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放課後の魔少女――十年の孤独  作者: 結城コウ
第二幕「詩都香の部屋」
56/106

8-2

 魅咲(みさき)の家は、“斗篇”という中華料理店をやっている。盛唐の詩人の故事から取った名前だそうだ。

 相川家は俺が小学五年生の頃にこの街に引っ越している。それまでは俺の地元で、今と同名の店と、武術の道場をやっていた。

 魅咲の父、つまるところ俺の師匠はとある流派の古武術の継承者だったのだが、家のしきたりを嫌い、当時恋仲だった女性と出奔、一人娘の魅咲をもうけている。それでも不慣れな料理店の経営だけでは不安だったのか、武術の道場を始めた。俺が通っていたのはその頃だ。

 思えばそれは、相川一家にとって一番平和な時代だった。店の経営は軌道に乗り、道場の方も合理的かつ実戦を重んじる姿勢が受け入れられて次第に門弟が増えて行った。

 ところがその父――魅咲の祖父――は、流派の存続を第一に考える人間だった。師匠は生まれ故郷から遠く離れてこの街に流れ着いたにもかかわらず、魅咲の祖父は数年がかりで魅咲の一家を見つけ出し、道場破りまがいの真似をやった。

 師匠の制止も聞かずに突っかかっていった道場の高弟を鎧袖一触に蹴散らし、師匠をもほとんど片腕で半殺しにした。

 俺はもちろんその場には居合わせていない。高校入学後に再会した魅咲に聞いた話だ。

「弱いな」

 道場の畳の上に這いつくばった師匠に、魅咲の祖父はただそう一言。

 そんな祖父に最後に立ち向かったのが、小学生の魅咲だった。その頃から魅咲は怖ろしく強くて、俺たちのような子供はもちろん師範代からも勝利を収めてしまう程だったが、この老人にはまったく歯が立たなかった。

 しかし、息子を見限った祖父も、この孫娘には天性の才能のきらめきを感じたのだろう。

「お前よりこの娘の方がよっぽど継承者にふさわしい」

 とうとう気絶した師匠と、泣き叫ぶばかりの魅咲の母を尻目に、この武術の鬼はぐったりとした魅咲をさらっていった。ただただ、自分の跡目を継がせるために。

 意識を取り戻した師匠は、身内の恥を晒すのを承知で警察に連絡した。自分の父親が娘を拉致した、と。道場の高弟たちも証言に立った。身代金目的ではないと判断され、警察は公開捜査に踏み切った。祖父と魅咲の行方は、それにもかかわらず杳として知れなかった。

 俺も事件を知って怖ろしくなった。しばらくは魅咲の家に報道陣が殺到していたし、道場の仲間たちは次々に辞めていった。それでも俺が毎日のように道場に通い稽古を続けたのは、俺まで辞めたら魅咲が永久に帰ってこなくなるんじゃないかと思ってしまったからだ。

 半年後、師匠は道場を畳んで引っ越していった。俺は納得できなかったが、小学生の身にはどうしようもなかった。

 さらに半年後、某県の山中で魅咲が保護された。山岳修行の地のさらに奥、修験者も滅多に近づかない厳しい峰から、一人で下りてきたらしい。

 その一年ほどの間に、祖父は魅咲に地獄のような厳しい修行を課し、技を叩き込んだ。初日から文字通りの千尋の谷に叩き落され、毎日が死と隣り合わせだったという。

 魅咲の祖父は今に至るまで捕まっていない。

 魅咲は運動神経は当然抜群だが、元々頭もいい子だった。一年遅れになってもおかしくなかったところを、優秀な成績を買われ、犯罪被害者の特例措置ということで、学齢通りの五年生に編入された。そしてそのクラスで、魅咲は高原と一条という得難い親友と出会うことになったのだ。

「あたしの全身で、折れてない骨は一か所もないよ」高校入学直後、旧交を温め合ったおりに、魅咲は一片の屈託も感じさせずにその間の事情を語ってくれた。「まあ、全部じじいが継いでくれたから、折れる前よりもかえって頑丈になったけど」

 普段の魅咲は朗らかで可愛らしい女子高生そのものだ。ほっそりしていて、筋肉の付き具合だって、同年代の女の子となんら変わるところがない。それなのに、何かの折に垣間見せるその力の一端と来たら、俺も戦慄を禁じ得ないほどだ。

 魅咲の祖父も、聞く限りでは見た目はその辺の老人とまったく変わらないらしい。鶴のように痩せていて、しなびた皮膚の下に青い血管が浮いている――そんな普通の好々爺。そのくせ、筋骨隆々の屈強な男たちが何十人束になっても敵わない。

 俺にはよくわからないが、力の使い方そのものが、俺たち常人とはまったく違うのだそうだ。常人と仙人のような超常的存在との境目にいる人間――それが魅咲の祖父だった。

 そして魅咲に課されたのは、生と死の狭間で、その力の使い方を会得するための修行だった。

 今や魅咲の拳は空を裂き、魅咲の蹴りは大地を割る。

 ……いや、悪い。ちょっと誇張が入った。というか、魅咲の本気を俺はまだ見たことがない。俺では魅咲の強さを測ることすらできない。

 だが、そんな怪物じみた魅咲なのに、それでもなお足りないらしい。

 ――いつか、もっと強くなって、あのじじいをぶっ飛ばしてやるんだから。

 魅咲はそううそぶいた。

 そして、彼女はそれを可能にするかもしれない別種の力をとうとう手に入れたのだ。

 高原がいち早く目覚め、一条が遺伝的に秘めていた力。

 すなわち、魔法を。


 気づけば、いつの間にやら“斗篇”の前まで来ていた。

 師匠は俺が魅咲の同級生になったことを知っているようだが、俺の方は今に至るまでこの家を訪ねたことがなかった。魅咲を襲ったあまりにも過酷な運命のことを聞いている身としては、どうしても尻込みしてしまうのだ。

 思えばあの頃、俺にとって師匠は絶対の存在だった。人類の到達しうる強さを極めていると、本気で考えていた。だからこそ、魅咲の口から事件のあらましを聞いて、どうしていいのかわからなくなった。

 俺がまぐれでもなければ一発も当てることができなかった高弟たち。

 その彼らを余裕であしらっていた師匠。

 その師匠が指一本触れられなかったという魅咲の祖父。

 そして、その祖父に認められるほどの、人外の強さを手に入れた魅咲。

 幼い俺が目指していた強さとは何だったのか。一度訊いてみたいと思っていた。

 なんとも気持ちの据わらぬまま、俺は自動ドアのスイッチを押していた。

「いらっしゃーい」

 記憶にある声。

「おひとり様ですか?」

 応対に出たのは、俺たちが“おかみさん”と呼んでいた魅咲の母だった。相撲部屋みたい、と当人はこの呼び名を嫌がっていたけど。

 あの頃のおかみさんがまだ二十代だったので、今はまだ三十代前半のはず。それなのに、予想よりも老けて見えた。やっぱり、あの事件が尾を引いているのだろうか。

 一方のおかみさんも、しばらく俺を見つめていた。記憶に引っかかる何かを引っ張り出そうとする表情だ。

 俺は居たたまれなくなってつい頭を下げた。

「どうも、おかみさん。ご無沙汰してます」

 その途端、おかみさんの目が大きく見開かれた。

「ちょっと! あなた! ちょっと来て!」

 その狼狽っぷりと来たら、こちらが慌ててしまうくらいだ。

「いや、あのぉ……、俺はただ魅咲に会いに――」

 俺の言葉に耳を貸すことなく、おかみさんはものすごい勢いで厨房に駆け込んでいった。開店直後のようで、他に客がいなかったのは幸いだった。

 うーむ、そこまでのことか?

 と、厨房の方から、何やら言い争う声が聞こえてきた。

 ――お前、何バカ言ってんだ。

 ――間違いないのよ!

 ――だってあいつは十年も前に……

 ――だから、来てって言ってるでしょ!

 一瞬の静けさを挟んでから、おかみさんに袖を引かれるようにして、厨房から師匠が出てきた。

「あ、どうも……」

 居心地が悪くて小さく会釈した俺の視線の先で、師匠がぽかんと口を開けた。。

「お……お前、誠介か?」

 恐る恐る、と言った感じで訊いてくる。師匠の方も、相変わらず筋肉の鎧をまとったごつい姿だが、四十前の割に幾分年を食ってるように見えた。短く切り揃えた髪にも白いものが交じっている。

「ああ、いや、そうです。……ええと、魅咲は――」

 いますか? ――と口にする暇もなかった。

 師匠が相変わらずの身のこなしで、距離を詰めてきたのだ。

「お前、なんでっ!? いや、十年前の――? はぁ?」

 十年前? 五年の間違いじゃ?

 などと口を挟む隙はなかった。

 わけのわからないことを言いながらも、師匠が貫手を放ってきたのだ。全力からは程遠いが、それでも的確に急所を狙ってきたその突きに、体が反応した。

 あの頃の俺とは違う。こんな手加減された突きを食らうわけがない。混乱しながらも、体を左にずらしてそれをかわし、右腋に掴み取ることができた。

「おおっ!」

 師匠が感嘆の声を上げた。

「この動きのキレ! 間違いない。お前、俺の一番弟子だな!」

「だからそう言ってるじゃないですか。ご無沙汰しててすみませんでした」

 そのまま関節を極めてしまおうか迷ったが、師匠の予想外の歓声に毒気を抜かれ、するりとその腕を放した。

 そして、師匠の継いだ言葉は、それ以上に俺の度肝を抜いたのだった。

「お前、十年前に死んだんじゃなかったのか?」

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