7-4
瓜生山山頂への登り口は、フューゲルという名前の喫茶店の脇から始まる。その道に入り、一・五車線くらいの緩やかな斜面を上っていくと、やがて電波塔に至る。
本当は瓜生山の方が標高が高くて電波塔を建てるのには適していたのだが、権利関係で揉めて隣の一段低い峰に設置されたらしい。展望台があり、南側の海も東西と北の山並みも、天気がよければ北西の富士山も見渡せる往年のデートスポットだが、最近はあまり人気がないようだ。今日も駐車場には一台の車もなかった。
電波塔の脇を抜けると、この山の持ち主とハイキング客くらいしか利用しない道が始まる。幅はさっきまでと大して変わらないが、やや斜度がきついつづら折れの坂だ。この道に入った途端、ペースががたっと落ちた。パワー不足の原付の悲しさよ。
次は普免でも欲しいなぁ、などと考えながらエンジンに鞭打って走らせていると、それでもどうにか山頂が見えてきた。
その最後のカーブに差し掛かってスピードを落とした辺りで、ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。
「え……っ?」
意識が遠のく。反射的にブレーキを握りこんだところまでは覚えている。
次に気がつくと、カーブの外側の開けた場所で仰向けに転がっていた。滅多に通らない自動車同士がすれ違うための待避スペースだった。
そのまましばらくぼんやりしてから、慌てて時計を確認する。長く見積もっても数分と経っていないことがわかった。幸いなことに怪我はない。密生する草がクッションになってくれたのだろう。
「……何だったんだ、今の?」
頭に流れ弾ならぬ流れ魔法でも食らったのか? いや、そうだとしたら、ヘルメットをかぶっているとはいえ無傷で済むわけがない。
(寝不足のせいかね?)
まだ少々ぼんやりしたままの頭を振りながら、上体を起こして辺りを見回すと、転倒した原付はすぐに見つかった。目立った損傷は無さそうだが、起こしにかかるよりももう走った方が早い距離だ。
準備運動代わりにその場で二、三度跳びはねてから駆け出そうとする。
ふと、この場には似つかわしくない人工物が目に入った。
高そうな花瓶。でけえ衣装箪笥。ばらばらに散った新聞紙。そして、大画面の薄型テレビ。どれもこれも、意識を失う前には目に入らなかったものだ。
「不法投棄か?」
まったく、嘆かわしいものだ。あのテレビなんて新品同然だし、まだまだ使えそうじゃないか。帰りに拾っていってもいいかな。――まぁ、原付で運べたものかどうかわからないし、うちの狭いワンルームでは、置き場所に困るかもしれないけど。
テレビのモニター面に、長方形の紙片が貼り付けてあった。表面にいくつかの文字が記されているが、この距離からでは読みとれない。大方、「廃棄物」とでも書かれているんだろう。
いやいや。そんなことより、今は魅咲たちだ。準備運動を終え、俺は走り出した。
——この世とは双子の関係にある別の世界がある。
そこには、いかなる次元の宇宙も存在しない。存在の材料となる〈可能態〉ばかりがあって、存在の形を決める〈現実態〉が決定的に足りなかった世界。「流産の宇宙」と魅咲は言っていた。
その異界に漲る〈可能態〉を自分の魂の中に呼び込む。そしてそれをエネルギー源として奇跡を起こす。それが魔法。
だが、このエネルギーはまさに混沌そのもの。そのままではこの世界で使うことができない。術者は〈モナドの窓〉と呼ばれる異世界への通路を開き、この混沌を取り込んだ後、魂の内にある〈炉〉でこれを精錬し、〈器〉に送り込む。これが魔力と呼ばれる力になる。
〈モナドの窓〉が大きければ大きいほど、取り込めるエネルギーは大きくなる。しかし、そのすべてを魔力として使えるわけではない。混沌の中にはわずかながら〈不純物〉と呼ばれる使用不可能な成分が含まれている(「宇宙になれるかもしれなかった存在の欠片」と、魅咲は似合わぬ詩的な表現を使っていた。高原の影響なのかもしれない)。
〈不純物〉は精錬された魔力と一緒に〈炉〉から〈器〉に送り込まれ、そのまま澱のように蓄積する。この澱によって〈器〉の容量は次第に圧迫され、それが限界に達したとき、魔法は打ち止めとなる。それ以上取り込もうとすれば、最悪の場合発狂したり死に至ったりする。
よって術者はこの〈不純物〉をできるだけ取り込まないようにしながら〈モナドの窓〉を開かなければならない。魔術の発達の初期段階では、〈モナドの窓〉を絞り込んで〈不純物〉をシャットアウトする他なかった。これには、文字通り神がかり的な集中力が必要になる。
だが、いつの頃にか〈モナドの窓〉にある種の〈フィルター〉をかける技術が発明された。きめの細かい〈フィルター〉を通せば、〈不純物〉の相当部分をシャットアウトできる。が、〈フィルター〉を通すということは、単位時間内に取り込めるエネルギーにも制限がかかるということでもある。
ゆえに、魔術師の実力にはいくつかの指標がある。
ひとつには〈モナドの窓〉の大きさ。これは単位時間あたりに取り込めるエネルギーの量に関わる。
ふたつ目が〈炉〉の効率。莫大な量の異界の混沌を取り込んでも、それを使える形にしなくては意味がない。高位の魔術師になると、無理をすれば〈不純物〉をも多少魔力に精錬できるという。
そして〈器〉の容量。一度に使える魔力の量がこれで決まる。たとえ〈モナドの窓〉が小さく、〈炉〉の効率が悪い魔術師であっても、容量さえ大きければ強力な魔法が使用可能である。もちろん、魔力を蓄積するのに時間はかかるが。また、〈器〉の容量は〈不純物〉の許容量をも決める。だから一般的な魔術師はモナドの窓に〈フィルター〉をかける技術を学んだ後、〈器〉の容量を増やすことから訓練を始める。
最後に、魔法そのものの技術。貯め込んだ魔力を、どういう形で顕現させるか、という問題である。
――ところでここに、一つの異才を持った少女がいる。
何らかの別種の力で〈炉〉の効率を限界以上に高めることで、〈不純物〉さえ焼き尽くし、その全てを魔力へと精錬することが可能な才能。この才能を持った人間は、ここ五百年間で二人しか現れていないらしい。
もちろん、これだけでは大した実力にはならない。〈モナドの窓〉が小さければ、結局精製できる魔力も微々たるものだ。〈器〉の容量が小さければ、微弱な魔法を連発することができるに過ぎない。そして魔法として顕現させる技術がなければ、全て宝の持ち腐れに終わる。
だが、これらを磨き上げれば、本人の体力の続く限り強力な魔法を使える恐るべき魔術師が誕生する。
瓜生山の頂には、高原ひとりが立っていた。黒マントに覆われた肩を上下させ、荒い息を整えている。
「高原」
俺はその背に声をかけた。高原は振り返って目を丸くした。
「三鷹くん……どうしてここに? ……ああ、もしかしてあのイヤリングか。見つかったんなら返してよ」
相変わらず察しがいい。
「いや、悪い。どうしても気になって。魅咲たちは?」
高原は親指で山頂広場を囲む木立を指さした。
「敵の魔術師と大立ち回りを演じて、あっちで転がってる。あ、敵の方はもうやっつけたから、安心していいよ。というか、地上戦に持ち込むまでもなかったみたい。上空であの新兵器に魔力を費しすぎて、〈不純物〉であっぷあっぷだったみたいで。わたしの発案による魅咲と伽那の合体魔法、〈大極波〉でぶっ飛ばしてやったわ」
「なんだそれ? どんな魔法だよ」
高原は少しだけ胸を張った。
「ふふん。まず、伽那が自分の体の前後にありったけの魔力を込めた防御障壁を張ります」
「ふむ」
「その後ろから、魔法で身体能力を限界ぎりぎりまで強化した魅咲が思い切り蹴ります」
「ほぉ」
「吹っ飛んだ伽那が相手に当たっておしまい」
「はい?」
乱暴すぎんぞ。
「だって、防御障壁によるダメージだけじゃなく、運動エネルギーだって大したもんよ? 質量四十八キログラムの物体が秒速――」
危うく物理の講義が始まりそうになったので、俺は慌ててそれを遮った。ていうかこいつ、さらっと一条の体重バラしやがった。
「でも、それならネーミングはむしろ、ちょうきゅうはお――」
「そんな安直なのはいや」
今度は俺の方が最後まで言わせてもらえなかった。高原にも何らかのこだわりがあるらしい。
「でもまあ、魅咲にも伽那にも負担が大きすぎたみたいね。魅咲も力を使い果たしてるし、伽那は完全に目を回してる。この魔法は封印だな」
高原がこんな風に結構余裕に見えるのは、実は納得できる。魅咲の話によれば高原たち三人は、それぞれ奥の手を隠し持っているのだ。
まず魅咲だが、そもそもにして馬鹿強い格闘少女である彼女は、特殊な呼吸法でもう一段階パワーアップできる。これは魅咲の家の流派に伝わる〈荒覇吐〉と呼ばれる秘技であり(道場の通い弟子でしかなかった俺には、当然ながら存在すら知らされていなかった)、普段は魅咲ですら使えない。発動には、魔法による能力の強化の他、十五分弱の精神統一が必要になる。
そして一条。これは本人に聞いたのだが、彼女は一般的な意味での人間ではない。いや、半分だけ人間である、と言った方が正解に近いか。世界経済にも影響力を持つ大コングロマリットの創業者一家の一人娘であり、元をたどれば旧華族の、平安貴族の、さらには先史時代の大豪族の系統に連なる彼女は、太古の魔神の血を引いている。そのため彼女は、普通の魔術師とは隔絶した巨大な〈モナドの窓〉と高い効率の〈炉〉、そして大容量の〈器〉を秘めている。そしてそれが、一条伽那が〈リーガ〉の標的とされている理由でもある。そんな〈半魔族〉である一条が本来の力を開放すると――一条から話を聞いた後、魅咲が教えてくれたのだが――、怪物的な姿に変わるらしい。
最後に高原はと言うと、原理は不明だがなぜか強くなるそうだ。いつもの取り澄ました態度は鳴りを潜め、しかし狡猾な頭脳はそのままに、莫大な魔力を意のままに振るう魔女に変わるらしい。ただ、いつでも使えるわけではない。感情の波が荒れ狂い、抑えが利かなくなったとき、本人の意志とはあまり関係なく発揮される力だそうだ。よくある話だなぁ、と俺が言うと、魅咲は小さくかぶりをふった。
「あたしたち、この奥の手はなるべく使わないようにしてるんだ」
「なんで? 力を出し惜しみしてやられたらどうしようもないのに」
そうやって散って行った雑魚を俺はたくさん知っている。アニメの中でだけど。
「それはそうなんだけどさ。さっき言ったでしょ? あいつら、構成員を鍛えるためにだかなんだか知んないけど、余裕ぶってあたしらの少し上を行くくらいの刺客を差し向けてくるって。あいつらにこの力がバレて、もっと強いのを寄越されちゃたまんないのよね。あたしたち、別に全面戦争したいわけじゃないんだから」
伽那と、そして自分たちの日常を守れればそれで十分、と魅咲は言った。
「そもそも、あたしたちじゃパワーアップしたところでまだまだ初級レベル。上にはまだまだ化け物みたいな上級魔術師がひしめいてる。だから適当に戦って、適当に撃退してるのが一番。やばくなったら使うけどさ」
しかし魅咲も一条も、高原のは特に使わせないようにしている。魅咲の奥の手の後遺症はしばらくの間体の痛みや脱力感に悩まされるくらいだし、一条のは自己嫌悪に陥る程度だが、高原は一時的に虚脱状態になるらしい。
「なんか、心のエネルギーを全部使っちゃった、っていうのかな。ほんの数分から十数分だけど、何も考えられずぼーっとしてる感じ」
高原のは一番不可解で一番怖い、と魅咲は言う。
「さて、二人を回収しなきゃね」
高原は魅咲たちが倒れている方に歩き出そうとした。
その時だった。五十メートルほど離れた木立の隙間に、人影が立ち上がるのが見えた。その背には、巨大な翼だったものの残骸が無残な姿で負われていた。
――〈ノウム・オルガヌム〉だ。彼は辺りを見回すと、空き地に立つ俺たちに最初に目をつけた。
「ッイィィィィィィィィィィーーーーーーッッッ!!」
声にならない、超音波のような絶叫がその口から発せられた。その次の瞬間、彼は先ほどまでの攻性魔法が児戯に思われるような巨大な火球を俺たち目がけて放った。完全に不意を突かれた高原は狼狽した。
「なんで!? こんな魔法使ったら! まさか〈不純物〉に精神をやられて……!」
高原はちらっと俺の方を見てから、防御障壁を展開した。避ける、という選択肢がなかったのだろう。――俺がいるせいで。
〈ノウム・オルガヌム〉の極大の火球と、高原の張った防御障壁が激突。
「うぐっ、うぅっ……」
マントで体を覆いながら高原が呻く。障壁が軋みを上げる。
一方の俺も危機的状況だった。
火球の本体は高原が食い止めてくれているが、放射熱は容赦なく俺の体を炙った。制服の上着をずり上げて剥き出しの箇所をかばい、その場に伏せる。だが、熱はますます高まり、濃青の上着が煙を上げ始めた。
「誠介ぇっ! 詩都香あぁぁッ!」
遠くから魅咲の声が聞こえてきた。その直後、上着が完全に焼失し、俺の目には青一色の高原の背中が飛び込んできた。
そして、火球は俺たちを飲み込むように爆発した。




