6-6
「み、魅咲……」
柔らかい感触。
いい匂い。
——魅咲がそばにいる。
まず、そう思った。
「気がついた?」
瞼を上げると、高原の顔があった。こっちを覗き込んでいる。
「たかは……あつっ……っつぃ〜」
頭がまだ痛む。たしかヘルメットしてたよな、俺?
「ごめんね、魅咲じゃなくて」
がばっ、と身を起こした。そうやって状況を把握してから後悔した。
俺は今の今まで高原の膝枕で寝ていたらしいのだ。
なんでもっとじっくりとこの感触を味わっておかなかったんだ……。
今さらさっきの体勢には戻れない。俺はまずがっくりと肩を落とした。
「痛むの? 大丈夫? 魅咲はちゃんと手加減したみたいだけど」
「……ああ。手加減してくれなかったら、俺の頭はヘルメットごと木っ端微塵だ」
俺と高原は並んでベンチに座っていた。俺はさっきまでこの上で伸びていたらしい。
やっぱり高原はあの場にいたわけだ。予想通り、昨晩の電話を聞いていたのだとか。
高原はスリムなジーンズに白の半袖シャツという装いだった。本人に言ったらどういう反応があるかわからないが、高原にはこういう飾り気の少ない服装が似合うと思う。一番似合うのはミズジョの制服だけどな。
俺のヘルメットは足元に転がっていた。へこみこそしていなかったものの、何かにぶつけたような傷がある。素手で殴られたとは思えなかった。これで手加減したのかよ。
「あの中坊、小倉ってのは無事か?」
「まあ、一応命に別条は無いみたい。……といっても大怪我してるし、わたしたちではどうしようもないからユキさんにお願いした。今頃車で病院に連れていってくれてると思う。……大体の事情は琉斗に吐かせたわ。ごめんね、あのバカのせいで」
「琉斗も無事か?」
「うん。さっき帰した。危ないことした罰として財布を取り上げといたから、今頃きっと泣きべそかいて徒歩で家に向かってるはず。今度お父さんからみっちり叱ってもらわないと」
さらりとえげつないことを言う。西京舞原の海浜公園から東京舞原の高原家だと、十五キロじゃきかないぞ? 朝まで帰り着けるといいけど。
「あいつらは?」
「ああ、あの不良たち? 魅咲が全員ぶちのめした。あと四、五時間は目が覚めないんじゃないかな」
合掌。相手が悪かったな。
「……一応訊いておくけど、魅咲は?」
「一応答えておくけど、魅咲があんな連中相手に怪我なんてするはずないでしょ」
どっと体の力が抜け、疲労感に捕らわれた。
「ですよね〜」
——なんかもうどうだっていいや。
俺はこてん、と体を横倒しにした。もちろん高原の太ももめがけてだ。
避けられて座面に側頭部を打ちつけるというお約束の展開になるかと思ったが、予期に反して高原は俺の汗臭い頭を両手で受け止め、そっと自分の太ももの上に載せてくれた。
「……今夜だけ特別だからね。うちのバカとその友達のために、体を張ってくれたんだから」
ツンとした表情のまま高原が言う。少しだけその顔が赤いのが見てとれた。恥ずかしいのだろう。
俺の行為が本当は高原のためだったということを、琉斗は告げなかったらしい。ま、俺もそっちの方が気が楽だ。
「んで、ここは?」
「普通最初にそれを訊くでしょ。海浜公園から少し離れた雪城川の河原」
道理で波の音の代わりにせせらぎが聞こえるはずだ。
東京舞原を薄氷川が貫流しているように、西京舞原には雪城川という川が流れている。双方とも垂氷山地に発するが、九郎ヶ岳丘陵地隊に分かたれ、交わることなく独立した水系となっている。
「お前が運んでくれたのか?」
俺は体を仰向けにして高原の顔を見上げた。こんなに間近で、こんなに長時間、彼女の顔を見る機会はしばらく無さそうだ。
「ううん。魅咲。わたしに任せて帰っちゃった。ちょっと力が入りすぎたから、代わりに謝っといて、ってさ」
ちょっとどころじゃないだろ。琉斗は自分で歩いて帰れたらしいのに、なんで俺だけ。
「魅咲のあの扮装は何事だよ」
「被服部がシャレで作ったコスプレ衣装をもらってきたの。魅咲はすごい嫌がってたけど」
思わず笑ってしまった。写真に撮って残しておけばよかった。
「にしても、ラブリーエンゼルはないんじゃない? やっぱり三鷹くんと琉斗はとんだダーティペアだわ」
「最初から見てたのかよ。そんなら助けてくれても……じゃダメだな、やっぱ」
それではやはり小倉の意に反して全員が仲間に思われてしまう。魅咲による喧嘩両成敗、これが一番マシだったのかもしれない。
「まあ、そんな小細工しなくても、最後に残った連中に魅咲が『次にあたしの視界に入ったら全殺しだから』って脅しをかけといたし、もうこっちには来ないと思うけどね」
まったく、頼りになりすぎる幼馴染だよ。
高原はさっきから俺の顔を見ていない。元々他人と目を合わせるのが苦手な奴なのだ。
「あれから池波正太郎読んだの?」
「……ああ、そこも聞かれてたのか。いいや、ドラマチェックしただけ」
レンタルでな。
「定型がない分、少し大人の時代劇って感じだな、あれは」
「大人向けの時代劇って、何だか変な感じね。原作は料理が本当に美味しそうだからさ、ぜひ読んでみることをオススメするわ」
そんな鬼平談義をひとしきり続けた後、高原はほっ、と溜息をひとつ吐いた。
「……三鷹くん。三鷹くんがわたしに話を合わせようとして色々なことに手を出してるの知ってる。でもわたし、三鷹くんからそこまでしてもらえるような女じゃないよ? 今回のことだって、琉斗がわたしの弟じゃなかったら……」
何言いやがる。
「自己卑下なのか自意識過剰なのかわからんな。琉斗がお前の弟じゃなかったとしても、俺は同じことしてたさ。男の友情、なめんなよ」
「だって……。弟のためにこんな危ないことまでしてもらって、わたしはどうお礼をしていいかわかんない」
「今のこの膝枕で十分だよ」
高原は目を瞑った。
「……バカ。もし今つき合ってくれって言われたら、承諾しちゃうかもしれないよ?」
「お前こそバカだ。そんな弱みにつけ込むようなやり方でお前を落としても意味がない」
高原は目を開いて顔を下げた。自然、至近距離で俺と見つめ合う形になる。
「ねえ、三鷹くん。三鷹くんがいい人なのはわかってる。たまに意地悪するし、たまに無茶もするけど、わたしは三鷹くんのこと嫌いじゃない。それどころか、このままだとわたし……」
そこまで言ってから、高原は目を逸らした。十秒強か。人見知りのこいつにしては上出来だな。
俺は右手を上げて、そっと高原の髪に触れた。
高原は嫌がらなかった。さらさらとした絹糸のような手触りの髪を、俺に撫でられるに任せていた。
「怒らないで聞いて欲しいんだけど、こないださ、知り合いに言われたんだ。高原じゃ俺にふさわしくないって」
「……その子、三鷹くんのことが好きなんじゃないの?」
知り合いとしか言ってないのに女子に限定された。間違ってないから困る。
「それはどうでもいい。お前はどうなの? 俺とお前が釣り合いとれてないと思う?」
高原はほんの少し首を振った。
「わかんない。……そんなことないって言いたいけど、わたしより三鷹くんにふさわしい子はたくさんいると思う——あがっ」
俺は手の中にあるひと房の髪を軽く引っ張ってやった。高原の首がかくん、と横に折れた。
「そりゃないぜ、高原。それじゃお前のこと好きだって言ってる俺の気持ち向き合ってくれてることにならない」
そもそもにして、なんだってこいつはそんなに自己評価が低いんだ。
誰も文句のつけようがない美少女。
おそらくは校内でもダントツの知力。
家事だって運動だって、その他何だって人並み以上にできちまう超スペック。
その上魔法少女。ひとを助けるために自己犠牲も厭わない気高い精神。
高原、お前はいったいこの上何を望むんだよ。何がお前に足りないってんだよう。
「……わかってる。わかってるよ。わたしが三鷹くんに対して誠実じゃないなんて、よくわかってる。……でも、これがわたしなの。この不実なわたしが。だから、ねえ、だから……」
言葉尻は闇の中に消えていった。雪城川のせせらぎだけがしばしの間辺りを支配した。
俺は後悔していた。こんな風に高原を追いつめるつもりじゃなかったのだ。
「高原」
「ん? ——あがっ」
もう一度髪を引っ張ってやった。
「ぐきって。今首ぐきって言った。何なのよ、もう」
今日は当たりの柔らかかった高原も、さすがにぷりぷり怒る。
「さっき宣言したとおり、今は口説かない。でもさ、お前はいい女だよ。その内誰かが絶対に、お前のことが好きだって言う。そのとき、そいつにはちゃんと向き合ってくれないか?」
「三鷹くん……?」
もの問いたげな高原の視線を受けて、急いで付け加える。
「あ、いや、俺は別にお前を諦めたわけじゃねえからな」
「……うん。三鷹くんがそんなに諦めのいい奴じゃないの知ってる」
わからない。俺はこのとき、高原を諦めようとしていたのだろうか。
またしばらく無言で川音を聞いてから、高原は「そろそろ動けそう? 帰ろうか」と言い出した。
「そうだな」
名残惜しいが、頭を上げる。
「もう電車も無いな。どうやって帰る?」
徒歩ってわけにもいかない。タクシーか?
だが高原は立ち上がらなかった。
「言ったでしょ、今夜は特別だって。〈モナドの窓〉を開くから、少し待っててくれる? あ、視線が気になると集中しづらいから、隣のベンチに座っててくれると嬉しいんだけど」
〈モナドの窓〉、だと?
魔法を使って高原が何をしようというのかはわからなかったが、言われたとおりに五メートルほど離れた別のベンチに移った。
そこから、集中に入った高原を眺める。
深呼吸し、体勢を調整してから、目を瞑る高原。
彼女はそのまま身動きを止めた。世界から時間が消えたかのようだった。
そのまましばらく高原の姿に見入っていると、ごく小さな空震が俺のもとまで届いてきた。
高原が目を開いて立ち上がった。
「ごめん、やっぱり人がいると気になるみたい。時間かかっちゃった」
そんなに時間かかったかな。高原を思う存分見ていられる時間というのは、長すぎるということがない。
「よっと」
歩み寄った俺の目の前で、ひと声入れた高原の右手が虚空に消えた。かと思うと、次の瞬間にはその手に長い棒状の物体が握られていた。
箒だった。日本で一般的な竹箒の類ではなく、タモか何かの柄に柔らかそうな穂がくくりつけられた、西洋のアンティーク調のものだ。
「前にも見せられたな、それ。どういう仕組みなんだ?」
「仕組みって。魔法に決まってるでしょ。あらかじめ魔法をかけておいて、家のクローゼットから異空間経由でアポートするの」
「なるほどわからん。でも、忘れ物が無さそうで便利だな」
「そんなに便利じゃないよ。有効なのはクローゼットの中の決められた場所に置いてあるものだけだし」
なるほど、と俺はもう一度頷いた。そんな風に気が回らないからこそ、忘れ物ってのは発生するのだ。
「んで、どうすんの、それ? 河川敷の清掃ボランティアってわけじゃないだろ?」
「魔法の箒。見たらわかるでしょ?」
ああ、なんとなくそうじゃないかな〜、とは思っていたのだ。
「飛ぶの?」
だとしたらそりゃまたものすごいベタだな。
「飛ぶの。さ、またがって」
促されるがままに、穂の方にまたがる。高原は俺の前に横座りになるような形で、箒にお尻を載せた。
「それじゃ、行くよ。ちゃんとつかまっててね」
「うおあっ!?」
握り込んだ矢先に柄が尻に食い込んだ。
本当に箒が飛びやがった。
俺たちを乗せた箒は一気に上昇し、高度を確保してから水平飛行に移った。
「箒じゃなくてわたしにつかまってもいいよ? 不安定でしょ?」
「いや、いい」
ありがたい申し出だったが、俺は断った。
「そう? 変なとこで紳士的なんだから」
それは誤解だ。せっかく許可までもらってることだし、できることなら俺だって目の前の華奢な体を抱きしめたいさ。
しかし俺が高原に触ったら、また魔力を吸い取ってしまうかもしれない。もみじは大した量じゃないと言っていたが、それで墜落でもしたら目も当てられない。これはこれで不便な能力だな。
「それはともかく高原、これ、尻が痛くなりそうな予感がする」
「あー、それもそうね。今まで魅咲としか二人乗りしたことなかったから、普通の人乗せるの初めてで。十五分か二十分くらいで着くと思うけど、我慢できる?」
「わからない。我慢できなくなったら言うわ。つーか、思ったほど速くないんだな」
もっと一瞬で着くものと思っていた。
「初心者用の箒だし、そんなにスピード出ないんだ。魔法道具は今も〈リーガ〉なんかで色々開発されてるけど、箒はもうあまり作られてないの。空を飛ぶ魔法が普及したから。でも、わたしたちはまだその魔法未習得でこれが欠かせないの」
「ま、尻は痛くなりそうだけど、空飛ぶのは気持ちいいよ。何ていうか、お前と一緒に夜間飛行なんて、ロマンチ、ちっ……ぶへっくしょい!」
くしゃみが出た。両手で柄を握っているので、口を覆うこともできない。
「ぎゃあっ!? ちょっと! 汚いな〜。寒いの? そんなに高度はとってないつもりだけど」
「いや、違う。……お前の髪が、鼻先を……悪い——ぶへっくしょい!」
「ぎゃっ! また!」
ロマンチックさのかけらもない。
「いや、ほんとごめん」
さっきから危ないとは思っていたのだが、まさかこのタイミングで出るなんて。
高原は気流になびく髪を片手で押さえた。
「……ううん、こっちこそごめん。そこまで考えが回らなかった。帰ったらシャワーだなぁ」
ぐむっ、なんでお前はそう無防備に、俺の妄想をたくましくさせるようなことを言っちゃうんだ。妖精のような裸体をつい想像してしまう。
気をまぎらわそうと、下を見る。昼間であれば目も眩む高さのはずだが、この暗さだと恐怖は感じなかった。
電波塔のそびえる九郎ヶ岳丘陵地帯を過ぎると、東京舞原の街並みだ。もう時間が遅いため夜景と言うにはいささか寂しい眺めだったが、それでも市役所から駅にかけては光の帯のようだ。
上空に目を転じれば星空。あいにく星座を語る教養は持ち合わせていないし、街の明かりが届くため貧弱だった。しかし何にせよ星空は星空だ。
そして目の前には高原の横顔。うっとうしそうに髪を押さえ、首を巡らせて前方を見つめている。
天地の狭間に、あるのは俺たちだけ。
俺たちだけの世界。




