10-3
二人組を見送ってから、俺もカフェを出て適当に店を回り、下着の他にジャケットを一着買った。税抜き七千四百八十円也。ボトムスは制服のズボンなので、藍色のシンプルなものにした。夏にしては少し肌寒いし、やや厚手のものを選んだ。
俺が店を出るタイミングを見計らったかのように、ポケットの中で携帯が震えた。
また魅咲だった。
『あんたに会いたいって人がいるんだけどさ、どうする?』
「さっきのあいつらとは別に?」
『ああ、やっぱあいつらもう来たんだ。うん、別。あいつら、どうした?』
「適当なこと言って帰ってもらった。しつこい訪問販売を受けるのって、こんな感じなんかね」
どこかしら善意の押しつけに見えるところも似ている。
魅咲は吹き出した。
『あはは、たしかにそんな感じだわね。うん、あんま関わんない方がいいよ。今朝も言った通り、最後はあんたの判断に任せるけどさ。……で、どうする? あんたに会いたがってるのは――』
「一条、だろ?」
『……ピンポーン、大正解』
魅咲はちょっと間を入れやがった。タメのつもりかよ。
「ていうか、それしか思いつかないだろ。こんなありえないことが起こってるのを知ってて、なおかつ俺に会いたがる人間なんて」
『そだね。じゃあ待ち合わせの時間と場所だけど――』
魅咲が告げた待ち合わせ時間は午後七時、場所は後勺町の北側とのことだった。
後勺町は、昨晩高原と行った飲み屋街からさらに一本東にある細い路地で、南北の通りの両側に高級飲食店がひしめいている。石畳が敷かれた風情のある街並みのため、観光気分でぶらぶらする人も多い。
(また飲みコースなのかな)
高級店で一条と差し向かいの一席というのは、なかなか想像しがたい光景であった。ちょっと照れる。
時間をつぶすため、再び街を徘徊することにした。
——他に会っておくべき人物はいるだろうか?
もちろん、俺が帰ってきたことを受け容れてくれる奴に限られるが。
〈リーガ〉が滅ぼされた後、フリーになった魔術師がごっそり生まれたようだが、魔法の存在はあまり広まっていない。やはり、さっき会った機関の連中が〈リーガ〉になり代わって魔法の技術を統制しているのかもしれない。だとしたら高原の戦いはいったい何だったのか。
……というわけで、武藤や田中たちはダメだな。魅咲に尋ねれば連絡先を教えてくれるかもしれないし、田中ならこれくらいの事態は平気で受け容れてくれそうだけど、無用の混乱は避けるべきだろう。
——保奈美。
……十年も前に騙した男がいきなり現れてもしかたがない。だいいち連絡先も、そもそも保奈美がいま現在日本にいるのかさえも、俺は知らない。
あとは——なんで今まで思い至らなかったんだ。
もみじだ。
薄氷調査事務所に向かう俺の足取りは、決して軽くはなかった。
思い返せばみじに幾度言われたことだろう。
生兵法は振るうな、危険なマネはよせ、思い上がるのはやめろ……。
あんなに心配してくれていたもみじ——俺はそのもみじを裏切ったに等しい。
きっともみじも俺が死んだものと信じているのだろう。今俺が現れたら、どういう反応をするかな。
何て言って謝ればいいのだろう。平手打ちのひとつも覚悟しなければなるまいが、目の前で泣かれたりしたらもっとこたえる。
それでも俺はノロノロと足を進めた。
もみじのその後が気になっていた。
仕事はどうしたのだろう。今でも続けているのだろうか。今頃新しい助手を雇っているかもしれない。
あるいは、十年前に言っていたとおり、本当に休業して高校に通っているのだろうか。
高校生になったもみじ、か。それはそれでちょっと見てみたい。
——いや、待て。
そもそも無事なのだろうか。
もみじの仕事は決して安全ではないのだ。
あいつの身に何かあったのではないだろうか。俺がそばにいたら守ってやることだってできたかもしれないのに。
——これも思い上がりだろうか? いや、でも……。
くそっ、会ったときのための言い訳なんて探してる場合じゃなかった。
俺は足を速めた。
間もなく歩調は小走りになり、すぐに駆け足になった。
とろとろと走るバスにイラつきながら辿り着いたその家の門柱には、プレートが見当たらなかった。
背筋が凍った。
二度、三度と辺りを見渡して確かめる。ここは薄氷調査事務所に間違いない。というより、間違うわけがないのだ。
休業しているのかもしれない、と思い立ち、小さな庭を抜けて玄関のチャイムを押した。
なかなか応答がない。じりじりしながら待った。
『はい?』
たっぷり三分ほど経ってから応答したその声に暗澹となった。
まったく覚えのないおばさんの声だった。
最後に繋いだ希望は、この人が新しく雇われている事務員さんか何かであるという可能性である。
「あの、こちら、薄氷さんで間違いありませんか?」
おばさんは不審げな声で告げた。
『いえ。うちは山本ですけど』
がっくりと肩を落とした俺は、山本さんに非礼を詫びる気力も無く玄関に背を向けた。
もみじはもういないのだ。少なくともここには。
——どうか。どうかもみじは無事に成長していて、前に言っていた通りに引っ越しをしただけでありますように。
柄にもなく神仏に祈りながら、見知らぬ人の住処となってしまった家の敷地を後にする。
……いや、一条が言っていたではないか。神話の神々は〈夜の種〉だったって。
——だったら頼むよ。もみじを守ってやっていてくれよ。同族だろ?
さっきよりも真剣にそう祈りを捧げてから気づいた。
もみじは他ならぬその同族を狩って生きてきたのだった。
こんな祈り、聞き届けてはもらえないのだろうか……。
十年という歳月の重みが、これまで以上の実感を伴ってのしかかってきた。




