13.「『暗』と『眠』」〜悲しき希望
泣き止んだ魅咲に肩を貸してもらうことになった。
最初は俺の方が送ってやるつもりだったのに、二、三歩踏み出したところでよろめいてしまった。まったく、情けない。
「あんたを詩都香の部屋まで送ってくなんて複雑……」
いくらか調子を取り戻した魅咲はそう口の中で呟き、俺の腋に肩を差し入れた。身長差があるので若干歩きづらかった。
「でも、ちょっとすっきりしちゃった」
「そりゃあんだけ暴れればな」
魅咲が首を振った。ポニーテールが俺の首筋をくすぐった。
「そうじゃなくってさ。さっきまでのあたしたち、やっぱりちょっと変だった。十年ぶりの再会だってのに、詩都香のことばかり話して。詩都香には悪いけど、あたしだって他のこといろいろ話したい」
そんな魅咲と、道々、昔の話をした。今から数えて十年前ではなく十五年以上前の、俺たちが小学生だった頃の話。
級友たち。
学校帰りに遊んだ公園。
寄り道した駄菓子屋。
今にもぽっくり逝きそうな爺さんが一人で店番していた、陰気な古本屋。口さがない子供たちは、“バイオ爺さん”と呼んでいた。
「あの店、十年前はまだあったぞ。爺さんも相変わらず座ってた」
「うそっ!?」俺が教えてやると、魅咲は素っ頓狂な声を上げ、それからけらけらと笑い出した。「ほんとにゾンビだったりして」
失礼な奴だな。
細部で記憶の食い違いが起こると、魅咲は絶対に自分の方が正しいと主張した。
「いやいやいや、俺は三か月前まで住んでたんだぞ」
「いーや、絶対にあたしが正しい。あんたの記憶違い」
そんな風に断言されると自信がなくなる。見慣れていたはずの日常風景は、短期間で予想外にぼやけ始めていた。
「にしてもお前、よく覚えてんな」
「だって、あたしにとってあの頃の思い出はひとつひとつが宝石みたいなもんだもん」しばしの無言を挟んで、魅咲はそう言い切った。
「あの後生活ががらりと変わっちゃったから、あの街の風景はそのままあたしの記憶の中に固定されちゃったの」
話す内容の割に、すこぶる明るい声だった。
「……あんたのこともね。あんた、教室であたしが声をかけるまで、すっかり忘れてたでしょ。あたしは一目でわかったよ」
そんなことはない。魅咲のことを忘れていたなんてこと、絶対にない。ただ、あの時は高原を眺めていて、周りが目に入らなかっただけだ。
とはいえ、一目で魅咲を認識できたかというと、ちょっと怪しい。
だって――
「だってお前、すげー綺麗になってんだもん。わからなくてもしかたないだろ」
俺としては巧い切り返しのつもりだったが、魅咲の反応はなかった。
代わりに、俺を支える肩が小刻みに震えていた。
「魅咲……?」
心配になって肩ごしに顔をのぞき見ようとした。
その途端、体を支えていてくれた力が消失し、俺はたたらを踏んで転倒しかけた。
「あっぶね。お前な――」
「……昔は可愛くなかったって言うの?」
どうにか踏みとどまり、文句の一つでも垂れてやろうと思ったが、出鼻をくじかれた。魅咲の声は怒気を孕んでいた。
あれれ? 選択肢を間違ったか?
「いや、そんなことは……」
泣いているのかと思っていた俺は、言葉を取り繕いつつも安堵していた。
ま、魅咲はこうじゃなきゃな。
さて、後はこの場をどうやって切り抜け……
「魅咲……?」
魅咲は、やっぱり泣いていた。
「……ばか。あんたが変なこと言うから。また……」
その声にはさっきのような湿り気はなかった。それでも涙はとめどなく溢れてくる。
「まったく。お前まで、いつからそんなに泣き虫になったんだよ」
魅咲がハンカチで目頭をぬぐう間、俺はブロック塀に背中を預けて待っていた。相変わらず情けないが、魅咲の支えなしでは動けん。
「……あんたのせいでしょ。ん、お待たせ」
バッグにハンカチをしまい、こちらに歩み寄ってくる魅咲。街灯に照らされたその顔を見て、俺は思わず口に出してしまった。
「お前、結構厚化粧なんだな」
一秒後には行き倒れ同然の姿で路上に横たわる羽目になっていた。鳩尾を正確に射抜く見事な貫手だった。
さっきの乱闘で殴られていないところを狙ってくれたのは、魅咲なりの心遣いなんだろうな、きっと。
「……ったく、これじゃまるっきり逆でしょ」
「誰のせいだよ」
今度こそ足腰の立たなくなった俺は、魅咲に負ぶってもらっていた。まあ、お互い自業自得と言える。
「変なところに腕回さないでよ?」
「年増の胸なんて揉まねーよ」
「くっ、口の減らない……」
わなわなと怒りに震える魅咲だったが、さすがに放り出したりはしなかった。
俺を負ぶってなお、その歩調はさっきまでとあまり変わらない。いやぁ、力強いなぁ。
耳に息でも吹きかけてやろうかと、俺がさらなる悪戯心を起こしていると……
「ま、あんたのその根性だけは認めるわ。相変わらず何があってもへこたれないんだから」
ふう、と魅咲が一つ大きく息を吐くのが感じられた。
「あのときも、もっとキツく言ったところで、きっとあんたはあの場に来ちゃったんだろうな」
「ったりめーよ」
今の俺の最高の笑顔、魅咲が見ていないのが残念だ。
「……詩都香のため?」
「んあ? ……あ、そこを右」
答えづらい質問だった。はぐらかすことにした。
それ以上追及してくることなく、魅咲は俺の指示通りに右折した。魅咲も二、三度高原の部屋を訪ねているらしいのだが、道順の記憶はあやふやだった。
……お、そうだ。
とっさに浮かんだ妙案を、早速魅咲に提案してやることにする。
「なあ、魅咲」
「あによ?」
「今度の土曜日、休みか?」
「……うーん、今日残業せずに仕事残してきちゃったから、明後日の午前は出社かなぁ。午後なら大丈夫。なんで?」
うげ。今日は木曜日だったのか。そういえば、曜日や日付の感覚がさっぱりだった。
明後日かぁ、ちょっと急だな。
――だけど俺はへこたれないぜ。なにしろ魅咲のお墨付きだからな。
「じゃあ、明後日の午後、俺の地元に二人で行ってみようぜ。やっぱお前の記憶力あてにならないしさ、さっきの話、どっちが正しいか確かめてやる」
魅咲の足が、一呼吸の間止まった。
「……それ、いいかもね、うん」
足の代わりに、声が弾んだ。
「だろ? まあ、俺が知ってる頃から十年も経ってるんだし、変わってる所も多いだろうけどさ。十二時くらいに駅で待ち合わせでどうだ?」
「う〜ん、十二時半で。それくらいには終わってるだろうし。電車乗る前にお昼も食べてこうか」
「そうだな。……あ」
「あー、ご飯と電車代くらい心配すんな。詩都香からもらったお小遣いであたしとデートなんて、あんたもヤでしょ?」
俺が言い出しかねていたことを、魅咲は見抜いていた。
「なんか悪いな」
「いいって。年増の社会人なめなさんな」
さっきのを根に持っているようだ。
そこでようやく俺たちは、高原の住むアパートの前にたどり着いた。エレベーターのボタンを押してから、魅咲は俺を下した。
うん、やっと立てるようになった。
「寄ってけば? いや、俺が言うのも変だけど」
魅咲はかぶりを振る。
「ううん、今はいい。詩都香と顔合わせづらいし」
「なんで?」
「いいってばいいの」
エレベーターが来た。
踵を返す魅咲に俺は声をかけた。
「じゃあ、明後日な」
「……うん。楽しみにしてるから」
にこっと笑う魅咲。
普段の弾けるような笑顔もいいが、極々稀に見せるこいつのこういう穏やかな微笑は俺をほっとさせる。そういえば、こんな表情を見るのはこっちに来てから初めてかもしれない。
――でもな、魅咲。
歩み去っていく魅咲の背中をエレベーターの扉のガラス越しに見送りながら、俺は思う。
へこたれないだなんて、そんなことねーぞ。今日だって俺は打ちのめされてうじうじしてたんだから。俺から見れば、お前らの方がよっぽどすげーよ。
エレベーターが上昇を始めた。
その瞬間だった。
頭痛を引き起こしそうなほど強烈な耳鳴りが襲いかかってきた。




