に目を向ける。
折れてボロボロの羽、朝露を溜め込んで光を反射させる右の瞳には濁った赤い色。
「……頑張ったな」
「……うん」
水色の、さらさらの髪を撫でる。
力の抜けた笑顔で見上げる眼の端から、雫が流れ落ちた。
「ますたぁ……ううん、……こほん。マスター(・・・・)」
左眼も、紅に染まる。
残り少ない魔力を振り絞っているからか、力のないオレンジに近い朱色をしていた。
「無理するな。いい事ねえぞ」
「……この世に生を与えてくれた事、感謝している」
「……あ? ……フレイ?」
精巧なまでに模倣された、声色と口調。
本人ではないと、わかっていても勘違いするほどに。
「にどめ、いや、さんどめのわかれになるようだ。ほんとうに、すうきなであいだった」
「ルビィ」
「……さぷらいずだよ。二人とも、わたしと共にいる」
幻のように最後のオーバードライブは揺らいで消え、瞳も元通りの澄んだ水色に戻った。
シルキーのサプライズ。
マスターには、ただの手の込んだ物真似とは思えなかった。
本当に彼女と共に居てくれたなら、なんて心強いだろう。次の世界でも、シルキーを守ってくれたなら。
祈るように、願うように、そう思った。
「二人がいるなら安心だな。……いいもの見せてもらったよ、本当に……ありがとうな」
「どういたしまして! です!」
最後は元気に。
あの泣き虫なシルキーが、笑顔で別れを告げて扉へ向かう。
できる事ならずっと共に居たかった、最愛の奴隷。自慢の娘のようにあちこちに連れ回した。
これが最後。もう二度と会うことはない。
それでも、幸せになってくれるなら。守ってくれる人が居るなら。
安心して見送ろう。
「じゃあな」
「また会いましょうです!」
扉をくぐるシルキーは、他の皆と同じように光の塵となって少しずつ分解され、世界の元に混じっていった。
首輪も一緒に、同じ光に融け合って一つになった。
何度目かの静寂が、扉の世界に訪れる。
もう、マスターと概念たちの他にはアリスしか残っていない。
最初に出会い最後まで共に人生を戦い抜いた、メイド服が似合う女の子。
「シルキー、行ってしまいましたね」
「……ああ」
「もう、私たち二人だけですね」
「ああ」
もう、最後の別れを済ませるだけだ。
マスターは諦観半分、愛念半分を綯い交ぜにした表情をしている。
それを見たアリス。
彼女は伏せていた顔を上げて、決意を秘めた瞳をマスターに向けた。
勝手な、最後の願いを伝えるために。
「私は、残ります」
風が吹き抜ける。
年明けの山頂で、朝日を拝みながら感じるそれのような、冷たく爽やかな空気の流れ。
二人は緩く髪を靡かせながら、目を細めた。
「……何故?」
マスターが、事もなげにそう聞いた。
赤子に対し、答えをわかった上で優しく諭す為の準備のような、あやすような声色で。
「……マスター一人では心配だからです。いつも危なっかしくて、ギリギリで戦って、最近はいつも一人で決断して、一人で戦って……もう抱え込む必要はないんです。一緒に行きましょう」
聖母のようではない、憐憫の思いからでもない。
純粋な願い。
ただ共にいて、共に終わりを迎えたい。それだけの思いが、アリスを突き動かした。
「もう遅えよ」
突き放すような物言い。
だが、その表情は、優しさに溢れていた。
アリスには、マスターが口に出さなくてもわかる。
このまま行ってしまうのだと言うこと。
それを止める手立てなどないと言うこと。
それでも、縋らずにはいられない。
どんな絶望的な状況でも、諦めずに戦ってきたのがマスターでありアリスなのだ。
マスターは、歩き出した。
アリスとすれ違い、扉の方へ向かう。
何度も時を同じく過ごし、何度か肌を重ねたその時の香りが、ふと鼻孔を擽った。
「え……?」
「お前が残ってくれるんだろ? じゃあな」
扉が開き、アリスが茫然とする。
するとは思っていなかった行動、意識の外の言動。
虚を突かれ、無意識に追いすがる。
自分を生贄にして、マスターは新しい世界へ行く?
数億桁年の暗闇に閉じ込められるのは、私?
私一人で?
そんな。
それじゃ、だって。
最悪。
「マスター……っ」
「そう、それでいいんだ」
マスターに駆け寄ろうと、一歩踏み出した。
そんなアリスの視界に飛び込んできたのは、扉の中身。
……え?
なんでこんな近くに。
足がもう、扉へ一歩踏み出している。
この体勢は、さっきのマスターと同じ。
この術は、ずっと前からマスターが好んで使っていた……。
「位置売買移動法。お前の位置を買って、俺と入れ替えた。……これが、最悪だ。覚えとけ」
アリスが涙に溺れる。声が声にならない。
絞り出したのは、現象として音になったのは、感謝でも謝罪でも挨拶でもない。
「マスターの、最悪!」
最悪の罵倒だった。
唇を噛みしめて、目を見開く。
違う、言いたいのはそうじゃない。
でも、でも。
もう時間が。
『大丈夫』
短い付き合いではない。
アリスの苦しそうな表情から悟ったマスターは、目じりを緩ませた。
『わかってる』
罵倒に対し、優しい笑顔で返したマスターを見たアリスは、胸を締め付けられる思いだった。
こうなる事をわかっていて、私を焚き付けて、やっぱり全部背負って消えるつもりなんだと。
視界が歪む。
滲んでいく。
最後なのに、マスターが見えづらい。
「何億年後かに、覚えていたらまた会おうぜ。なんつってな」
無理矢理振り返りながら、倒れ込みながら、扉の中へ吸い込まれていくアリス。
消えゆくその肉体の滲んだ視界には、最後の最後まで主人の姿が焼き付いていた。