6-7
星空のフライトは、高原が予告したとおり二十分ほどで終わった。
着地点は俺のアパートの屋上だった。
「今日の乱闘のこと、魅咲と話題にしちゃダメだよ? お互いに知らないふりを通すこと。いい?」
と、高原に釘を刺された。
「なんで? 殴られたけど一応助けてもらったんだし、お礼くらい言いたいんだが。殴られたけど」
俺が殴られたことを強調しつつ不平を漏らすと、高原は呆れたような表情を浮かべた。
「わっかんないかな〜。魅咲はね、あんなところ、三鷹くんには見られたくないの」
「今さら何を、って話だな。俺は魅咲があれくらい強い奴だって知ってるんだぜ?」
「そ、れ、で、も! なんで魅咲が助っ人を渋ったと思ってんのよ」
念を押す高原に、半ばむりやり頷かされた。
高原はまた箒に横座りになった。
「そうそう、最後にひとつだけ。さっき男の友情なめんな、って言ってたけど、三鷹くんも女の友情なめないことね」
「は?」
高原の言葉は唐突だった。説明を求めようとしたが、箒に乗った高原はそれを遮るようにふわり、と二メートルほど浮上した。
「それじゃ、また明日学校で。もう遅いけど、遅刻しないでね。じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
高原は軽く手を振って飛翔した。俺はその姿が見えなくなるまで見送った。
さて、事も済んだことだし、さっさと寝るか。
——これで終わってれば綺麗な思い出になったかもしれないのに。
屋上の出入り口の扉に手をかけて気づいた。鍵がかかっている。
予想しておくべきだった。たしかこの屋上の扉は、夜間は施錠されることになっているのだ。
慌てて携帯電話を取り出した。何やら不在着信があったが、後回しにして高原に電話をかけた。
高原は出なかった。
その代わり、メールが一通送られてきた。
『三鷹くんも危ないことしたんだから、少し反省しなさい(あっかんべーの顔文字)』
「か、勘弁してくれよ……」
あいつはこの事態を予想して俺をここに降ろしたのかよ。明日管理人が解錠するまで、俺はここで天体観測か? 管理人のじいさんは高齢者だけあって朝が早いが、半分ボケているのか朝と夕方の区別がつかないのが問題だ。
魅咲に電話。出なかった。もう寝てるのだろう。
途方に暮れてしゃがみ込んだ俺は、着信履歴を確認した。驚いたことに十数件もあり、内四分の一が琉斗から、残りがなぜかもみじからだった。
薄氷調査事務所にまた新しい依頼でも入ったのだろうか。残念ながら、今すぐ出勤するのは無理だ。
「こいつらじゃ助けにならんな……」
そうひとりごちて、逆クライミングを決意する。
——なめんなよ、高原。これくらいの外壁なんざ、俺にとっちゃフィールドアスレチックみたいなもんだぜ。
などと疲労の極みにある体を気力で奮い起こし、自分の部屋のベランダを特定しようと下を覗き込みながら屋上の縁を巡っていると、マナーモードにしていた携帯電話が震えた。
『ああ、やっと出たぁ。三鷹さ〜ん、助けてくださいよぉ。もう歩けませんよぉ』
高原が許してくれたのかと期待して出るなり、琉斗の情けない声が耳に届いた。まだ徒歩で家を目指しているらしい。
「うるせえよ。それどころじゃねえっつーの。こっちが助けてほしいくらいだわ」
そう切り捨てて通話終了してやった。
すぐさま再び携帯が震える。
「しつけえぞ! お前の姉ちゃんのおかげで——」
「お前えぇッ! 今までなんで電話に出なかったんだよ!」
響いてきたのは、もみじのキンキン声だった。
「あれ、もみじ? そういや、なんでお前が電話して——」
「心配したんだぞ! もう少しで警察に電話だった!」
ものすごい剣幕である。
「わ、悪い……。色々あってさ……」
平謝りに謝り、細部はぼかしつつ、なんとか無事に解決したことを報告する。
それでももみじはなかなか機嫌を直さなかった。
「なんであのスタンガン持っていかなかったんだ! あれに気づかなかったわけじゃないだろ!」
「いや、やっぱ危ないかな、と思って。でも他のをひとつ借りたから、今度返すよ」
「わかってる。ライトだろ? あんなもんどうするつもりだったんだよ」
俺は結局もみじの装備品の中から、薄氷川での仕事のおりに使っていたマグライトを拝借していた。本当は目眩ましにでも使うつもりだったが、取り出す暇も無かった。
「ああ、うん。今から役に立つと思う」
口に咥えて光源にしながら下りようと思っている。
「何だと? まだ事は終わってないのか?」
もみじは誤解していた。
「いや……そういうわけじゃないんだが。家に帰るときの灯にな」
「何だよそれ。あたしはお前に提灯貸つもりだったわけじゃないんだぞ……」
安心したのか、もみじの語気が弱まっていった。
「うん、まあ、ありがとう、もみじ。心配してくれて」
俺が電話越しに頭を下げると、しばらくの間沈黙が続いた。
「もみじ?」
「……頼むよ。あたしは、普段仕事でお前を危険な目に遭わせてることに、負い目を感じてるんだからさ……。だから、あたしの目が届かないところで、危ないことしないでよぉ……」
涙声だった。高原には悪いけど、屋上に置き去りにされるよりもよっぽど効いた。
「ごめん、もみじ」
電波はぐすぐすと鼻をすする音だけを伝えてきた。なんだか責められているようで、耐えかねた俺の方が先に言葉を発した。
「もみじ、今どこにいる?」
「家……の二階」
「ベランダから星見えるか?」
ガラガラ、と窓を開ける音がした。
「……夏の大三角形が見える」
あ? わかんねーぞ? まあいいか。
「俺も星見てる。俺、星座とかわかんねえからさ、もみじが詳しいんなら教えてくれないか? それ聞いて星見ながら歩いて帰るわ」
「……あたしはプラネタリウムの解説役じゃないんだぞ。お前は今どっちに向かってるんだ?」
やっともみじが少し笑う気配があった。
東だ、と答えてやる。
「星か。あたしもそんなに詳しいわけじゃないけどな。——我が頭上なる星辰と、我が内なる道徳律」
「あん?」
いきなり何だそりゃ?
「カントの言葉だよ。感嘆と畏敬の念で心を満たすものがふたつある、ってな。倫理を選べば習うだろう。ていうか、高原を落としたいなら覚えておけ」
「あ、ああ」
何のことやらわからぬまま頷く。たまに難しげなことを言う奴である。
「東向いてんだよな。だいたい頭上に見える十字形のが白鳥座」
「舞え、白鳥!」
「右手の低い位置に赤い星が見えるか? あれが蠍座のアンタレス」
「アンタレスと見せかけて真央点を突くのはもはや様式美だよな」
「その左隣に見えるのが射手座」
「故人……」
「……お前はさっきから何言ってんだ?」
もみじとのそんな遣り取りを、屋上で一歩も動くことなく小一時間も続けた。もみじの声には次第にあくびがまじるようになっていった。時間も時間だ。
「ありがとう、もみじ。家着いたわ。退屈せずに済んだよ」
「……そうか。今のあたしの労働の分、お前の給料から差っ引きたいな。……そんじゃ、あたしは寝る」
「ああ、おやすみ」
そう応えて通話を切ろうとしたところ、もみじはもう一度だけ声の張りを戻した。
「我が内なる道徳律……お前は自分の良心に従ってるんだろうな。だけど、覚えておけ。それに振り回される人間もいるってことをな。おやすみ」
「おやすみ」
今度こそ通話を終えてから、屋上に横になった。
もみじから念を押されてはしかたがない。逆クライミングはやめて、このまま教えてもらった星々を復習しながら朝を待つことにしよう。
いつの間に寝入ってしまったのか、翌朝、管理人のじいさんのすっとんきょうな声で叩き起こされた。
昨夜天体観測をしようと屋上に上ったらそのまま下りれなくなって、と我ながら意味不明な言い訳で放免してもらい、部屋に戻って少し寝直すことができた。
午前五時と午後五時を間違わないでくれたじいさんに感謝である。




