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放課後の魔少女――十年の孤独  作者: 結城コウ
第一幕「瓜生山」
24/106

4-6

 それから上流に向かって十五分ほど歩いたわけだが、ピクニックどころではなかった。

 今年はこれまで雨の少ない空梅雨だったのに、昨日の夜半にわりとまとまった量が降った。街中の路面はすっかり渇いていたから気にならなかったけど、河原となればそうはいかない。

「ほら、所長。そこ水溜り。気をつけてくださいよ?」

 大きめの水溜りをぴょんと跳び越え、後ろのもみじに注意してやる。さっきからずっとこんな調子だ。履いているスニーカーもすっかり湿っている。

「わかってる。見えてるよ。これでもあたしは夜目が利く方なんだ」

 もみじは文句を垂れながら、俺の真似をしてその水溜りをジャンプで越えた。

 ……気持ちだけは。

 体の方も跳び越すには三十センチばかり飛距離が足りず、着地とともに泥まじりの水しぶきが上がった。

 とっさに跳び退いた俺だが、被害を完全に回避することはできなかった。上着にもズボンにも、少量の飛沫を浴びてしまった.

「所長〜」

「す、すまない。悪かった」

 もみじもこれには罪悪感を覚えたようで、水溜りのただ中につっ立ったまま体を縮こまらせた。

「ほら、つかまって」

 俺が伸ばした手を、もみじがおずおずと握った。その手を思い切り引っ張って水溜りから救出してやる。

 暗いのでわかりづらいが、もみじの服もローファーもひどいことになっているだろう。夜目は利いても自分の力量が見えていないヤツだ。

「……夜のピクニック、続けますか?」

「当たり前だ」

 いくぶんしおらしくなりながらも、即座に答えるもみじ。ナリはちっちゃくてもこのくらいのことではへこたれないんだな。仕事に対する熱意は持ち合わせているらしい。


 そのもみじが仕事を放棄する——そんなきっかけが、予想外の人物によってもたらされた。

 ちょうど、緯度で言えば駅と市役所の中間まで来たところだった。俺たちの前を、こちらに向かって歩いてくる人影があった。

 距離は目測で二百メートルといったところ。整備された遊歩道に入ったので周囲の光量は増えていたが、相手の詳細まではわからない。

「三鷹……!」

 もみじが小さな、それでも切迫した声で俺に注意を促した。

 すわ、噂の〈夜の種〉か、と俺も身を強張らせた。鞄に左手を伸ばし、いつでも拳銃が取り出せるようにジッパーを開放する。

 しかし、足を止めたもみじはかぶりを振った。

「違う……この感じは……」

 対向者は歩を緩めず、一定のスピードで近づいてくる。もみじの腰が引けているのが見てとれた。すぐにでも逃げ出したそうだ。

 もみじをここまで怯えさせる存在とはいったい……。

 俺は鞄に入れた左手で拳銃のグリップを探り当てた。まだ拳銃の射程ではないだろうが、相手はおそらく超常的存在だ。妙な動きを見せたらすぐにでも発砲できるよう、心の準備だけは整えておく。

 と、そこで相手が妙な音を発しているのがわかった。いや、妙な音というか、これは——

「口笛?」

「……リヒャルト・ヴァーグナー作曲の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲だな」

 意外な教養を見せたもみじが補足してくれた。ああ、これがかの有名な。

 ……有名な? なんで俺、曲名だけ知ってるんだ? そういえば最近何かで読んだような。文芸部でか?

 記憶をさらっていると、口笛の音がぴたりとやんだ。

「気づかれた」

 もみじが一段と硬い声を上げる。向こうも別に人に聴かせるつもりで口笛を吹いていたわけではないようだ。

 それでようやく相手に思い至った。

 俺は緊張を解き、鞄のジッパーを閉じた。

「あっ、おい!?」

 歩き出した俺を、もみじが制止しようとする。

「大丈夫。知り合いです、たぶん」

 俺はもみじの手をとり、ゆっくりとまた歩き出した。もみじの手はじっとりと汗ばんでいた。

 もみじは嫌がったが、この体格差では抵抗にすらならない。

 倍になった相対速度が、俺たちと相手との距離をぐんぐんと縮める。やがて、遊歩道の灯火が向こうの姿を浮かび上がらせた。

「あれ、三鷹くん? 何やってんの、こんな所で?」

 案の定我が愛しの君、高原詩都香(しずか)だった。

「ちとバイトをな」

「バイト? 家庭教師でもやってるんだっけ?」

 高原の顔が俺の傍らのもみじへと向けられた。

 その視線にさらされたもみじは、驚いたことに俺の体の陰に隠れた。こちらの手を握る力がぎゅっと強まった。いつもの勝気さがすっかり鳴りを潜めている。

「いや、バイト先の子。いっしょに散歩中」

 何だ? もみじはいったいどうしちまったんだ?

「ふーん。……あ、ごめんなさい。ええと、わたし、高原っていいます。このお兄ちゃんの学校の同級生」

 せめて「友達」って自己紹介しろよ、とガッカリしたが、返事もせずに無言を通すもみじの態度の方がそれ以上に気にかかった。

「わ、悪ぃ。人見知りな子でさ。ていうか、お前こそ何やってんだ?」

 俺がそうやって場を取りなそうとすると、高原の頬が嬉しそうに緩んだ。どうやら人に話したくて仕方がないネタがあったようだ。

「それがね、聞いてよ。こんなのがかかっちゃってさ」

 高原は左手に持ったバケツを重そうに掲げて示した。

 こいつと来たらまだ放課後の釣行を継続してたんか、と少し呆れつつ中を覗き込んだものの、

「……ダメだ。暗くてわからん」

 水を張ったバケツの中を小さな魚が泳いでる、ってくらいしか視認できなかった。

「ヒラメよ、ヒラメ。こんな所でも釣れるなんてね」

 外道を釣ったわりに、高原はなんだか得意げだ。川釣りをしていて海水魚を釣り上げるとは、高原には釣りの才能があるんだか無いんだか。

「どうすんだよ、それ。食うの?」

「まさか。まだ幼魚だし。もう少し下流にリリースしてくるわ」

 お仕事の邪魔してごめんね、と言い残して高原は駅の方へと去っていった。

 その背が闇に紛れるまで見送ってから、もみじに向き直った。

「どうしたんすか、所長?」

 俯いたままのもみじは、ただひと言。

「帰るぞ」

 そう告げて河原と車道を結ぶスロープへ向かった。

「ちょ、ちょっと所長」

 俺は慌てて後を追った。


 もみじの止めたタクシーで事務所まで帰った。車中、もみじはずっと無言だった。

「どうしたんですか、所長?」

 応接室のソファに腰を下ろしてからも、もみじの顔色は戻らなかった。何かに怯えるように、自分の体を自分で抱きしめている。

 座ったまま俺と目を合わせようとせずにもみじが口を開いた。

「あの女……」

「あー、高原? 綺麗な子だったでしょ」

 そう返しながら、ひとつの予感が俺の中に生まれていた。

 もみじは「そんなもん見てる余裕があるか!」と悲鳴にも似た声を上げた。

「あ、もしかしてわかっちゃいました?」

「……魔術師なのか?」

 あまりにも直截に問われた。誤魔化せる雰囲気ではなかった。

「……どうも、そうらしいです」

 もみじはそこで初めて顔を上げ、きっ、と俺を睨みつけた。

「どうしてそんな大事なことを言わない! 魔術師の知り合いがいるだなんて!」

 ものすごい剣幕であった。

「えっと、その……」

 言葉を継ぐことができず、沈黙する。

「帰れ」

 もみじがやがてポツリと言った。

「所長……」

「帰れ。今日は解散だ。……〈夜の種〉の捜査は明日以降だ」

 最後に付け加えられたひと言に安堵した。もう二度と来るな、とクビを宣告されるのかと思っていたのだ。

 夕食を作っていないことが心残りだったが、手近なクッションをかき抱いて顔を埋めたもみじをどう慰めていいのか、見当もつかなかった。そもそも事情がさっぱりわからない。

「……それじゃ失礼します、所長。お疲れさまでした。コンビニ弁当でいいので、何か食べてくださいよ?」

 結局そうとだけ言い残して、事務所を辞した。


 もみじはどうしたんだろう。バスで帰宅した後も、俺はぼんやりと考えていた。

 一条が言うには、彼女らが魔術師であることを知ってなお態度を変えない俺は変わり者らしい。でもそれにしたって、高原に会ったときのもみじの怯えようは尋常ではなかった。高原がそんなに恐そうに見えたか? ——もっとも、かく言う俺とてたまにおっかなかったりするけど。

 それともやはり、魔術師が怖いのだろうか。何か因縁でもあるのだろうか。

 明日以降もみじに顔を合わせるのが少々気まずい。普段あんなに強気に振る舞っているもみじだ、気弱なところを見せたのは本意ではないだろうし、俺だって変に気を遣ってしまいそうだ。

 そんなことをグルグルと考えていたせいで、なかなか寝つけなかった。翌朝起きると、遅刻ぎりぎりだった。

 携帯に留守電が入っていた。もみじからだった。

『三鷹か? 今日は休業だ。明日来られるなら来てくれ』

 昨晩のことをまだ引きずっているのだろうか。そう心配になるとともに、今日はもみじに会わないで済むことに何やらほっとしたことも、否定できない事実だった。

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