「茅ノ輪」
文月に入る前日。
三十センチ程の背丈に伸びた草を刈って、小さな草輪を作ってみた。草の名はチガヤという。
夏越の祓祭には、茅ノ輪くぐりと云うものが有り、私も其れを真似て作ってみたのだが。
「やはり小さいな。」
出来上がりの輪は、精々腕が通る程度。まあ、材料故に仕方がないか、と半ば諦めた。
輪を外にかざして、その中からの景色を眺める。
「そう言えば、彼は今頃どうしているのか、な。」
一度逢ったきりの相手だというのに、口に出して呟いてみたくなった。何故だろうか。
あれはまだ梅雨に入る前の話だ。
いつもの散策に飽いたので、私は気紛れに足の向きを変えた。視線を変えて見ると、似たような景色であっても、不思議なもので違ってくる。
私の歩く目の前には、綺麗な光彩を放つ虫が、立ち止まっては羽ばたいて進み、また立ち止まるを繰り返していた。
ハンミョウ(斑猫)だ。
更にもう一匹、まるで仲睦まじさを演じるかのように、入り乱れて互いに先を競う。ハンミョウの道行きに案内されながら、私も気儘に歩を進めた。
古い民家の軒に辿り着いたのは、そんな虫達の演技に夢中になっていた所為だろう。
「おう、良く来たな。」
屈託の無い笑顔で、民家の縁側に立っていた彼が、私に声を掛けてくる。
「ああ、済みません。勝手にお邪魔しております。」
「構わねぇよ。ついでに、んな丁寧に言うのは止しとくれな。」
慣れねぇから、と気恥ずかしげに、彼は古びたヨレヨレの着物の襟を掻き寄せた。
「何にもねぇが、好きなだけ寛いでいっておくんな。」
それはまるで旧知の友との再会を喜ぶような、温かな物言いだった。のち私はこの不思議な縁に魅了される事になる。
初対面故に、当たり前の事を私は尋ねた。
「名を聞かせて貰って構わないか。」
「おう。好きに呼んどくれな。」
それじゃあ答えになっていないじゃないかと、不服を申すと、豪快に笑い声を上げて彼は徳利に入れた湧水を私に注ぐ。
彼の事は何一つ分からない。
徳利に水を入れたのは、酒の代わりというよりも、ましな器がそれだけだったという、お粗末な展開の所為だ。奇しくも見た目は、清酒を呑んでいる気分になる。
古い物が雑然と置かれた畳敷きの部屋は、清潔には程遠い気がするが、何故か嫌に感じない。そんな彼の生活を想像するに、身形から推測してもかなりの極貧生活を送っていそうだ。
もてなしに出てくる物が、清水のみという。かなり変わった待遇も、彼なりの精一杯、かもしれない。
だがしかし。そんなことにはお構い無く、私と彼は親しく雑談を交わしていた。裏山から引いているという湧水を茶がわりに、私は彼と談笑を重ねた。
「色めき立っているじゃねえか。」
「何がだい?」
「チガヤだよ。」
それ、と道の端でずらりと立ち並んだ、銀に光る花穂を指差す。
風に靡く姿は小振りながら、一面に広がっていればさぞや美しかろう。まだ若い花穂なれば、形良く整っており、眩しい程に陽を反射する。
彼はまた全く異なった視点で、それらの姿を見ている様であった。
「締まったカラダを、芯を赤く染めて、皆我先にと風に戦いでいるじゃねぇか。」
「只の草に『色めく』と使うも変じゃないか。」
「何でい、花を咲かすのは子孫を残す為だろうが。ヒトが交尾むのと、大して違いねえよ。」
いやらしい物言いも、彼の口を借りれば嫌味無く、その瞳は宝物に出逢えたかの様に、きらきらと輝いている。
紅潮しているのはチガヤだけでなく、彼もであった。
「いいよなぁ。命ってぇのは。」
しみじみと彼の双眸が、感慨深げにチガヤ達を見ていた。痩せた彼のうなじが、私の眼に浮き彫りになる。
「君は、一人なのか。」
ふと口を突いて言葉が零れた。聞いてはならない事のような、奇妙さを感じたが、彼はあっけらかんと答えた。
「何でい、見ての通りさ。」
恐らくはそうなのだろう。が、分からない。
はぐらかされたままに、私は日暮れと共に彼の住家を後にした。薄暗くなりかけた道端で銀に光る花穂の列が、帰り道を示している。
少し足早に、私は家路を急いだ。
直ぐに梅雨に入り、雨の降り続く日に埋もれて、私の散策も長い間中断を余儀無くされている。
漸くの晴れ間に、あの道案内をした斑猫のような輝きで、虹が遥か向こうの空をうっすら跨いでいた。
「ああ。」
また、彼と一献交わしたいものだ。今度は手土産に鱧でも一尾、仕入れていくかな。
フサフサと綿のように開いた花穂を靡かすチガヤを前にして、私は一人笑みを溢した。
朱く染まる景色の中で、立葵が上の先まで蕾を膨らませている。
梅雨が開けるのも、もう間近だ。
2013/6/30




