3-3
「おー。本当に入ってくれるんだ。やっぱり一条狙い?」
六月十三日の木曜日。放課後に入部届を持っていった俺に向かって、飛鳥井先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ちゃいますよ。ていうか、やっぱりそういう男子部員多いんですか?」
「一年の男子二人と、今年になって入ってきた二年生の一人はそうかな」
一年の男子部員は俺を除いて三人と聞いている。除外された一人は間違いなく田中だろう。
これは早い内に誤解を解いておかないと、後々面倒なことになるな。
「この際だからはっきりさせておきますけど、俺は一条狙いじゃないですよ、マジで」
「そうなの? 昨日、一条を強引に誘って一緒に帰ってたじゃない。神山くんと真鍋くん、苦虫を噛み潰したような顔してたよ?」
他の一年男子はそんな名前だったのか。クラスが違うので名前がわからなかった。
「ええ。だって俺が好きなの、高原ですし」
「へ?」
飛鳥井先輩はぽかんとした。そんなに意外か?
「……あの高原さん? だって、高原さんって郷土史研究部でしょ?」
「まあ。でも、郷土史研は女子ばっかりで入りにくいですし」
飛鳥井先輩はしばらく首を傾げていたが、やがて両手をぽんと打った。
「なーるほど。どうして三鷹くんみたいなのがうちに入るのか疑問だったけど、そういうことか」
今のでわかったのか? 察しがいいな。
俺と飛鳥井先輩は図らずも同時に一条の方に視線を向けた。
一条は他の部員と雑談していた。男女混合グループで、聞き手に回っているようだ。たまにけらけらと笑う。
その様子に、一条ってのはすごい奴だな、と思う。一条本人はそれほど口を開いていないのに、意識的にか無意識的にか、誰もが一条を楽しませようとしている。男子はもちろん、女子にも好かれているようだ。サロンの女主人っていうのはこんな感じだったんだろうか。
部室の扉にをコツコツと叩く控えめな音がしたのは、ちょうどそのときだった。
「――はい。どうぞぉ」
飛鳥井先輩が応える。
「……失礼しま~す。あ、飛鳥井先輩。伽那来てますか?」
そろそろと扉を開いて顔を覗かせたのは高原だった。俺の存在には気づいていないようだ。
「いるよ。おーい、一条」
呼ばれてこちらを振り向いた一条の顔がパッと輝いた。
「あ、詩都香。どうしたの?」
椅子から立ち上がった一条が高原のもとへ駆け寄る。
その途端、今まで雑談していた部員たちの間に微妙な空気が漂うのがわかった。やはり一条が座の中心だったようだ。
「うん、借りてた本読み終わったから返そうと思って」
高原は重そうな鞄から三冊の本を取り出す。
「別に教室で返してくれればよかったのに」
「そんなこと言って、あんた部室まで運ぶの面倒臭がるでしょ。あと、ついでにまた借りてっていい?」
「いいよ。どれにする? たまにはミステリも借りてってくれてもいいんだけど」
「あんたが持ってきてるのなんて、もう読んでるわよ」
敷居越しに会話を繰り広げる高原と一条を、取り残された部員たちがちらちらと見ている。どの顔にも、一条さん早く帰ってこないかな、と書いてある。
「よお、高原」
俺は二人の間に割って入った。高原が自覚のないままつまらない敵意に晒されているのを見ていられなくなったのだ。
「うえ? 三鷹くん? どうしてここにいるの?」
俺の顔を認めた高原が目を丸くする。
「ふっふっふ。俺も今日からここの部員だからな」
「三鷹くんが、文芸部……?」
高原は眉をひそめた。
「似合わないか?」
「似合わない」
即答である。
「お前も大概失礼だよな」
どちらからともなく笑みがこぼれた。
いつの間にか俺たちから離れていた一条がそこで帰ってきた。手には三冊の分厚い本。
「はい、詩都香。適当に見繕っておいたよ」
「お、ありがと」
本を受け取った高原が、鞄にしまおうとする。
「じゃあ俺に似合う部活って何だよ?」
一条が口を開くより先に、俺が高原に話しかける。
一条は少しばかり名残惜しげな様子を見せた後、長い会話になりそうだと判断したのか部員たちの待つ席へと戻っていった。ぽつりぽつりと盛り上がらないお喋りを続けていた一団に、いっときに活気が戻った。げんきんなものである。
それにしても、咄嗟に出た言葉にしては我ながらナイスアイディアだった。ごく自然に高原が俺に抱いているイメージを聞くことができる。
高原はおとがいに人差し指を当ててひとしきり考え込んでいたが、やがて結論が出たようだ。
「う~ん、そうだなぁ。――帰宅部?」
……最悪だな俺のイメージ。
「でも、なんで今さら部活なんか?」
「俺も少し教養を積もうと思ってな」
「嘘でしょ。あ、もしかして伽那狙い?」
高原はわざとらしくジト目を作った。
俺が部活に入るのってそんなに下心ありきに見えるのか? ――ま、事実そうなんだけどさ。
ていうか、冗談めかした物言いだったが、言っていいことと悪いことがある。反撃だ。
「いやいやいや、妬くなよ。俺はお前一筋だよ、高原」
「なっ!? もうっ、またそんな……!」
色白の顔がぼっと赤くなる。よし、不意打ち大成功だ。高原のこういう反応を見られると、少し嬉しくなる。
「そりゃあ、詩都香だって三鷹くんのこと嫌ってるわけじゃないからね。いきなり言われたら、うろたえもするよ」
昨日と似たり寄ったりの活動が終わった後、俺はまた一条と一緒に帰っていた。コースも昨日と同じだ。クレープはないけど。
高原が俺のことを嫌っているわけじゃないことは、なんとなく察している。それどころか、たぶん男子の中では俺がいちばん高原と仲がいいんじゃないかな。
もし本当に嫌われているのがわかっていたら、俺だってこんなに食い下がったりしない。それじゃただのストーカーだ。
「でも、決定打に欠けるんだよなぁ。奥手すぎるよ、高原は」
「ふふふ、まあ、たしかにそういう子だけどね。……三鷹くんてさ、詩都香のどこが好きなの?」
出たよ。
「見た目」
少しばかりひねくれた気分で即座にそう答えてやった。
「えー、顔? ま、詩都香は普通に可愛いけど……。他は?」
「その前に俺にも質問させてくれ。どうして女ってその質問好きなんだ?」
偽装カップルやってる間に保奈美にも訊かれた。「あたしのどこが好き?」って。「身長」と答えてやったら、結構怖い顔でバシバシ叩かれたっけ。
どんな答えを期待されているのかさっぱりわからない。どう答えても不満げに質問を重ねてくる。
問い返された一条は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべていた。問い詰めるのもなんだけど、相手は一条だしいいだろう。
「男困らせて楽しんでるのか?」
どこが好きだなんて説明できるもんじゃないし、美人だからってのも正直な答えだと思うんだ。なのに、それで満足しない奴が多い。
「ううん……別にそんなんじゃないけど。そうだなぁ……男の子が自分に気を遣って、どう答えるのが正解なんだろう、ってあーでもないこーでもないと一生懸命に考えてくれるのが好きなのかなぁ。だから、『見た目』なんて答えられると肩透かし食らっちゃう……のかも」
むむむ? とそのまま悩む一条。なんだか可哀想になってきた。というか、俺はなんでこんなこと訊いてるんだっけ?
「ほら、プレゼントも。何をあげれば喜ぶんだろうって必死で悩んで選んでくれたものがいいんであって、もの自体は――あれ? 何か違うな……」
「いや、悪い。別にお前を責めてるわけじゃないんだ」
一条は頬を膨らませた。
「わかってるよぉ。でもやっぱり意地悪だよね、三鷹くんって」
「お前に対してだけな。だけど、さっきお前がした質問は高原のどこが好きかだろ? 今の説明には当てはまらないんじゃないのか?」
「そりゃそうだけどぉ。それでも普通、どう答えたら好感を持たれるかって悩まない? 意中の相手じゃなくっても」
「なにお前、俺にお前の好感度を稼ごうとして欲しいの?」
……あれ?
「そういう物言いは感心しないなぁ。そりゃあわたしだって女の子ですからね」
「わかったわかった。今度からお前の好感度も上げるように努力してやるよ」
……あれれ?
なんでだ? こんな当てこすりみたいな台詞、高原にはもちろん魅咲にだって、冗談でもなけりゃ絶対に口にできないぞ?
一条相手だと、どうして俺はこんなこと言っちゃうんだ? 今気づいたけど、前からそうだったような気がする。
「でさ、見た目以外で、詩都香のどこが好きなの? あ、ごめん。詩都香の性格は好き?」
一条の質問はほぼ振り出しに戻った。
「そりゃ好きだぞ。ただなぁ、あいつ見てると、時々不安になるんだよなぁ。痛ましいっていうのかな」
何言ってるんだ、俺は。
「あらら、詩都香の性格には不満?」
「不満というか、あいつ、何事にも一生懸命だけどさ、もう少しゆとりがあってもいいと思うんだよな」
来栖事件の際になんとなく感じた。高原はどうにも周りに目を向けすぎる。俺のことなんか気にしてくれなくてもよかったのだ。ほんの少しでいいから、その分の思いやりを自分に向けて欲しい。
ヤバい。そう自覚して、俺は口をつぐんだ。
――このままだとあいつはいつか潰れるんじゃないのか。
そう口にしかけていたのだ。
「三鷹くんの言うこと、わかるよ。詩都香とは長いつき合いだしね」
一条はふにゃ、と笑った。
くそっ。こいつを相手にしていると何かのきっかけで警戒心が鈍る。何でも言っていいのだと勘違いしてしまう。
おっかない奴だと思った。しかも、そのおっかないという気持ちまでも解きほぐされてしまいそうになるんだ。
それを自覚することなしに天然無我にやってのけるのが一条伽那という女なのだ、とこのとき思い知らされた。
「一条……おそろしい子!」
「……? 何が?」
ふと漏れた俺のコメントに怪訝な顔を浮かべる一条。
「いや、何でもない。ところで、この作戦どうだ?」
「部活作戦? 悪くないんじゃない? 詩都香だって、ぼんやりしてる人よりも活動的な人の方が好きだろうしね。と言っても、詩都香の好みはわたしにもよくわかんないけど」
うむ。こいつが高原の好みを把握していたら苦労はないわけである。
「そういや、お前はなんで文芸部入ったの?」
「ふあ? ……もう、三鷹くんだって唐突に変な質問するじゃない」
「変な質問なのか、今の?」
女の基準ってよくわからんな。
一条はしばらく眉根を寄せて考え込む。
「……うーん、筆で箸と戦いたくなったから、かな」
「はい?」
突拍子もない答えにまごついてしまった。
「例によって詩都香の講義。『筆は一本也。箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし』――ここにも縁のある文筆家の言葉だって。……何ていう名前だったかな? せっかく詩都香が教えてくれたのに忘れちゃった。あ、筆ってのは文筆の道で、引いては技芸の道。それで箸っていうのは――」
「いや、わかるよ。説明されんでもそれくらい」
馬鹿にしてるのか、と思ったが、
「……あ、そう。わたしは最初わかんなかったんだけど」
一条はちょっとだけ悄然とした様子であった。
「んで? それがどうかしたのか?」
「うん。それを聞いてね、なんかムラムラっと来たんだ。ほら、わたしって、世間一般から見たらいくらか経済的に恵まれてることになってるわけじゃない?」
「謙遜が過ぎると嫌味だぞ」
何が世間一般だ。そんな曖昧な基準を持ち出さなくても、モナコの公子辺りが求婚してきてもおかしくない階級と家柄のくせに。
「やめてよ、そういうの。わたしだってどう言っていいのかわからないんだから」
普段よりも若干険しい目つきで、一条が抗議してきた。
たしかに今のは俺が悪いか。どういう家に生まれようと本人に責任は無いのだ。
ただ、やっぱり一条相手だとどうも調子が狂う。
「悪い、ごめん。それで?」
その眼光にたじろぎつつ、罪悪感を抱えて続きを促した。
「あ、こっちこそごめんね。うん、それで、まあやっぱりわたしって一条家の娘って見られがちっていうかさ、それ以上の役割を期待されてないから、自分の技芸で何とかしたいな、って思ったの」
「旦那芸ってヤツじゃねーの、それ?」
「わかってるよぉ――って、三鷹くん!?」
ついつい余計な口を挟んでしまう自分の頬を、俺は力を込めて殴った。思った以上に痛くてクラクラした。
「なな……何やってんの、もう」
うずくまった俺の背に、一条が心配そうに手を当てる。
「……悪い、大丈夫だ。それで?」
強がって立ち上がった際にまたクラっと来たが、一条には気取られなかっただろう。
「びっくりした~。ええと……それでね、わたしやっぱりこれといった技術無いし、成績も良くはないし、物知りなわけじゃないし、運動なんてゾウリムシみたいなもんだし。でも、本を読むことくらいなら、まあ人並みにはできるから」
「謙遜すんなって。お前はすごい奴だよ」
ズキズキ痛む右頬を気にしながらそう言ってやる。一条の運動神経ときたら繊毛で一生懸命泳いでるのに引き合いに出されたゾウリムシに気の毒なレベルだが、県下有数の進学校であるミズジョに合格できたのだ、自己卑下するほど頭が悪いはずがない。
……って、そう言うと間接的に俺自身の自慢になっちゃうかな。でも俺はまぐれ合格みたいなもんだし、共学化に踏み切って以来のミズジョに“男子枠”があるというのは市民の間でまことしやかに語られている噂である。
「ありがと。まあ、できるところから努力してみたいってところかな、結局のところは。つまらない話でごめんね」
「いや、参考になった。俺もできるところから努力してみるわ」
またも奇妙な素直さで俺はそう言った。ただ、こういう素直さはいいかも、と自分で思った。
「できるところからの努力といえば、ひとつアドバイス。三鷹くんは詩都香だけじゃなくて、もう少し周りを見た方がいいよ。現状を打破するには、それがいちばん近道だと思うな」
的外れなアドバイスだ。
「何言ってんだ、お前。俺はちゃんと周りも見てるぞ」
「じゃあ、詩都香の隣の席の西村さんも文芸部なの知ってる?」
「……ああ」
言われて思い出した。たしかにそんなことを聞いたことがあったかもしれない。
「意識して無かったでしょ?」
「西村が何か関係あんのか?」
一条の言うとおりだったのかと軽くショックを受けたものの、反抗的な気持ちになってそう問い返した。
「ん、あまり関係ないよ。西村さんはただの例え話。他にもっと大事なことあるの。三鷹くんには教えてあげないけどね」
「何だそれ?」
一条は悪戯っぽいというか腹黒そうな笑みを浮かべてはぐらかした。おかげで話はそれ以上広がらなかったが、一条のアドバイスは心に留めておくことにした。
それにしてもだ。
――魅咲。俺は周りが見えてないらしいぞ? 周りに気を遣いすぎる高原と、周りが見えてない俺……どこが似た者同士だよ。