2-6
『こちら〈ペルソナ・ノン・グラータ〉。もうすぐ着く』
深夜十一時。高原からのテレパシーを介した通信が入った。保奈美が異能者で高原をマークしているとしたら傍受される恐れがある、という理由でコードネームを名乗っているが、半分がたノリだろう。しかし、“好ましからぬ人物”、ね。いつもの高原のセンスだが、今回はちょっと自虐が入ってるのかもしれない。
「お待たせ」
高原が俺の隣に寄ってきた。その顔は相変わらず絆創膏とガーゼまみれだった。
「ごめんね、監視なんてやらせちゃって。今のこのありさまだと、目立っちゃって」
高原は親指で自分の顔を指して苦笑した。俺は〈魔映鏡〉でリアルタイムで監視していた彼女から連絡を受け、移動してくるまでの間、保奈美の家の前で張っていたのだ。
「お前……」
「ほら、これかぶって」
絶句する俺を他所に、高原はあいかわらずでかい鞄から取り出したかつらを背伸びして俺にかぶせた。ちょうど一条くらいの長さの、肩甲骨の辺りまで届く長髪のものだ。
「一目で三鷹くんってばれないようにね。――くっくっ、似合うじゃない」
悪ノリなのか何なのか、さらに伊達メガネまでかけさせられた。
「どうしたんだよ、これ?」
いったん外したかつらのストッパーに地毛を絡ませながら尋ねると、
「演劇部から拝借してきた」
だ、そうである。まったく、こいつは。
「そういやさ、今日、なんで休んだんだ?」
「あー、お父さんがうるさくてっね。今日休みだったみたいで。階段から落ちたって説明したんだけど、一目で殴られたってバレちゃった。ったく、変な所で鋭いんだから。勝手に欠席の連絡を入れられちゃって、お父さんが東京に戻る夕方まで軟禁状態。わたしは別にかまわないんだけどなぁ」
高原は意外にも学校が好きだ。授業態度は真面目そのものだし、部活もそれなりに楽しんでいる。魅咲も一条も、田中や吉田や大原も、担任の北山先生も、その他彼女をいじって楽しんでいるクラスメートも、そしてたぶん俺のことも――みんなひっくるめて愛していると言っていい。欠席は本意ではなかったのだろう。
とはいえ高原の親父さんの気苦労もわかる。年頃の娘が傷だらけで帰ってきたのだ。慌てない方がどうかしている。きっと今朝の高原家では、休め――休まない、の押し問答が繰り広げられたのだろう。
「そういやさ、高原の親父さんって、どこに勤めてるんだ?」
「どこって、公務員だけど?」
高原がきょとんとして首を傾げる。
そうじゃなくってだな。
「あー、どこのお役所かって? それがよくわかんないのよね。聞く度にころころ変わってる気がする。前に聞いたときは厚労省で清掃やってるって言ってたし、その前は農水省でクジラの観察。あ、こないだは経産省から派遣された行商人だって言ってたわ。その内なんとか機関のゴミ処理係とか言い出すんじゃないかな」
そんなこと言って喜ぶのはお前だけだ。
「連絡はどうしてんの? 職場からかかってきたのを取り次いだりすることもあるだろ?」
「それがさっぱり。こっちからは携帯にだし、勤め先からのも携帯にかかってるっぽくて」
高原の親父さんには一度会ったことがあるが、高校生の娘がいる割に若いこと以外、普通の中年だった。どこか琉人の面影を見出すことができた。高原は亡くなったご母堂に似たのだろう。しかしてその実態は、謎の国家公務員である。
ちょうどこちらの準備が整ったところで、保奈美の家の玄関がそっと開いた。こそこそと出てきた黒い人影は、背格好から保奈美と思われた。家族を起こさないよう、後ろ手にゆっくりと戸を閉める。
よし、尾行開始、と電柱の影から動こうとすると、高原に袖を捕まえられた。
「ちょっと待って。まだ出てこない」
見ればたしかに、人影は道に面した門を開けようとはせず、家の敷地を囲むブロック塀の向こう側に消えた。監視がバレたのだろうか。じりじりしながら数分身動きせずにいると、今度こそ門が開き、人影が通りに出てきた。それを見て、思わず首を傾げる。
「あれ? 人違いか? なんか背が低いし、それに……」
家の敷地から出てきたその人影は、ずいぶん長い髪を背負っているように見える。
しかし高原は納得顔でうなずいた。
「……なるほどね。三鷹くん、見つからないように後を尾つけながら、あの子の顔よく見ててね」
高原はそう言ってその場に残る。何やら鞄から取り出していた。
(……こんなことのために武術を習っていたわけじゃないんだけどなぁ)
胸の内でそんな風にぼやきながら、気配を殺して言われたとおりに人影の後を尾けた。彼我の距離は二十メートルほど。辺りが暗く、こちらが細心の注意を払っているとはいえ、この間隔でまったく気づかないのはちょっと鈍いかもしれない。
苦笑いしながら尾行を続けていると、突然、
――パンッ!
背後で破裂音。心臓が止まるかと思った。間一髪で手近な民家の門柱の陰に滑り込んだ。
肝をつぶされたのは先行する人物も一緒だったようで、こちらを振り返り、不安げに辺りを見回した。街灯に照らされたその顔を視認して、俺はさっきの音以上に仰天した。
――振り向いたその顔は、高原そのものだった。
その“高原”は、異状が認められないと見るや、また歩き出した。
「どうだった?」
しばらくして追いついてきた高原(本物?)が開口一番そう尋ねてきた。その手には、ノートのページを破り取って作成した、いわゆる“紙鉄砲”。さっきの破裂音はこれか。
「いや、なんか、お前だった」
我ながらひでー回答だ。それでも高原は俺の言わんとしていたことを諒解していた。
「やっぱりね。こんな反則技使ってたのか」
保奈美の能力はほとんど魔法だった。というか、先日三人に見せられたデモンストレーションよりも、よっぽど魔法らしい。後で高原から説明されたことだが、一度触れたことのある相手の身体を指紋にいたるまでコピーできるのだそうだ。
「――〈変身〉か。聞いたことはあるけど、大したもんだわ。どうやったらあんなの使えるのか、わたしにも想像つかない。相手の能力や記憶までコピーすることはまだできないみたいだけど、本人の努力次第でそこまでいけるかもしれない。でも、それをこんなことにしか使えないなんて……」
こりゃちょっと本腰入れなきゃね、そう言って高原は数分間動きを止めた後、〈モナドの窓〉を開いた。辺りの空気が一瞬で変わった。前を行く保奈美とはずいぶん距離ができていたため、気づかれた様子はない。
「って、そこまでする相手なのか?」
「そりゃそうよ。あんな高度な異能――ていうかもう魔法ね――、そんなのを使う相手なんだもん。少なくとも〈器〉の容量は大したもの。〈モナドの窓〉を開くことができるようになったら、わたしなんかよりよっぽど強力な魔術師になれるかもしれない」
俺たちは少し速足になって少し距離を詰めた。住宅地を抜け、いい加減尾行の息苦しさに倦んできた頃になって、高原の姿をした保奈美は一棟の工場の門の前で足を止めた。もうとっくにその日の操業を終えているらしく、人の気配はなかった。灯も点いていない。
高原はそれを認めるとポケットから携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。
「あれ、伽那? なんであんたが家電に出るのよ? ……いいから、ユキさんに代わってもらえる? ……うん、例のことで。――あ、こんばんは、ユキさん。……ええ、その件です。たかつせいさくしょ、わかりますか? あ、『たかつ』じゃなくて『こうづ』って読むんだ。警備会社の方は……よかった。じゃあ、よろしくお願いします」
高原が小声で通話する間に、保奈美は悪戦苦闘しながら門扉を乗り越えようとしていた。ミニスカートでそうするもんだから、明るかったら中が見えそうだった。
「くっ、人の姿で、はしたない……」
通話を切った高原は、憤りと恥ずかしさに頬を紅潮させていた。
「何の電話だったんだ?」
「ユキさんに頼んで、セキュリティを切ってもらったの。それから、事後の裏工作もお願いしといた。この街の企業の何割かは一条家の息がかかってるし、ここもそうだったみたいでよかったわ。……ったく、ほんとにバカじゃないの? あんな押し入り方したら、すぐにSOCOMとかが来て面倒なことになっちゃうじゃない」
そりゃどっかの特殊作戦軍だ。
高原の気苦労を他所に、門扉を乗り越えた保奈美は、工場に併設された事務所と思しき建物に向かう。時折ちらちらと辺りを窺うのは、防犯カメラの位置でも確認しているのだろうか。まさかそれらが全て、高原の意を受けたユキさんの差し金で作動していないことなど、思いもよらないだろう。
保奈美は俺たちが見守る内に事務所に辿り着き、その戸口のノブをいじっていたかと思うと、難なくこれを開けて中に姿を消した。門柱の陰に身を隠しながらそれを見守っていた俺たちも、そろそろ動く頃合いだ。
「〈変身〉しているせいか、大胆な急ぎ働きね」
「何それ?」
「あれ? 三鷹くん、池波正太郎とか読んだことないの?」
あるわけねえだろ。こいつと一緒にいると、余計な知識ばかり増えていく。
今度は俺たちが門を乗り越える番だ。二メートルほどのそれを見上げて、さてどうすっかなー、俺が押し上げる形だと、絶対スカートの中見るなとか言われるだろうなー、などと思案していると、だしぬけに隣の高原が跳んだ。
ふわり、と夜空を舞うその姿に、しばし見とれた。彼女は軽々と門を越え、その向こうに音もなく降り立った。
「すっげ。何だよ、今の? 魔法?」
「そんなとこ。わたしは先に行くから、三鷹くんは保奈美さんに見つからないように入ってきて。最初からグルだったのがばれたら、あの子が可愛そうだし」
高原はそう言い残して、保奈美が押し入った建物へと駆けていった。
それを見送ってから、俺も門扉に手をかけた。