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表・本匣  作者: R-N
9/21

「天使の羽根は青く染まる」

サモトラケのニケ像です

「ねぇ、紫って慈愛だっけ?」

 近江谷は振り向き様に尋ねた。

 美術室は何処かまったりとした空気が流れている。それは春の陽気のせいだろうか。でも、窓の外は相変わらず寒い筈だ。

 二ケの胸像は机の上で皆の注目を浴びており、各々のキャンバス上で、下描きの済んだ者から彩色に取り掛かられていた。

「情熱と冷静の間だよな。」

「何だよそりゃ。紫足りないのか?」

 シアンの聞き間違いじゃ無いよな、と思いつつ、滋賀崎は紫と青緑を手に取って、近江谷を見る。

 途中、口を挟んだ安曇は、素知らぬ顔で黙々と鉛筆を動かしていた。

「あ、いいって。翼何色にしようかなぁ、と思って。」

 ヒラヒラと掌を動かして、滋賀崎に向けて近江谷は照れ笑った。

「そんな言い方されたら、オーラか何か、って思っちゃったわよ。」

 隣で不意に高島が口を開いた。鉛筆を走らせつつ、飄々と会話に入ってくる。無表情のままに、彼女は集中して描いているものと思っていたから、近江谷も滋賀崎も驚いた顔をした。

「情熱は赤、冷静は青だものね。混ぜ合わせたら紫になるわけだ。」

 上手く下絵が描き上がったのか、満足げに高島が笑う。彼女の視線はキャンバスに向いたままだが、慣れた手付きで彩色の準備に取り掛かっていた。

「やっぱり緑にしようかな。私。」

「何を?羽根?影?」

 ニケの胸像は石膏で出来ている。

「影の色。全体をね、翡翠にしたいかな。」

 そう顔を綻ばす高島の眼差しは暖かく、自身で描いたニケ像とそのモデルを見ていた。

「頭も描いたの?」

 席を離れて覗きに来た近江谷は、小さく声を上げた。その表情に、滋賀崎も描かれた絵を想像する。

「ヒアイよりもヒスイでしょ。青も似合いそうだけれどね。」

 気兼ねない声で高島は答えた。そもそもこの描写会を開いた理由を、誰も何も聞いていない。だがそれでも集まって来ている。

「俺、まだ課題仕上げてないんだよな。」

 ムス、と何処かふてくされた様子で安曇が言った。その言い草が近江谷には癪に障ったらしい。

「強制参加じゃないわよ。」

 嫌なら来るな、と険の籠もった声で、近江谷がきつく安曇を睨む。安曇もそれきり黙り込んだ。

 気まずさがそれぞれの間で妙な蟠りを作っている。自ずと無口になる室内に、ただ絵の具を塗る音だけが響いた。

「そいつは…悲哀の色だな。」

 滋賀崎が安曇の後ろから、ぼそりと呟いた。安曇の描いたニケは、清んだ蒼に染められて固く凍りついている。深く湖に沈んだように、綺麗だけれど哀しい。

 筆をキャンバスに付けたまま、安曇の手が震えて止まった。

「素直に泣けばいいじゃない。意気地無し。」

「うるせぇ。てめえら。」

 それだけ毒づいて、再び安曇は筆を動かした。時折鼻を啜る音が、室内に響いて情を誘う。

「ねぇ、哀しみに情熱を足したら慈愛になるかな。」

 しんみりを吹っ切る明朗な声で、近江谷は叫んだ。そこにあるのは、想う気持ち。

「ああ、なるんじゃないか。」

「そうね、それも有りかもね。」

 滋賀崎も高島も、笑顔を向けて応えた。


 外は寒い。けれどその陽光には春の暖かさが隠れている。

 そして天使が羽ばたくに相応しい青空が広がっていた。


2013/10/28 考

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