11-4
「悪い、マスター。これで足りなかったら、請求書回して」
めちゃくちゃにしてしまった店の設備の弁償のため、琉斗が懐から取り出した高額紙幣の束を握らせた。――って、二十枚や三十枚じゃきかないんじゃないのか?
素早く計算を巡らせたマスターは、にこにこと笑って琉斗の背をたたいた。
「久しぶりだな、りゅうくんがこんなに暴れるのは」
次いで、俺の方を見る。
「兄さん強いねえ。うちの用心棒なんてどうだい?」
冗談とも本気ともつかなかった。曖昧に笑って頷き、琉斗と連れだって歩き出す。
肩を貸してやろうと思ったが、琉斗はそれを断り、自分の足で歩き出した。
目的地はわからない。
「お前、こうなることを予想してたのか?」
いくら一企業の重役でも、さっき取り出した金額は、普段から持ち歩くには多すぎる。
「ひょっとしたら、ってくらいですよ。俺自身、自分がどれくらい思いつめているのかよくわからなくて、果たして姉のことでキレることができるのか、半信半疑でしたから。あ、もちろんあんな大立ち回りになるとは思ってませんでしたよ。……でも、三鷹さんが今の俺よりずっと強くてよかったです。俺もこの十年、かなり鍛えたんだけどなぁ」
「どゆこと?」
「俺だったら姉を助けられた――なんてことを考えずにすみます」
ふーっ、と俺は深い溜息を吐いた。挑発されてカッとなった自分がバカみたいじゃないか。
「ところで――」
横を歩く琉斗が立ち止った。
「さっき殴らせてもらったので恨みは晴らしたわけですが、もうひとつだけ、ついでに恨み言を聞いてもらえませんか?」
「……あ、ああ。いいけど」
今度はなんだろう――そうひそかに身構えた俺の予想をはるかに越えた言葉を、琉斗は口にした。
「おね……あね――もうお姉ちゃんでいいや。お姉ちゃん、初めてじゃなかったでしょ? いや、すいません。もう知ってるんで」
「う、ああ……まあな。――でも二十五歳の女性なら珍しいことでもないんじゃないか?」
実際はちょっとショックだったけどな。ていうか、なぜみんな知ってるんだ?
「そこで恨み言なわけで。……お姉ちゃんね、レイプされたんですよ。……三鷹さんのお兄さんに」
「……は?」
この日一番の衝撃だった。
俺たちは近くの喫茶店に場所を移した。
一目で乱闘の後とわかる酔客二人だったが、好奇の目を向けてくる者は少なかった。暴力沙汰なんて、日常茶飯事なのだろうか。
薄々とは感じていたが、どうやらこの街の治安は酷く悪化しているようだ。
思考がフリーズするなんて、比喩表現だと思っていた。でも、琉斗の言葉を聞いた俺は、生まれて初めてそれを体験していた。
「はは、冗談だろ……?」
あの兄貴にそんな度胸があるわけない。そもそも高原が抵抗したらどんな男だって……。
――そう思い、一笑に付そうとした。
だがこちらの勝手な期待を裏切り、椅子に座った琉斗は至極真面目な顔で語りだした。
「実際のところ、双方同意の上だったって言えなくもないし、レイプかどうかは怪しいですけど。三鷹さんが消えた事件、不発弾が爆発したことになったって聞いてます? ――そう、それで、お姉ちゃんは退院した後、三鷹さんの実家に謝罪しに行ったみたいなんですよ。不発弾を見に行こうって言い出したのは自分だ、って名乗り出て。悪いのは自分だって思い込んでね。それで、ご家族に激怒されたみたいです。
なんで知ってるかって? さっき話しましたけど、お姉ちゃんの部屋を荒らした時に、隠してあった日記帳を見つけちゃって。魔法とかなんとか、またバカなこと書いてるな、ってその時はせせら笑いながら読んでたんですけど、その箇所だけなんか生々しかったんですよね。
結局三鷹さんのご両親には許してもらったみたいです。うちの息子も軽率だったって。でも、お兄さんは……」
琉斗はそこで声を詰まらせた。
状況はどうにか飲み込めた。
身内の恥を晒すのも気が引けるが、兄はコンプレックスの塊のような男だった。
少なくとも俺よりも優秀だし、格別不細工だというわけではない。ただし人を見下す癖があり、しかもそれが露骨に相手に伝わるのだ。
それだけならまだいい。さらにねじくれているのは、常に相手を見下しておかないと自分を保てないというその弱さだ。そしてその弱さの方も隠すことができていない。
兄と相対していると憐憫の情を掻き立てられるし、それによって兄はますます自分を高く見せようとする。
俺が知る限り女性との縁なんて何一つなかった。そのくせ性欲だけは一丁前で、都内の大学に入ってからも、女から相手にされないことにかなり鬱憤を溜めていた。くだらないプライドを保つために、周りはビッチばかりだ、自分の相手が務まる女なんてあの大学にはいない、なんてことを憚ることなく公言するような奴だった。
俺はそんな兄を嫌い抜いていたし、向こうも俺と顔を合わせようとはしなかった。
そんな男の前に、高原みたいなのがやって来たらどうなるか。
俺が言うのもなんだけど、たぶん高原は兄の好みのどストライクでもあるはずだ。可憐と清純を絵に描いたような見た目。男なんて相手にしないというような凛としたオーラ。そして女子高生という、もはや兄にとっては接点のなくなったはずの身分。
そんな少女が、大きな負い目を抱えながら現れたのだ。あいつが放っておくわけがない。
あいつが汚ねぇモノで高原を……?
それも、よりによって俺を口実にして?
「知ってますか、孝平さん、今入院してるのを?」
「……ああ、魅咲から聞いてる」
今の今まで忘れていた。
「精神病棟です。謝っておくべきでしょうね。あれ、伽那がやったんですよ」
驚きはあったが、納得もできた。
「……よくやった、と言うべきなのかな」
琉斗が一条にその話を打ち明けた時、俺の兄と高原の関係はもうずいぶん長く続いていたらしい。
一条は激昂した。……あの一条がだぜ?
そしてそのまま兄貴の住む都内のアパートに飛んでいき、魔法で精神を焼き切ったのだそうだ。
「その時抱えていたありったけの憎しみを叩きつけてやった、って戻ってきた伽那は興奮気味に語りました。今も幻覚に怯え、病院で治療を受けていますが、孝平さんの精神が元に戻ることはないでしょうね」
複雑な心境だった。嫌っていたし、高原に対して許されないことをしたとはいえ、哀れな末路だった。
「でもね」琉斗は続けた。「次の日から、今度は伽那の方が参っちゃって。許されないことをしてしまった、って後悔して寝込んじゃいました。人を呪わば穴二つ、ってんでしょうね、こういうの。その内伽那まで神経症にかかっちゃいました。それまで俺の知ってた一条伽那は、いつもにこにこ笑っていて、そうでない時は本気で泣く、内に溜め込むなんてのとは無縁の女の子でしたから、面食らいました。伽那のこと好きだったけど、まだまだ全部を知ってるわけじゃないんだなぁ、って」
「一条が部屋から出てこないのは……」
琉斗はぷらぷらと手を振った。
「いや、それはとっくに完治しました。罪悪感は抱えてるかもしれませんが、もう大丈夫みたいです――って、三鷹さん?」
体が勝手に動いた。俺は席を立ち、琉斗の前で土下座していた。
琉斗は狼狽して俺を立たせようとした。
俺は抵抗した。
「やめてくださいよ、三鷹さん。さっきは恨み言だなんて言ったけど、三鷹さんを責めるためにこんなこと話したんじゃないんです。ただ、お姉ちゃんとこの先も暮らすんだったら、知っておいてほしかっただけで」
羽交い絞めにされて、むりやり立ち上がらされた。周囲の視線が集まってきた。
「琉斗、俺を殴れ。殴ってくれ」
「さっき殴らせてもらったじゃないですか。それでいいでしょ」
「俺の気がすまないだろうが!」
「俺に殴られたら気が済むんですか!」
「済むわけねーだろ!」
「だったら殴らなくてもいっしょでしょう!」
悔しいが正論だった。琉斗に殴られることで少しでも罪悪感を晴らそうとしてどうする。
「ほら、座って」
抵抗をやめた俺を、琉斗は席に座らせた。
「どうしたらいいんだろう……」
ぽつりとこぼしてしまった俺の呟きには反応せず、琉斗が口を開いた。
「三鷹さん、お姉ちゃんに対して申し訳なく思ってるわけですよね? 軽率な行動をとったことで」
「……今は高原にだけじゃない。一条にも、お前にも申し訳なく思ってる」
「だったら聞かせてくれませんか? あの時、どうしてあの場所に行ったのか」
「いやだ、ってわけにはいかないんだろうな……」
琉斗は微笑んだ。
「別に強制はしませんよ? 話したくなければ結構です」
くそ、こいつは確かに有能な経営者になってやがる。俺に拒否権がないのを知った上で、あくまでも自主的に喋らせる気だ。
「わかったよ。言っておくけど、全然大した理由でもないし、お前が納得できる答えかどうか保証はできないぞ」
「もったいぶらないでくださいよ」
「もったいぶってるんじゃないんだ。たださ、お前にはちょっと話しにくいんだよな。俺と高原の仲を応援してくれていたお前には」
こうして俺はその理由を話し始めた。五年分の話だったが、言葉にすると思ったより短く済んだ。
琉斗が複雑な顔でコーヒーの残りを呷ってから、俺たちは同時に立ち上がり、レジに向かった。
「会計は俺が持つよ」
琉斗の手から伝票をひったくろうとしたが、かわされた。
「いいですよ。それにそれ、お姉ちゃんのお金でしょ?」
ちょっとグサッと来た。早く俺もこっちでの活計の道を探さないとな。
店を出て駅前通りに出てから、琉斗はタクシーを止めた。
「最後にひとつ、いや、ふたつだけ」別れ際に琉斗は言った。「お姉ちゃんは孝平さんとのこと、誰にも知られていないと思ってるはずですんで、絶対に本人には言わないでくださいね。昔ほど鋭くないけど、態度とかに出してもバレるかもしれませんので。それから俺と伽那のことはもういいです。三鷹さんを裁く資格がある人間がいるとしたら、それはあの時のことで一番傷ついた人間ですよ」




