「シミ」
シミ─紙魚
いつしか古い書物や紙物に付き、文字を喰い散らかしていく困った蟲である。
古本のページにいつくか穴の開いた箇所はないだろうか。
喰われてしまった文字は何処へ?
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頭が重い♭ 気持ちが悪い♭ すっきりしない♭ …のを全てコイツのせいにしてしまおうと。
うやむやに言葉が形にならない気持ち悪さと、ずーんとくる頭の重さ。
きっと脳みその中で、シミ蟲が言葉を食っていやがるのだ。ちくしょうめ。
古い写真や手紙、それに葉書を整理していたら、何かぽとりと落ちた気がした。
何だろうと見てみたが見当たらず、別段気にも止めずに整理を続けていた。
「あ、」
ふと目に留まったのは、昔に貰った恋文だ。懐かしさが、甘酸っぱい香りを運んでくる。少し気恥ずかしく思いながらも、そわそわと浮き足立った心持ちで、封筒の中に納められた手紙を広げてみた。
おかしいな。こんなに空白が多かっただろうか?
少し色褪せた白い便箋のキャンパスを、たゆとうように言葉が泳いでいる。泳いでいる、というのは適切ではないが、まるで詩を書いてあるかのような短い文に、想いが込められているようであった。
昔に読んだ時の記憶と照らし合わせ、首をひねりながら丁寧に折り畳んで、元の紙筒の中に戻す。茶色い点のようなシミがつー、と親指から外れるように動いて見えた。
きっと疲れているのだな。
此処の所、ずっと頭の奥が痛く重く感じているのだから。少し休めば元に戻るだろう。
そう思い、目を伏せた。指先を黒い点が走って滑り落ちる。目の疲れから見えただろうそれは、インクのシミのように小さく広がり、畳に消えた。
翌日、空き時間を利用し、昨日の古手紙の整理をしていたら、書きかけの葉書が出てきた。
何故こんなところに紛れ込んでいるのだろうかと、よくみたら消印も押されている。
しかも宛名は自分だった。
裏に書かれた文字を追い、昨日の恋文を思い出した。そうだ、これもあの人からだ、と。
半分ほど書かれた葉書は、不自然に語彙が切れて、よくよく見ると最後の文字は半分ほど欠けている。
何者かが故意に消したようだ。
何故?
疑問が心の内で犇いた。
いつの間にか付いてしまった葉書の茶染点を指で擦りながら、何故このような事が起きているのか、鈍く傷む頭で考えてみる。だが、理由は何も思いつかなかった。
きっと、いや多分、恐らく。気のせい、なのだろう。そう思わなければ頭がおかしくなりそうだ。
目の前を細かい黒砂がざーと横切る。飛蚊症が酷くなったと目を瞑った。そして暫くして眼を開ける。と。
黒いシミの様な小さな蟲が、葉書の文字の上にいた。
いや、違う。文字を…食んでいた。
光を反射しない真っ黒な、闇の塊がぞぞと輪郭を震わせてのたうっている。
その先が、ぬうとこちらを見上げた、ように見えたのだ。
「うわあっ!!」
堪らず悲鳴をあげ、葉書を部屋の隅に投げ付けた。鋭く回転をしながら、葉書は壁にぶち当たり、そのまま畳の上へと落ちた。
あの黒い塊は何処へ行った? まさかいきなり襲っては来ないだろうか。
怖々と、恐る恐る落ちた葉書に向かって這っていく。伏せられた裏の文を確かめる為に、そっと端を持ち上げた。葉書の紙擦れ音にすら心臓が飛び上がる程にびくつく情けなさを、引き攣った狂笑で誤魔化して、蟲が食んでいた面を表にひっくり返した。
あの黒い塊はいなかった。何処かへ逃げたのか。何処へ消えたのか。
「………。」
力が抜けて、尻餅をつくようにその場に座り込む。自分は何をしているのだろう。何をしていたのか。
斜陽が差すまで、己の時間は止まってしまっていたようにさえ思う。
それから数日後の事。
怖くて一まとめにして仕舞い込んでいた例の文類を、どうしても思い出せない宛名を調べる為に引き出さねばならなくなった。
慎重に箱の蓋を開け、一番上に置かれた般若心経の経本を取り除く。そうだ、気休めに入れておいたのだが。果たして効果はあっただろうか。
中身をまとめて取り出して、机の上に広げ置いた。一見変わりのない手紙の束に思える。あの蟲はいないのか。
張り詰めていた息をふーっと抜いた。俄かに黒い小さな斑点が、目の前を無数に横切っていく。
ああ、飛蚊か。目を細め、黒い砂嵐が収まるのを暫し待ってみようとしたその眼前を、黒い塊が顔を上げて覗いていた。
声、すらでなかった。
降って湧いたあの蟲は無数に手紙の束を埋め尽くし、其処に乗せている己が手を伝って這い上がってくる。
腕が黒く染まった。全身も、真っ黒に染まっているかもしれない。見えはしないが、顔中恐らく覆われている。
声は、ひり付いて出なかった。喰われて…いるのだ、私は。
嗚呼、と諦めの嘆息が肺から吹き零れた。
そして、眼を閉じた。
目を開けると、散らばった手紙の束が見える。拾い上げようとして、探していた宛名を思い出した。
なんだ。忘れていなかったじゃないか。馬鹿らしさにふと笑みが零れる。
あの葉書を見つけ、裏返してみると、文字はきっちりと最後まで書かれていた。確かめるまでもないが、今は恋文の内容を詳細に思い出す事が出来た。あのあやふやな幻の如き怪現象は、きっとおかしくなった己の脳が見せた警鐘だったのだろう。
再び文の束を箱にしまう。遠くに鳴き響く蝉の声に耳を傾けて、釣瓶落としの夕暮れを眺めた。
夏の終わりのことである。
─ 了 ─
2011/12 中旬 原稿




