11-2
「姉があの頃やっていたことについては、伽那から聞いています。でも、どうせならもっと早く教えてほしかったな。知ってのとおり、我が家では姉が母親代わりみたいなものでしたからね。そんな姉が、突然学校をやめて家にも寄りつかなくなったわけで。親父も相変わらず不在がちだったし、家の中は荒れ放題でした。たまに相川先輩や伽那が世話を焼きに来てくれたけど、俺もガキだったから、ちょっとグレちゃって。今となっては言い訳ですけどね」
俺の知る琉斗は、姉とは違って普通の、年相応に明るい少年だった。母親代わりの高原の不在は、相当に応えたのだろう。
「やっぱり俺、姉に甘えてたんでしょうね。あの頃からこの辺りも段々不穏になってきていたし、悪い奴らとつるんだりもしました」
「は? お前……」
俺はそのまま絶句した。
小倉とかいう中学生を悪い仲間から抜けさせるためにこいつとふたりで奔走したことは、まだ俺の記憶に新しい。
——こいつ、自分が同じ轍を踏んだのか。
「バカみたいでしょ」琉斗は自分を嘲笑った。「覚えてますよね、三鷹さん。あの海浜公園でのこと」
「当たり前だ。俺にとってはついこないだのことだ。お前、本当にバカだな」
年上になった琉斗に対してもう少し萎縮するかと思っていたが、アルコールの効果か、俺の舌は滑らかに動いた。
「自分が道を踏み外したことも姉のせいにしたりして。それで、自分でもどうしようもない奴だとつくづく嫌になって、ストレス溜めこんだんですよ。一度、親父が死ぬ少し前だったかな、姉の部屋をめちゃくちゃに荒らしちゃったことがあって。バットを振り回してね」
「それはまた……」
思いつめた行動だ。高原のことを知っている人間だったら、とてもそんな真似はできない。
「不思議なことに、姉は次の日に帰ってきました。とんでもないことをしてしまったってことはわかってても、こっちも意地ですからね。『悪いのは姉貴だろう』って。声をかけられても返事もせず、自室に閉じこもってました。姉も、自分の部屋の異状と俺の様子に、察するものがあったんでしょう。何も言ってきませんでした。
ただ、一度トイレに行こうとして姉の部屋の前を通りかかったら、ドアを開けたまま、めちゃくちゃになった部屋の真ん中で膝を抱えて泣いてるのが見えて。あんな姿を見たのは、後にも先にもあれっきりでした。姉も普通の女なんだな、ってその背中を見て思いましたね。その後の親父の葬式でも泣かなかったのに。自分が姉にずいぶんな負担をかけていたことを、やっと思い知らされました」
しみじみ語りながらグラスに口をつける琉斗の目が潤んでいた。本人にとっても苦々しく切ない記憶なのだろう。
琉斗はまたウィスキーのお代わりを頼んだ。運ばれてきたグラスを片手に、またぽつぽつと語りだした。
「単純なもんで、罪悪感に駆られちゃって。親父が死んだあと、その頃付き合ってた奴らと縁を切ろうとしたんです。もう姉を泣かせちゃいけない、ってね。でも三鷹さんもよく知ってるとおり、ああいう奴らって、そういうのにうるさいでしょう。十数人でぼっこぼこにされました。冗談抜きで殺されるんじゃないかと思いましたよ。そこに来てくれたのが相川先輩でした」
――さっきから見てたけど、もう十分ケジメはつけたでしょ? その辺にしといたら?
琉斗を包囲する奴らの真ん中に立って、魅咲はそう言ったらしい。とはいえ、暴力的な興奮のただ中にいる少年たちに、そんな言葉が通用するはずがない。むしろ、そんな現場にのこのこやって来た綺麗目の女の子なんて、新しい獲物にしか見えなかったことだろう。
「このままじゃ相川先輩も酷い目に遭うって思って、どうにか立ち上がりはしましたけど、体が動かなくてね。それでもなんとか一歩踏み出したときには、大体終わってました」
目に浮かぶようだ。多少喧嘩慣れしたくらいの少年たちでは、魅咲の相手にはなるまい。
「ぶっ倒れて呻くあいつらの前で、相川先輩は何をしたと思います? ヒント――全員バイクに乗ってやって来てました」
少しの間考えた後、俺は答えた。
「もう手を出すなパフォーマンス。素手でバイクをぶっ壊した」
琉斗はにやりとした。
「正解。その場では戦意を喪失していたけど、またこんなことがあるかもしれないって考えたんだと思います。次に琉斗に手を出したら全員このバイクと同じ目に遭ってもらうから、って。チョップ一発でフレームまで切断ですよ? もう誰も何も言えませんでした」
壊されたのは俺の愛車だったんですけどね――そう言って琉斗はくっくっく、と笑った。
「今だから言うけどな、あのとき海浜公園に来たのも——」
「わかってます。俺もね、さすがにあの人数を三鷹さんがどうにかしたってのはおかしいかな、とは思っていたんですよ。相川先輩なら納得です」
そんなことを言われても腹は立たなかった。魅咲との力の差はわきまえている。
「親父の葬式を終えてから、姉はまた家を空けたんですけど、しばらくしてからひょっこり帰ってきました。それで、もう全部終わった、もうどこにも行かない、ずっとそばにいるから、って抱きついてきて。気恥ずかしかったけど、突き放せなかったな」
高原が〈リーガ〉を滅ぼした後のことなのだろう。
それからしばらく、高原家には平穏が戻った。高原はまめまめしく弟の世話を焼いたらしい。
「その頃俺は高校三年生でした。もう仲間とはきっぱり切れてたけど、成績は最低だし、進学なんて考えてもいなくて、就職するつもりでした。早く稼いで姉を支えてやろうって思ってました」
高原はそれを許さなかった。朝晩の食事と昼の弁当を作り、日中はバイトして、早朝と夜には琉斗に勉強を教えた。高原の教え方が上手かったのか、それともあいつの弟だけあって勉強の才能があったのか――おそらくその両方だろう、数か月で琉斗の成績はめきめきと伸びた。おかげで琉斗は誰もが知る有名大学に合格することができた。
琉斗は都内の大学に進み、一人暮らしを始めた。別の大学に進学していたものの近くに住んでいた一条が足しげく通うようになり、やがて二人は同棲を始めたのだそうだ。
「なんだよ、結局ノロケ話かよ」
「まあ、そういう面もありますけどね。実際のところ、実家から大学までは電車で一時間ちょい。通えない距離じゃなかったんですよ。でも、早く家を出たかった。というか、姉から離れたかったんですよ」
「姉の献身が重荷になってきたのか?」
ありえないことではない。さっきの話だと、高原はほとんど四六時中琉斗に尽くしている。悪いけど、正直、ちょっと重たいと思った。
「……というか、このままじゃ姉はダメになると思いました。俺だってその頃にはもう、反抗心も失せていて、むしろ今までずっと姉に甘えっぱなしだったことに気づいてましたから。姉がバイトしてたのは生活費を稼ぐためではあったけど、うちは別にそこまでお金に困っていたわけじゃないんですよ。俺は知らなかったけど、親父は意外にも高給取りで、保険金とかも合わせてかなりの金額残してくれてましたからね。でも姉はそれに手をつけようとしませんでした。『わたしはこれを使う資格がない。大学に進んだら琉斗が使って。それまではわたしがバイトで何とかするから』って。
俺はそんな姉に異を唱えることができませんでした。でも、これはまずいんじゃないかな、って。三鷹さんのことで姉が責任を感じてるのは知ってたけど、そろそろ自分の人生を再スタートさせてもいいだろうって」
すいません、本人の前で、と琉斗は肩をすくめた。言葉ほど悪びれた様子ではなかった。
「ここに居たら、今度は大学の四年間ずっと姉を縛りつけることになる――そう思って、家を出たんです。姉は親父の遺産をそっくりよこした上に、月々の仕送りまでしようとしてくれましたけど、それはきっぱりと断りました。電話で言ってもなかなか聞いてくれなくて、毎月送金されてたんですが、とうとうある時、全額送り返して口座を解約しました。今でも俺の口座は知らないはずです」
そこまで語った琉斗は、いったん席を外した。俺がちびちびビールをやっていると、トイレから出た琉斗がマスターとふた言み言会話してから戻ってきた。
「でもね」そう言い継ぐ琉斗の手の中で、グラスの氷がカランと澄んだ音を立てた。「今じゃちょっと後悔してるんですよ。俺がそばに居てやったら、それで好きなだけ世話を焼かせてやったら、ひょっとしたら姉はこんなに早く壊れることがなかったんじゃないか、って」
驚きは束の間だった。
「知ってたのか? ――いや、そりゃ知ってるわな……」
琉斗は春休みと盆と正月には欠かさず帰省した。父親の墓参りが名目だったが、内心では姉のことが気がかりだったのだろう。
「最初に違和感を覚えたのは、大学一年の夏あたりだったかな。その頃にはもう伽那から話を全部聞いていて――あ、伽那の正体というか、体質も含めて、ね――、容姿がさっぱり変わらないことは納得してたんですけど、でも、なんか雰囲気がおかしい。子供っぽいいたずらをしかけてきて喜んだり、テレビドラマごときで泣きそうになってたり……。そういうキャラじゃなかったでしょ?
一度、猫を拾ってきてね。シュレーディンガーって名前をつけて、文字通り猫かわいがりしてたんですが、それが他の人の飼い猫でしてね。探偵まで雇って探し出した飼い主が引き取りたいって連絡をよこしたんで、手放させようとしたんら、いやだいやだって駄々をこねちゃって。苦労しましたよ、あのときには。小学生くらいの女の子がやるならかわいらしいけど、二十過ぎの成人が、ですからね」
琉斗はその後しばらくしてから、春休みの帰省の折に、誕生日には少し遅れたけど、とバイト代で子猫をプレゼントした。
「それがエルちゃん?」
「そうそう。正式には“エルヴィン二世“。どうしてシュレーディンガー二世じゃないのかって訊いたら、シュレーディンガーはファミリーネーム、なんとか世ってのは同じ地位に就いた同名の者を区別するためにファーストネームにつけるものだ、だからルパン三世はおかしい、アルセーヌ三世であるべきだ――とかなんとか。そんなところは変わらないんですよ」
ルパン三世のファーストネームがアルセーヌかどうかは謎だが。
「今でも可愛がってるよ。俺には警戒心丸出しだけど、高原にはべったりだ」
知ってます、と琉斗は苦笑を漏らした。
「金を出した俺にも懐かないんだから。ところで――」
琉斗はそこでにやりと唇を歪めた。
「エルヴィンのこと知ってるってことは、姉の部屋に行ったってことですよね? 十年越しでとうとうモノにしてくれたってことですか?」
朝の再現になりかけた。口の中のビールを吹き出しそうになってむせた。
「がっ、げほっ、おまっ……!」
いやいや、いいんですよ、と琉斗は訳知り顔に首を振った。
「十年前から心配だったんですよ。この姉はまともな恋愛できるんだろうかって。今だから言うけど、俺の同級生でもファンはいたんですよ? お姉さんを紹介してくれ、ってうるさいのが何人か。でも、どいつもこいつも作ったキャラの表面しか見てなかったというか、おっかなびっくりで、一度姉にあの調子でつれなくされたら轟沈って感じで……。だから、三鷹さんに会ったとき、ビビビッと来ちゃったんです。姉の取り繕った表面をぶち抜いて、内心まで食い込んでいってくれるのは、こういう人しかいないってね」
「やめろよ、気持ち悪い……」
男から告白されてるみたいだろうが。
というか、琉斗もいい加減酔っぱらってるな。姉の方は酔っても顔色が変わらないが、こいつはほんのり赤くなるようだ。
「最初に会う前に、三鷹さんの話は姉から聞いてました。こういうバカがいる、何度振っても言い寄ってくるんだから、って――いやいや、すいません。でも、あの頃のお姉ちゃんは楽しそうだったなぁ……」
酔いのせいか、ついに“お姉ちゃん”が出た。だが、本人はそれに気づいてないらしい。
それにしても……おやおや、俺の執拗なアタックも無駄ではなかったのか?
「三鷹さんこそ気持ち悪いな。なに急にニヤニヤしてるんですか」
「お前に言われたくねーよ」
憮然としてジョッキの中身を流し込んだ。
……いかん、俺もかなり回ってきた。法的にはいざ知らず、肉体的には高校生なのだ。序盤、琉斗のペースに合わせようとしたのが間違いだった。
「話が逸れましたね。まあ、それについては後でじっくり聞かせてください。――で、あるときとうとう伽那に相談をもちかけたんですよ。姉の様子がおかしいって。伽那はとっくに気づいてました」
――バカな詩都香。
一条はまずそう呟いたという。
そして、吐き捨てるように言った。
「何もかも振り捨てて、それで強くなれるわけないじゃない」
と。




