131. 最悪の見送り
「そんな……」
「私たちの戦いは、無駄だったのでしょうか」
アリスが膝を付く。シルキーがわんわんと泣き始める。
混沌が、彼女たちを包んだ。
自分が生まれ育った世界は、壊れてしまったのだ。
「静かに」
マスターが、小さく皆を制した。
ぴたり、と静まる。
マスターは、消え入りそうな声でありがとう、と言った。
「大丈夫。また最初から、やり直せばいい。今度もまた、マスターに救われて、概念や是正者に襲われたりしない、同じ人生を歩みなおせばいい。……お前らの人生は俺が買った。お前らの一生を保障するのは、俺だ」
ぽつりぽつりと、呟くように言い放つ。
アリスが寄り添うように、背伸びをしてマスターの肩を抱いた。
「……なんとなくですけど、わかってしまいました。マスター、いつから資金が尽きていたんですか?」
「ストリガを倒したあたりから」
アリスは驚いた。
高額と思われる技術は全て、全く資金がないところから購入されていたのだ。
「……代償は、なんなんですか?」
「時は金なり、って言ってな。……一定の時間は一定の金と等価だという諺があるんだ。……足りない金は、時間で補われる」
「時間……で……」
「俺は、もう少ししたら全ての能力を取り立てられて、足りない分は完全な暗闇に閉じ込められた空間で長い時間を過ごす事になるんだ」
「……どれくらいの間……なんですか?」
アリスは、縋るようにマスターに抱き着いた。
マスターはアリスの頭を撫でながら、淡々と続ける。
「一年、って……長いか?」
「長いです。とても」
アリスは泣きそうだ。
それでも、マスターは言葉を紡ぐのをやめない。
「それを十回繰り返すと、一桁増えて十年になる。長いか?」
「……我慢できません」
「それを、じゃあ十桁に増やそう。十億年。長いか?」
「そ……想像も、つきません……」
マスターは、胸を震わせながら息を吐いた。
そして、少しだけ目を閉じ、平然を装って普通に言った。
「大体七兆と六千億桁。……数字で言ったら、何年って言うんだろうな。一を書いて、その後ろにゼロが七兆個続くんだ。それが、俺が背負った借金の返済年数」
アリスから見て、別段変わった様子のないマスターから出た言葉は、アリスを刺し穿った。
シルキーは再び我慢できなくなり、えんえんと声を上げて泣き始めた。
二千年の重さを知っているフィルは口元を押さえて青い顔をしている。
フランですら、絶句している。
「……時間でも数えて、気長に待つさ。ゴールは設定してくれてんだから」
「なんで、そんな、滅茶苦茶な借金を負ったんですか!!!!」
アリスは、渾身の力を込めてマスターの頬を張った。
全く痛くなさそうだ。
マスターの胸に顔を埋めて、力無く腕を、体を、何回も叩いた。
「バカ、バカ! 本当に! マスターが居なくちゃ、意味がないじゃないですか!」
「ばか! いつもそうだんしないです!」
シルキーが腰に纏わりつく。
気づけば、マスターは泣き顔の少女たちに取り囲まれていた。
「おいおい、そんなに泣くこたねーだろ。……次のお前らの人生にも、ちゃんとマスターは居る。もちろんここでの記憶は消えるけどさ」
「でも、……マスターだけがそんな目に遭う必要はなかったでしょう」
「みんなで、7兆5999億9999万9999『桁』年ずつ暗闇の世界へ行くか? ……十人で分け合ってゼロ一個取ったところで焼け石に水なんだよ」
「他の手段があっただろ!」
叫ぶリタ。
目を伏せて首を振るマスター。
「アリスの光断ちが無ければお前らは何回でも体がぶっ壊されて命の維持費がもっとかかってただろうし、俺の命は有限だからどっかで死んでたかもしれねえ。シルキーだってトリアナだって……全部が全部必要経費だったんだ」
「……そんな事って……」
力無く項垂れるアリス。
頭を撫で続けるマスター。
それを取り囲む、奴隷たち。
無言の時間は、それほど長く続かなかった。
落ち着いたアリスが、ぽつりと呟いた。
「……なんでマスターの事なのに私が慰められてるんですか」
不意にアリスはマスターから手を離し、顔をそっと掴んで、自分の胸に埋めさせた。
マスターはきょとんとしている。まるで予想外とでも言うように。
「私は、私たちは助けられてきました。そして、最後の最後の最期まで、私たちのために、頑張って頑張って救おうとしてくれた。そして、それは叶えられそうです。ただ、あなただけが救われない……」
「……それは違うぜ。俺は、俺が勝手に選んだお前らを囲って、理想の家族を作ってただけだ。感謝される謂われはねえ。……だからこそ」
だからこそ、と、そこでマスターは区切って空を見上げる。
アリスも、シルキーも、後に続いて空を見上げる。
扉が、壊れた扉が、ボロボロの扉が、無傷の扉が、様々な扉が埋め尽くすその先に空がある。
薄明るくて、蒼くて、清涼な、どこまでも広がる扉と空。
「……思い返せば俺は、人の為に何かをしてやったことがない」
「……おかし! 買って……くれた! です!」
「シルキー……そんなんでいいのか? ……色々買ってやったな。最初は……ふくろ焼きか?」
「うあぁ……ふれいとるびぃがまだ……いたころの……ますたぁ……いなくなっちゃうの……いやです……」
マスターは目を逸らして他の皆を見る。
唇を噛みしめて、様々な感情を抱きながら自分を見つめる視線に囲まれ、参ったな……とぼやきながら頭を掻いた。
「……俺が最初に生まれた世界ではな、俺はただがむしゃらに生きて、欲望を振り回して自分の為に金を使って、最終的に人様に迷惑をかけながら死んだ」
マスターは再び辺りを見回す。その語りに口を挟む者はいない。
真っ直ぐ、真っ直ぐ、見つめる視線が、マスターにはただただ痛かった。
一緒に行けない申し訳なさと、自分一人残る悲しみと……ちょっとした希望。
それらが綯い交ぜになったものが、マスターの表情を彩る。
「……こっち来てからも俺は、ただ夢中で生きて、人に利用されて、人を利用して。……最悪な人間だったよ」
「そんな……!」
アリスが割って入ろうとするが、マスターは手で制して続ける。
「悪いが最期も、俺の幸せの為に言うこと聞いてくれないか。人生で一回くらい、人の為に何かをしてやりたいんだ。最悪な俺からの願いだ」
「……その借金、あたしが代わりに背負ってやる。真っ暗闇は慣れてんだ」
「いいえ、私の番です。ティナは今度こそ報われなければなりません」
ティナが、トリアナが、反発する。
「それを言うなら私だって」
「わたしも!」
「ボクも。……七兆桁年くらい余裕だよ。ボクは誰より長生きしたから」
アリスが、シルキーが、フィルが。
「よくわかんねえけど俺だって平気だ!」
「師匠、……お世話になりました。私の命一つで済むなら……」
「……トワをたおしたこうろうしゃをしなすわけにはいくまい。わたしのいのちひとつですむなら」
リタが、ロズが、フランが。
我先にと、人柱になろうとする。
「……我はどちらにせよここで終わりだ。次の世界の礎となろう。周回を跨ぐのは他の神たちに申し訳が立たんのでな」
「……私たちはどうしたらいいんですー?」
「結局屋台、出し直せなかったな。まぁいい」
ガイアとメノ、カシューはほんの少しだけ他人事だ。
「……お兄さま。……前の周の私は『運命』になり……、その運命も滅びました……。果実の搾りかすのような私をどうか……使ってはくれないでしょうか……」
フェイトが、兄であるマスターに懇願する。
「それだけは絶対しねえよ。お前は俺の大事な妹だ。前の周だの搾りかすだの、そんなんどうでもいいだろ。お前はお前だ」
マスターは、フェイトの額を中指で弾いた。
う、と言って涙目になったフェイトの表情は……。
何故か少しだけ楽しそうだった。
昔を思い出してか、それとも。
「お前ら、一列に並びやがれ」
朗々と叫ぶ。
マスターからの命令。
身に染みついた反射。
マスターの奴隷たちは一斉に、一列に並ぶ。
付き合いの長い順に、左から右へと。
マスターはその列の右隅へと向かった。
そこには、大きな猫のような神獣が鎮座している。
「……ガイア。いいんだな」
「いい。お主の持つ親愛恋慕とこの我の魂があれば、次世代世界の神を作ることはできるだろう」
次世代世界の神。
ジョザイアやリコ、ガイアのような……神として最初に生まれる者たちを作る為に、ガイアと親愛恋慕に詰め込まれた魂を使う。
「……前の周のあの世界も、こうやって前の俺が創ったのかもな」
「さあて。それを知るのはあそこの概念たちだけだろう」
それを聞いた『歪み』は目の無い顔でニヤニヤと笑う。
教える義理はないと言わんばかりだ。
「何か言うことはないか?」
「リタよ、神獣守護の責務、大儀であった。両親も浮かばれるだろう」
「……待てよ! 俺はほとんど覚えてねえけど……父さんと母さんの事知ってるのか!?」
「もうすぐ忘れる、我も、お主も」
リタは隊列を崩しそうになったが、不動の周りの様子を見て思い直し、しぶしぶ整列に戻った。
「マスター=サージェント。あの世界はいい世界だったか?」
「最低だった、と言いたいとこだが、こいつらと出会えたからまぁ。よかったんじゃねえか」
ガイアは、くっくと呻く。そのまま壊れた扉の近くまで歩いていき『奴隷と能力と魔法の世界』の看板の上に座った。
「最悪の奴隷商人、マスター=サージェントの名に於いて命ずる。組み上がれ扉よ、世界よ。新たなる黎明を我が元に示せ」
マスターが、世界を買う。
また借金が増えるだろうが『最悪』の知ったことではない。
それでこそ最悪なのだ。
親愛恋慕が光を放ち、開いた扉にゆっくりと吸い込まれていく。
「先に行く。さらばだマスターと……その家族たちよ」
「達者でな」
ガイアは扉へと入っていく。
体を構成していた器が解け、魂が解放されていく。
親愛恋慕に封印されていた魂と混ざり、一つになった。
もはやガイアは、ガイアとしての存在ではなくなった。
それでも、マスターは忘れないだろう。
僅かな間だが共に居た、その神獣の事を。
その光景をいつまでも見ているマスターではない。
見送ったとなればすぐ後ろを向いた。
「メノ、お前さ」
突然マスターは、ガイアが抜けて端になったメノへと視線を移す。
メノは、いきなりの事で驚いた様子だ。
「はい、なんでしょうー?」
「……イージス経由でトワの事知ってただろ」
「……なんの話ですか?」
視線がメノに集まる。
慌ててロズが庇った。
「そんな事はない、私たちは……」
「ああいや、いいんだもうどっちでも。……興味本位って奴だ。カシューもそうだけどまさかここまでついてくるとは思わなかったぜ」
マスターは、メノとカシューの手をぞんざいに掴んだ。
二人は目を白黒させている。
私たちが何かしただろうかと、あれこれ脳裏を駆け巡らせていく。
「あ、え、それはいいが私たちどうなるんだ? この後……えっ」
「えっと、この手は……へ? ま、待ってください説明を」
メノとカシューをぐいぐい引っ張っていくマスター。
有無を言わさぬ力の強さと強引さだ。
そしてそのまま……。
「先行ってな」
「嘘、でしょ!」
「ちょっ……」
新世界の塵となって消えた。
メノとカシューの姿がなくなったあと、マスターは悠々と言葉を放つ。
「だいじょーぶだ。死ぬみたいなもんだけど他に手段もねーだろ」
「……説明くらいしてあげてはどうです?」
「どーせ記憶も消える」
やれやれと言わんばかりに手を左右に広げるマスターは……。
『俺よりマシだろ?』
と言わんばかりだった。