17-4
一条はいったい何をしたのか。
それを問い質そうと、立ち上がった俺は完全に脱力状態の一条の方へと歩いた。
「熱っ!」
その手前で思わず跳び上がる。一条の周囲の地面が高熱を持っていた。慌てて後退して足の裏を見れば、スニーカーのゴムが融けて底が一部抜けていた。中の靴下にも穴が開いている。足の裏はたぶん軽度の火傷を負っているだろう。
「おい一条! そこ大丈夫か!?」
ぼーっとしていた一条がこっちを振り向いた。
「……何が? ――あっつうぅッ!」
一条も飛び上がった。文字通りの意味で。地面から二、三メートル浮いたまま両の足をパタパタさせ、履いていた靴(高校時代の指定品だった)を脱ぎ捨てた。地面に落ちた靴は、熱に負けてくたっ、と形を失った。
「あちゃー」
一条は未練がましく靴を見て肩を落とした。それから、ぐるりと体をめぐらせて感嘆の声を上げる。
「うわー、すごいなぁ、これ。余波だけなのに、さすが詩都香の全力魔法ねぇ」
俺も辺りを見回してみる。
瓜生山の頂はすっかりハゲ山になり、あろうことか隣の峰の電波塔まで見当たらなくなっていた。高原と一条の間の地面など、熔けたガラスのように煮えたぎっている。
その地獄めぐりのような箇所を大きく迂回し、魅咲がやって来た。
「うまく行ったの、伽那?」
「……たぶん。後は結果をご覧じろ、ってところかな。わたしたちには結果が見られないかもしれないけどね。〈魔映鏡〉もなくなっちゃったし」
一条がふわふわと俺の隣に降下してきた。
「でもなんかこいつまだいるんだけど」
魅咲が俺を指さした。なんだその言いぐさは。
「タイムラグ、じゃないかなぁ。時間の神様も初体験の出来事に困ってるんじゃない? わたしも初めての試みだしわかんないことだらけだよ。——ねえ三鷹くん、わたしたちの戦いの間に三鷹くんに何かなかった? 何か条件が変わったはずなんだけどなあ」
俺にはさっぱり理解できないことを言った挙句、一条は俺に質問してきた。
「いや、魅咲の念動力で怪我した以外は何もなかったし、俺はお前以上にさっぱりだよ。魅咲の念動力で怪我した以外は。つか一条、まずこっちに説明してくれないか? お前、何をやったんだ?」
「……あんたもしつこいな」
魅咲が顔をしかめ、一条はこちらをふり仰いで弱々しく微笑んだ。いつも俺を和ませてくれたあの笑顔とはほど遠かった。
「詩都香が力を貸してくれたらもっと簡単だったんだけどねえ。今の詩都香はただのわがままな子供。もう説得できる相手じゃない。……わたしだって、こんなのヤだ。これしかないんだって自分に言い聞かせて来たけど、変えられる可能性があるんだったら変えたくなった。三鷹くんがこの世界に来たって聞いて思ったの。あのとき三鷹くんが消えたのは、詩都香がやったんだって。そういう魔法も可能なんだって。だから準備して、研究した。さっきのわたしの魔法は、詩都香の撃った魔法を防ぐためのものじゃない。あのときの詩都香が使った魔法を、わたしは何桁も違う量の魔力でやっと再現することができた。詩都香の攻性魔法は時間を超えたの。ずいぶん魔力を分けてもらってようやく使えたんだけど、あの途方もない威力の魔法なら大丈夫。きっと目的を果たせる」
話についていけん。俺は手の中の黒マントを折り畳んで上着のポケットにねじ込んだ。
「平たく言うとね、伽那は詩都香に援護射撃をさせてあげたの。あの時の詩都香への、ね」
魅咲の言葉もさっぱり平たくない。
「それにしても、想定以上の威力だったなぁ。大丈夫どころかオーバーキルになっちゃうかも。詩都香の〈ハイパー・メガ・ランチャー〉限定で魔力を他に転嫁する魔法を開発したんだけど、ちょっと危なかった」
「こんなんを世に放たずに済んでよかったよ」
魅咲は肩をすくめた。
まったくだ、とそれには同意せざるをえない。
……でもな。
「お前ら、高原がなんでこんなことしようとしたか知ってるのか?」
魅咲と一条は顔を見合わせた。
「なんでって、誠介」
「三鷹くんも知ってるでしょ? 詩都香の精神はどんどん退行していて、歯止めが利かなくなってた。いつ赤子と同じように……」
「ちがうよ」
俺は首を振った。
そうだ、俺がちゃんと伝えていれば、こいつらも危険な賭けに出なくて済んだかもしれないのに。
「高原は――」
二人と一緒に、高原の倒れている場所まで歩きながら、俺は高原がどんな想いで文明を滅ぼそうとしていたのか語って聞かせた。
高原がとった行動が最善だったとは思わない。もし十年前の高原だったら、もっといい手を見つけていたかもしれない。だけど高原は高原なりに、地球と宇宙のことを考えてあんな暴挙に出たのだと、こいつらにはわかっていてほしかった。
「そっかぁ」高原のところまで来て、まず一条が天を仰いだ。「それならわたしたちがやろうとしてたこと、詩都香の協力を仰げたかもしれないね」
「あたしたち、詩都香のことまだ全部知ってたわけじゃないんだなぁ。ほんと、バカなんだから、この子は」屈み込んだ魅咲が、気絶した高原の頬をつんつんと突ついた。「一言あたしたちに相談してくれればよかったのに」
高原は何の反応も示さなかった。ただ子供のようにすやすやと眠っている。
「でも――」しばらくその寝顔を眺めてから、一条がぽつりとこぼす。「それなら……」
「そだね……」
魅咲が、よっこいせ、と立ち上がり、拳を握りしめる。足元には、やはり身じろぎひとつしない高原。
胸騒ぎがした。魅咲なら、魔法に頼らずとも高原の息の根を止めることなんて容易いだろう。
「こうなっちゃったら仕方ないさね。地球どころか宇宙全体の命運までかかってるんだもん」
「おいっ!」
俺の制止は間に合わなかった。魅咲の腕が振り下され、無抵抗の高原の頭蓋を粉砕――
……してはいなかった。魅咲の拳は高原の側頭部手前で止まっていた。
ぶわっ、と長い髪が風圧で広がった。
「魅咲……?」
魅咲はどこかしら晴れ晴れとした顔でこちらを振り返った。それから、微苦笑を浮かべた顔を下げて俺と一条のところに戻ってきた。
「ごめん、伽那。やっぱ無理だ。宇宙がどうなったっていいや」
一条がうなずいた。
「……うん、魅咲もわたしと同じ気持ちで安心した」
今度は一条が高原に近づいてしゃがみこみ、横ざまに倒れたその体を仰向けにする。そしてその頬に自分の頬を擦り寄せた。
(うわー、うわー)
俺はどぎまぎした。美少女同士(といっても二人とも二十五歳だけど)のスキンシップって、背徳感があって、巧く言えないけどものすごい光景だった。
「何赤くなってんの」
じと目の魅咲がいらん指摘。だけど、そう言う魅咲の顔だって十分に赤い。
一条は頬を離すと、ここに来て初めて涙をこぼした。
「ごめんね。ごめんね、詩都香。ほんとは、ほんとはわたしたちがもっとちゃんと支えてあげなきゃダメだったのにね……。でも、これからは誰にも絶対に手出しさせない、もう〈超変身〉なんてさせないから……。詩都香に何度拒絶されたって、絶対にもう離れない。あの頃も詩都香は、わたしたちが変な世話焼きするのを迷惑そうにしてたけど、わたしたち、やめなかったもんね……。詩都香、あの頃に戻ろう、詩都香ぁ……」
最後は蚊の鳴くような声になっていた。それでも、少しだけ息を整えて立ち上がり、一条はもう一言だけ加えた。
「……おかえり、わたしたちの詩都香」
高原の体が微かに動いたように見えた。横目で窺えば、魅咲もぼろぼろと泣いていた。
(まったく、お前ってば少し見ない間にほんとに泣き虫になったな)
俺は少し呆れたポーズをとっていた。そうしないと、こっちまでもらい泣きしそうだった。
——こいつらにとって、高原がいない十年は、どんなものだったのだろう。
「でも、どうすんだ? お前の進めてた研究、無駄になっちゃっただろ」
頃合いを見計らって一条に尋ねた。今回はどうにか止められたが、目を覚ました高原がどうなっているのか、予断を許さない。
「無駄になんかならないよ。詩都香の精神を癒すための研究は続ける。今度はそれに〈モナドの窓〉を修復する研究が加わるだけ。こっちも時間かかるだろうけど、詩都香はきっとそれまで耐えてくれる。いままで絶望しっぱなしで自暴自棄になってたんだろうけど、どんなに小さくても希望が見えさえすれば、きっと詩都香は……」
一条はまた声を詰まらせた。
魅咲が一条の肩にそっと手を乗せた。
「それで間に合わなかったら……あたしが詩都香を宇宙まで運ぶ。月よりも遠くまでいっしょに行ってあげる」
「なっ!?」
何言ってんだ。それじゃ魅咲が……。
「だって、やっぱりあたしには詩都香を殺せないもん。してあげられるのはそれくらいじゃない。ま、宇宙ごと混沌に飲み込まれるんならそれでもどうしようもないけどさ」
俺が絶句していると、肩にかかった魅咲の手に、一条が自分の手を添えた。
「……バカ魅咲。魅咲ひとりでそんなに飛べるわけないじゃない。わたしも行くってば」
「人妻が何言ってんの。子育てとかしなきゃでしょ?」
「まだその予定はないけど。子供が生まれたら、せめて独り立ちしてくれるまでは詩都香になんとか頑張ってもらわないとね」一条は悲しげに微笑んだ後、逆襲に出た。「ていうか、魅咲は独身を通すの? 誰かさんに操を立ててさ」
「むぐっ! ばっ! バカ!」
魅咲の顔が耳まで赤くなった。
俺は一言も発せないでいた。こいつらの決意は固いのだろうか。もし間に合わなかったら、本当に高原と……?
「あ……あたしも行くよ」
予想外のところから声がかかった。足を引きずりながらようやく戻ってこられたらしい保奈美だった。
「保奈美……」
「……あんたらってばけっこー薄情なんだから。あたしのこと忘れてたでしょ?」
恨みがましい視線に晒された俺たち三人は、ぶんぶんぶん、と一斉に首を振った。滅相もない、ちゃんと覚えていたとも。
「今井さん……あなたまでそんな」
「そうだよ。あんたにはそんな義理ないでしょ?」
翻意を促す魅咲と一条に、保奈美は小さくかぶりを振る。
「ううん、決めた。だって、あんたたちふたりだけでほんとにそんな遠くまで飛べるの? それに、義理ならあるよ。高原はなんてったってあたしの恩人なんだから」
魅咲と一条が顔を見合わせる。
「……そっか。ま、無理には止めないよ」
「でも、詩都香にはほんとに頑張ってもらわないとねぇ」
「そだね、うちらだって別に死にたいわけじゃないんだし」
三人はあたかも十年来の旧知であるかのように笑った。それを見ていると、もう何も言えなくなってしまった。
そこで一条が俺に向き直った。その目はまだ充血している。
「ま、もしかするとこの決意も無駄になるのかもしれないけど。——というわけで三鷹くん、そろそろお別れだね」
「は?」
一条の言葉に思わず問い返してから、自分の体が微細な光の粒子に包まれていることに気づいた。何だ、これは? いや、どこかで見たことがある。
——あの居酒屋の爪楊枝……。
「さっき言ったでしょ? 詩都香の魔法は時間を超えた。十年前の、あの時に向けて。意外と時間がかかったけど。ふふふ……、時間軸だかなんだかも混乱して修復に大慌てみたいだね」
どういうことだ?
混乱する俺に応えたのは、事前に説明を受けていたのであろう保奈美だった。
「帰れるんだよ、セースケ。あのときに。今もものすごい速度で過去が変わってて、この時空の異物であるセースケを無理のない形であのときに帰そうとしてるの」
……帰れる? 魅咲がぷんすか怒って、一条がころころ笑って、高原が仏頂面を浮かべていたあの頃に?
「そう、あの頃に。詩都香がいろんな未来の可能性をぶっ壊して、この世界を作っちゃう前の時点に。あたしと伽那が振り回したり、あんたが告白したりして、それで詩都香が迷惑そうな顔してた頃に」
魅咲の言葉の前半の意味はよくわからなかったが、光の粒子が強まるにつれ、実感が持ててきた。
俺は、帰れるのか――
「せっかくまた会えたのになぁ。お別れのキスでもしよっか?」
などと少し涙ぐみながら言う保奈美を、隣に立つ魅咲が険しい表情で睨んだ。
「手紙!」一条が慌てた様子で声を上げる。「手紙、書いたから! あの空き地に!」
理解できずに聞き返そうとしたが、ダメだった。もう時間がないらしい。俺の声は向こうに届かなかった。
「誠介ぇ! いーい!? さっきあたしが言ったこと――!」
魅咲のそのがなり声を最後に、一切の感覚が失われた。
……わかってるよ、魅咲。
――ぜってー忘れてやらねえ。
そこで俺は意識さえも手放した。