130. 崩壊
パックの死体が転がる、その空間の傍に、一人の……いや、一つの存在があった。
微かで、静かで、何もないように見える。
けれど、取り残されたその存在は、確かに自我を持って己が人生を想い、振り返っていた。
自分以外の全てを失って、最愛の者に触れる手も失くして、それでもただ想う。
それしかできなくても、伝える術もなく、相手もすでに息絶え、いなくとも。
微かな存在は、無い目をそっと瞑った。
……なんとなくこうなるってわかってたよ。
微かに見える運命の指針も、ちょっと前から崩壊の予兆を示していた。
パック。
君は、頑張った。頑張ったよ。本当に。
人に憎まれても、蔑まれても、自分の信じる道を歩んだ。
家族を捨てて、仲間を捨てて、人生まで捨てようとして。
最後には命をも捨ててしまった。
人を騙して、記憶を改竄して、強盗窃盗殺人、なんでもやったよね。
でも、君の目指す正しい世界の為だって信じて、手伝ってきた。
君はすごいよ。
信じた事を貫いて、最後に報われなくても努力して。
誰からも褒められなくても、結局犬死にに終わるとしても。
後ろ指さされながら、最低な人生を歩み切ったんだ。
君は真摯で、悪人で、褒められるような事何一つしてこなかったけど。
自分勝手なルールと、独善的とも言える決めつけと、……でも、自分が信じる正しさのために進んできた君を、私は信じてる。
私だけは、味方でいるから。
例え私が、君に作られただけの人格だったとしても。
私はもう、消えるだけの残滓。
私以外の全部があっちへ行ってしまったから。
ねえパック。
首のないパック。
あなたという『存在』は、今どこにあるの?
あなたという『概念』は、どこへ行ってしまったの?
私は今どこに居るの?
私は今、生きているの?
教えて、教えてよ誰か。
私の名前は……。
私の名前は、なくなってしまった。
私を残して、あっちへ行ってしまった。
私を残して、救われてしまう。
パックを愛した、私は、一体誰?
……なんて、思ってもみたけど……。
本当はどうだっていいんだ。
私という人格ができてから数年間、君に尽くせてよかった。
みんなであの世に行こう。
パックもギャランクも、私と同じところへ行けるならいいな。天国でも地獄でも、深淵でも虚無でも、どこでもない場所だって。
……バキバキと、世界が割れる音がする。
これが私の終わり?
それとも、全部が終わるのかな?
いいよ、思い残すことなんてない。
苦労も災難も多かったけど。
幸せな、幸せな人生だった。
私は、救われなくたって、いいんだ。
存在は、無い目を見開いて、世界の終わりを見届ける。
自分が愛した者が、努力して、生きて、生き抜いたこの世界の終わりを、ただ、ただ待ち、見続けた。
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カインは、予兆を感じていた。
全てがもう遅いということ。
取り残されてしまったということ。
この世界で、ずっと生きてはいけぬということを。
マスターに貰った少女たちに囲まれながら彼は想う。
……。
終わりか。
結局俺は、マスターの誘いを蹴った。
なんでだろうな。
意地か、勢いか。
俺は、ただ女を抱いて、ただ生きていけりゃよかっただけだ。
『最悪』に見放されたらその先などないとわかっていただろうに。
取り入って、ただ生きて、女をもらって、それじゃダメだったのか。
……利用されるというのにか。
それではダメだ。
それじゃあ。
ただの奴隷だろ。
なぁ、俺よ。
この2000年近く、俺は俺の快楽の為だけに生きてきた。そこに後悔はねぇ。
だがいざ世界が終わっちまうとなると、本当に何も残らねぇんだなって思うよ。
……でもよ、誇りって概念は無くならねぇと思うんだ。
俺が生きた、そういう世界があった。その事実も消えねぇ。
まぁ。
……いいか。
それで納得しとくか。
「じゃ、悔いのねぇように、喰い散らかしてくとするか」
「ご、御主人?」
カインは自分を取り囲む少女たちに、ぐりんと首を回して顔を向ける。
狂気ではない、柔和でもない。
納得、という言葉が一番似合う、そんな顔をしていた。
……目だけは爛々と輝いて、これからの行為に思いを馳せているようだが。
魔獣も斯くやと言わんばかりの視線に射貫かれた白いのと黒いのたちは、身を寄せ合って、もぞもぞと震えている。
「もうこれで終わりだ。これまでも、ここからも、全部意味なんてなくなる。全部が全部、無くなるんだ。んでも、出来事に、記憶に、価値を見出せるなら……お前らっつー概念に思い出でも刻んでけ」
「御主人……あっ……」
「ん……っ」
黄昏の刻は近い。
急ぐように、それでいてじっくりと、少女二人の衣服に手をかけ脱がせた。
黒と白のコントラストが映える。
じっとりと汗ばんだ柔肌を、手の甲で撫で上げた。
「……人生長かったけどよ、これまでに、この世界で、俺ほど女に関して幸福だった奴はいねぇんじゃねーか? 死んでも誇れるなこれは」
カインは行為の最中、大勢の少女と共に世界の滅びに巻き込まれて死ぬ事となる。
それは、死にざまとしては最も無様でいて、最も男の性の観点から見て幸福……だったのかもしれない。
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空間が千切れていく。
一裂きで10万人が死んだ。
強きも弱きも、老いも若きも、男女問わず。
偉かろうがそうでなかろうが。
平等に終わりが訪れた。
焼き菓子を割る様に、大地が割れる。
崩壊が始まって、終わるまでそう時間はかからなかった。
しゃぼん玉が割れるが如く。
空も海も地面も等しく虚無に飲み込まれ。
人も動物も魔物も歪みも一緒くたになって消滅した。
そこには、かつて世界があったのだ。
今何があるかと問われても、『何も』と答える事しかできない。
マスターが生まれ育ち、アリス達と出会い、冒険した世界は、いとも簡単に……痕跡すら残さずに消え去った。
この世界の事を覚えている者は、概念たちを除けば一人もいない。
……。
いや。