「天使の羽根は青く染まる」
サモトラケのニケ像です
「ねぇ、紫って慈愛だっけ?」
近江谷は振り向き様に尋ねた。
美術室は何処かまったりとした空気が流れている。それは春の陽気のせいだろうか。でも、窓の外は相変わらず寒い筈だ。
二ケの胸像は机の上で皆の注目を浴びており、各々のキャンバス上で、下描きの済んだ者から彩色に取り掛かられていた。
「情熱と冷静の間だよな。」
「何だよそりゃ。紫足りないのか?」
シアンの聞き間違いじゃ無いよな、と思いつつ、滋賀崎は紫と青緑を手に取って、近江谷を見る。
途中、口を挟んだ安曇は、素知らぬ顔で黙々と鉛筆を動かしていた。
「あ、いいって。翼何色にしようかなぁ、と思って。」
ヒラヒラと掌を動かして、滋賀崎に向けて近江谷は照れ笑った。
「そんな言い方されたら、オーラか何か、って思っちゃったわよ。」
隣で不意に高島が口を開いた。鉛筆を走らせつつ、飄々と会話に入ってくる。無表情のままに、彼女は集中して描いているものと思っていたから、近江谷も滋賀崎も驚いた顔をした。
「情熱は赤、冷静は青だものね。混ぜ合わせたら紫になるわけだ。」
上手く下絵が描き上がったのか、満足げに高島が笑う。彼女の視線はキャンバスに向いたままだが、慣れた手付きで彩色の準備に取り掛かっていた。
「やっぱり緑にしようかな。私。」
「何を?羽根?影?」
ニケの胸像は石膏で出来ている。
「影の色。全体をね、翡翠にしたいかな。」
そう顔を綻ばす高島の眼差しは暖かく、自身で描いたニケ像とそのモデルを見ていた。
「頭も描いたの?」
席を離れて覗きに来た近江谷は、小さく声を上げた。その表情に、滋賀崎も描かれた絵を想像する。
「ヒアイよりもヒスイでしょ。青も似合いそうだけれどね。」
気兼ねない声で高島は答えた。そもそもこの描写会を開いた理由を、誰も何も聞いていない。だがそれでも集まって来ている。
「俺、まだ課題仕上げてないんだよな。」
ムス、と何処かふてくされた様子で安曇が言った。その言い草が近江谷には癪に障ったらしい。
「強制参加じゃないわよ。」
嫌なら来るな、と険の籠もった声で、近江谷がきつく安曇を睨む。安曇もそれきり黙り込んだ。
気まずさがそれぞれの間で妙な蟠りを作っている。自ずと無口になる室内に、ただ絵の具を塗る音だけが響いた。
「そいつは…悲哀の色だな。」
滋賀崎が安曇の後ろから、ぼそりと呟いた。安曇の描いたニケは、清んだ蒼に染められて固く凍りついている。深く湖に沈んだように、綺麗だけれど哀しい。
筆をキャンバスに付けたまま、安曇の手が震えて止まった。
「素直に泣けばいいじゃない。意気地無し。」
「うるせぇ。てめえら。」
それだけ毒づいて、再び安曇は筆を動かした。時折鼻を啜る音が、室内に響いて情を誘う。
「ねぇ、哀しみに情熱を足したら慈愛になるかな。」
しんみりを吹っ切る明朗な声で、近江谷は叫んだ。そこにあるのは、想う気持ち。
「ああ、なるんじゃないか。」
「そうね、それも有りかもね。」
滋賀崎も高島も、笑顔を向けて応えた。
外は寒い。けれどその陽光には春の暖かさが隠れている。
そして天使が羽ばたくに相応しい青空が広がっていた。
2013/10/28 考




