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放課後の魔少女――十年の孤独  作者: 結城コウ
第五幕「薄氷川」
89/106

15-3

「えーとさ、あの、俺、三鷹誠介。覚えてるかわかんないけど——」

 実のところ言葉を用意していなかった俺がしどろもどろに自己紹介しようとすると、もみじはそれを遮った。

『開ける。入って』

 小さな機械音と共に、オートロックが解錠された。

「……ありがと」

 エレベータで十二階まで上り、一二〇五号室を探す。いい感じの角部屋だった。

 部屋の前にもインターホンがあったので、ボタンを押す。

「あ、えーと……」

『入って。鍵はかかってないから』

 また何も言わせてもらえなかった。

「お邪魔します」

 ノブに手をかけて扉を押すと、広くて明るい玄関が目の前に開けた。もみじの姿はなかった。

「お邪魔しま〜す」

 もう一度声をかけて中に踏み込み、靴を脱いだ。

 廊下の突き当たりがリビングになっているようで、磨りガラス越しに灯が漏れている。

 ドアをノックしたが、返事はなかった。ノブを握ってそろそろと押し開ける。

「もみじ……でいいんだよな?」

 薄い反応に、とんでもない人違いを犯しているのではないのかと今さら不安になる。

 果たしてもみじはそこにいた。こちらに背を向け、ローテーブルに肘をついて窓の外を見ているようだった。室内の照明に、ロングの金髪がキラキラと輝いている。

 一幅の絵画のような光景に息を飲みながら、リビングの敷居を俺がまたぎ越そうとしたところで、もみじはそのままの姿勢でやっと言葉を発した。

「誠介はあたしのこと密かに何て呼んでいた?」

「もみ——」もみじ、と言おうとしてやめた。「ちびっ子」

「誠介の料理の唯一のレパートリーは?」

「……野菜炒め」

 俺はドアを開けた体勢のまま答えた。

「誠介が勝手に持ち出したあたしの備品は何?」

「マグライト」

「十年前の七月六日、一条家で開かれた勉強会で、あたしの右隣に座っていた人物は?」

「誰もいなかった」

「そのときあたしがやったゲームのタイトルは?」

「知らん。俺はその部屋に行っていない」

 もみじはそこで小さな間を入れた。

「——誠介が今好きな女の名前は?」

「……高原詩都香(しずか)

「……十年経ってもこれだもんね。やっぱ誠介は誠介だ」

 そこでやっともみじが振り返った。

 俺は再度息を飲んだ。

 もみじが微笑む。

「おかえり、誠介」

「ああ。ただいま、もみじ」

 俺はようやく部屋への立ち入りを許可されたようだ。

 それにしても……。

「どうしたの、誠介?」

「いや、お前、本当にもみじなんだよな……?」

 もみじの向かい側まで歩きながら、まじまじとその顔を凝視してしまった。

 さっきはひと目でもみじと認識できたけど、改めて間近に見るとその成長ぶりは……。

 振り向いたその顔を目の当たりにした瞬間の衝撃は、高校入学式の日に高原と出会ったときのそれに匹敵した。

 美人になるだろうとは思っていたが、成長したもみじがこれほどとは。

 ぼんやりしたまま対面に座った俺の顔を眺めつつ、もみじはくすくすと笑みをこぼした。

「びっくりした? ずっとその反応が見たかった」

 俺の知り合いの美形どもと違い、もみじは自分の容姿に自覚的であるようだ。ここは昔と変わっていない。

 だけど、その自信のほども理解できる。

 元々ハーフっぽい見た目だったが、成長した今になって、それが素晴らしい効果を発揮していた。派手めに見える金髪なのに、小作りで楚々とした顔立ちと合わせると華美に流れず、むしろひと花添えるに留まっている。ツリ気味だった目元も落ち着き、あどけなかった丸顔も年相応の面差しに変化していた。

 ……胸も。

 正面に座ってわかった。一条には負けるかもしれないが、小さく見積もっても魅咲(みさき)と同等。さっきの河原で印象に残った脚線美といい、すさまじいまでのプロポーションだった。

「ちょっと。久しぶりの再会だってのに、どこを見てるの」

 もみじが形だけ眉をひそめた。

 負けた、と俺は思った。この俺が、相手の戦力をここまで見誤るとは。

 そんな俺の当惑と敗北感をよそに、もみじは立ち上がった。

「お茶出すね。誠介も運動して喉渇いたでしょ」

 そう言い、遠慮しようとする俺の返事も待たずにリビングの片隅にあるガラス戸棚に向かうと、ティーバッグの紅茶を出してくれた。

「ほんとはね、誠介が追いかけてきてるのわかってた」

「ああ、だろうな」

 まだぼけっと魂を半ば奪われたままカップを受け取り、俺は頷いた。

「どうして声をかけてくれなかったの? 大声で呼んでくれれば止まったのに」

「街中で大声を出すのは恥ずかしかったし、それに、何て声をかければいいのかわからなかった」

「誠介も遠慮ってものを会得したんだ?」

「違う……じゃなくて、俺はもともと遠慮の塊のような男だ。——いや、そうじゃなくってな。もみじが俺の声を覚えてるか、自信なかった。いきなり大声で呼ばれたら、逃げ出すんじゃないかと」

「相変わらずバカなんだから。あたしが誠介の声を忘れるわけないでしょう?」

「……ああ、バカだった。でもお前こそ、俺が追っているのがわかってどうして止まってくれなかったんだよ」

 少し怒ったフリをしてやろうと思ったが、できなかった。

「だって、あたしにとってこそ不意打ちだったもん。それでね、あたしの知ってる誠介だったら絶対に追ってきてくれるって、あたしが漕ぐ自転車なんかに引き離されたりしないって、そう思って」

「自転車、乗れるようになったんだな」

「うん、練習した。薄氷(うすらい)川の河原で。何度も転んで小学生から笑われたけどね。昔感じた、誠介のバランスの取り方を思い出しながら」

 十年ぶりの再会だというのに、奇妙な会話だった。もっと他に話すことがあるはずだ。

「無事でよかったよ、もみじ。心配してた」

 もみじは小さく首を振る。

「大変だったんだよ? この十年、仕事しながら誠介の手がかりを探してた」

「お前、俺が死んだって思わなかったのか?」

 もみじは少しだけバツが悪そうに視線を落とした。

「信じようとしてた。ううん、信じたくなかったってだけかもしれない。あたしの助手がそんな簡単に死ぬもんか、って。でも、二年が経ち、三年が過ぎると、さすがに弱気になっちゃった。しかも、そうこうしている内にとんでもないことが起こった。誠介があんなこと言ってからたった三年半。〈リーガ〉が滅んだの。誠介が本当にやってくれたのか、って思った」

〈リーガ〉なんて俺が叩き潰す、などという大言壮語を、もみじはまだ覚えてたのか。

「でも、違った。やったのは高原だった。……って、もう知ってるか。ねえ誠介、この街の様子は見た?」

「ん? ああ」

 俺は首肯した。

「ずいぶん変わっちゃったでしょ。この街、これでも治安がいい方なんだよ? 危険な〈夜の種〉は滅多に近づかないし、この街で生まれてもすぐに外に逃げる。食い詰めた流れの魔術師もここではあまり悪さができない。みんな高原を恐れているの。おっかないよ、今の高原は。本人にその気は無くても、ひとたび高原がフルパワーで〈モナドの窓〉を開けば関東中の〈夜の種〉が震撼する。ありえない、圧倒的な魔力。前はあまり無かったんだけど、この一年くらいは頻発してる。たぶん、日本中の〈夜の種〉が力を合わせたって今の高原には勝てない。だいいち高原が〈モナドの窓〉を開いたら、その上あの異才——〈開放〉を使ったら、その余波だけで弱い〈夜の種〉は気死しそうになる。あたしも何度よそに逃げ出そうと思ったか。……ねえ、褒めて?」

「ん?」

「あたしはそれでもこの街を離れなかったんだよ? 誠介がいつか帰ってくるかもしれないって、ずっと待ってたんだよ?」

 もみじはテーブル越しに飛びかかってきた。ティーセットがまとめて吹っ飛んで絨毯に染みを作った。

 俺はもみじに抱きつかれていた。

 あの頃のように軽くはない。ちゃんと手応えのある、俺と同世代の女の感触だった。

「バカ。どうしてあんなことしちゃったのよ……バカ。バカバカバカ……」

 もみじの声が、次第に弱々しくなっていく。

「……もみじ、あのさ」

「何よ、バカ」

 もみじは俺の胸に顔を埋めたままだった。

「その口調、何とかならねえかな。さっきからものすごい違和感なんだわ」

 もみじは顔を上げた。目の周りを赤く染め、今にも泣き出しそうな表情だった。

 俺たちはしばらく見つめ合った。

「……誠介ったら、ほんとバカなんだから。雰囲気考えてよ……」

 そこでもみじは少しだけ体を離して右手を振り上げた。

「——あたしは十年間、お前に会ったら何て言ってしばいてやろうか考えてたんだぞ、阿呆!」

 もみじの掌が俺の左頬に炸裂した。

 ああ、これでいい。

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