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表・本匣  作者: R-N
8/21

「慈愛のマリア」

ストーカーの話と彼女の姿より

 古くからあるその修道院は、小高い丘の上に建っていた。

「シスター・エリス。今日はシスター・マリアのお手伝いをしなさい。」

「はい、マザー。」

 シスター・マリアは皆からも一目を置かれる、とても慈愛に満ちた女性であった。まだ駆け出しのエリスは、そんな彼女の仕事の手伝いが出来る事を誇りに思い、嬉しさに胸が満ち溢れていた。

「どうぞ宜しくね。」

 マリアはエリスにそう、優しく手を差し伸べる。その微笑みはとても綺麗で、未熟者のエリスさえも、温かく迎え入れてくれる偉大さを感じた。


 シスター・マリアの仕事は、特別なものであった。それは、建物の裏手にある古い井戸の見回りである。

 その井戸は、穢れた者の棲む世界と繋がっており、時折この正常な世界へ出ようと、這い上がってくるといわれているのだ。

「もしもその様な恐ろしい者が上がって来ていたら、どうすれば良いのでしょう。」

 向かう途中、不安な気持ちを抑えきれず、エリスはマリアに尋ねた。マリアもエリスを気遣う様に、震えるエリスの手を包み込んで、こう述べた。

「大丈夫ですよ。彼等を救って差し上げれば良いのです。全ては神の思し召しです。」

 迷い無く答えるマリアの瞳に、エリスは深い愛と感銘を受けた。

 井戸は窪んだ牧草地にぽつんと置かれていた。囲いも何もされていない。それでも近づくものの無さは、伸びた草丈が物語っている。

 その中の真っ直ぐ伸びる一本の井戸への道は、マリアの勤勉さを示している様にエリスは感じた。

 二人は細い一本の踏み締められた道を辿って、井戸の元までやって来た。井戸の中からは、冷たい霊気と薄気味の悪い風音が、響いき上がって聞こえてくる。

「シスター・マリア、」

 恐れにエリスはマリアの腕にしがみついた。

「怖がらなくても大丈夫ですよ。」

 覗いて御覧なさい、とエリスに薦める。中は何も見えないのだから、何も怖がる必要はない、とエリスを宥めた。

 エリスも、マリアの薦めに応じて、恐る恐る井戸の中を覗いた。確かにマリアの言うとおり、光の届く数メートルしか中は見えない。後はただ真っ暗な闇である。




 その日から一週間。

 エリスはマリアと共に、毎日この仕事に従事していた。

「シスター・マリア。私は神に感謝します。」

 エリスは井戸で祈りを捧げ、満たされた微笑をマリアに向けた。

 恐れられる、穢れた者との遭遇もなく、毎日無事に勤めを果たしてこれたからだ。

「きっと神が私達に御力を添えて下さっているのでしょう。」

 マリアもエリスを励まし、共に感謝の祈りを捧げる。

 祈りを終えて、二人は井戸を覗き込んだ。

 井戸の中はいつもと同じ景色が広がっている。それに付加するように、中心に青い玉が美しく光ってみえた。

「シスター・マリア。神様が私達に御褒美をくだされたのですわ。」

 その喩え様のない神秘の宝石を目にした気分のエリスは、はしゃいで素直な嬉しさを口にした。対照的に、マリアの眼差しが一瞬険しくなる。だが笑顔を忘れぬマリアは、そんなエリスを咎める事無く、スッと差し出した手で務めの終了を示した。

「さあさ、戻りましょう。他の仕事もまだ残っているのですから。」

「はい。シスター・マリア。」

 エリスは心踊らせて、マリアと共に建物へと戻った。小さな運命の歯車が、軋みを上げて回りだした事を彼女はまだ知らなかった。




 翌朝、どうしてもあの青い玉光が気になって、何時もよりも早く、そっとエリスは寝所を抜け出した。

 本来ならば決められた時間にマリアと共に訪れる決まりなのだが、今のエリスはそんなことすら失念して、足早に建物の外へ繋がる扉へ向かった。

 薄絹一枚羽織っただけの修道服は、夜明け前の朝露に湿り、寒さにエリスは身を震わせる。

 既に井戸へ向かう道の露は、何者かに払われた様に落ちていた。怪訝に思いながらも、エリスは井戸の見える所まで来た。

「シスター…」

 井戸の傍に佇むその人影に、エリスは呼声を詰まらせる。

 いつもと違い、真っ白な消毒服をマリアは身に纏っている。手袋で被われた白い彼女の手は、井戸の方へ伸びていた。

 その手にぶら下がるように、井戸から覗く黒い人影は、昨日みた青い宝石を宿している。


 マリアの手を掴んでいたのは、小さな少女であった。黒く薄汚れた肌やボサボサの煤けた髪、みすぼらしい破けた服、何より栄養の行き届かなかったからであろうちぐはぐな肉体を、マリアはいつもと変わらぬ笑顔で見ていた。

「さようなら。」

 はっきりとマリアはそう言った。少女の無表情な顔は、何故?と問う眼差しだけをマリアに向けて、マリアの白い手袋と共に、真っ逆さまに墜ちていく。

 エリスはただその光景を震えて見ていた。

「し…シスター・マリア、」

 見られていた事に動じもせず、見ていたエリスを咎めもせず、当たり前の様にマリアは微笑んでこう述べた。

「神の思し召し、ですよ。あの少女も己の醜さを白昼に曝されず済んで、さぞや喜んでいる事でしょう。」

「で…でもあの高さから落ちたなら命を落としてしまいかねません。」

「ならば現世の苦しみから解放されて、神の身許へ旅立てた、ということです。素晴らしいではありませんか。」

 更に言葉を続けようとしたエリスは、グッと息を飲んだ。微笑みを湛えるマリアの…その口許が恐ろしく思えて、声が出せなかった。

 慈愛ではなく、それが嘲笑に思えたから。

 黒い少女の澄んだ青い瞳がエリスの胸一杯に広がっていく。純真無垢な「ナゼ?」と問い掛ける疑問の眼差しが、余計にエリスの胸を抉り刺す。

 耐えきれず、エリスはその場から逃げ出した。




 マリアは礼拝堂に戻ると、日課の祈りを捧げている。

「いつも感心ですね。」

「マザー。」

 マリアは祈りを止め、振り向いた。

「今日も憐れな迷える子羊を、あるべき群れへ還して参りました。」

 使命を全うしたような充足感を胸に抱いて、マリアは今日の仕事を報告する。

「エリスは…残念だったわね。」

 マザーの落胆した声音を慰める様に、マリアは落ちついて答えた。

「仕方がありませんわ、マザー。全ては神の思し召しです。」

 マリアはその眼に修道院の神が云う『慈愛』を湛え、微笑んだ。



2013/10/8 原稿

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