「遠く、あの山越えて行く」
某CMに出てくる山頭火の俳句を思い出す(笑)
「ホトトギス…」とな。
結局、山登りに終わった話。詰めはまた変更するかも。
随分昔の伝話だ。
「かつて此処は八裂峠と呼ばれていてね。」
峠の端の一本松には、鬼に裂かれた者の血が掛けられていた、等と謂われている。
そんな語りを古い食堂の一角で、俺は冷汁を啜りながら聞いていた。
「おばさん、そういやこの辺りで棘抜き地蔵の話も聞いたこと、無いですか。」
話ついでに、俺はその事を尋ねてみる。
八朔の、暑い日だった。
俺の古い記憶の中にうっすらと残っているのは、小さな祠の前に佇む人の姿。俺が母と呼んでいた人の、姿だ。
何処か、暗い洞穴を通り抜けた気がする。生い茂る藪を掻き分け、進んだ気もする。
それでも、何故其所に行ったのか、またそれが何処なのかさえ、わからない。
ただ、強く覚えているのは、薄暗い陰を抜けた後の、その人の顔がすっきりと晴々していた事だけだ。
「棘抜き地蔵の在処は知らないけれど、それを訊く人達は皆、あの峠の先に見えている山を越えて行った、と聞いてるね。」
語り部の女性は、そう俺に答えてくれた。
「有難うございます。」
ご馳走さま、と冷汁代を机に置いて、俺は静かに席を立った。
親父の三回忌はもうすぐだ。
最期はあっという間で、親子の確執は解消されぬまま、親父は居なくなってしまった。
今更なんて事、俺もよく分かっている。それでも消せないこの蟠りが、ちくりと胸を刺して、何度も見ないようにした虚しさが、俺の目の前を被うのだ。
俺の記憶も定かでない刺抜き地蔵の事は、正直行っても無駄かもしれない。けれど、その場所へ辿り着ければきっと何かが変わると、俺には信じずにはいられなかった。
日差しは真っ昼間なだけあって、痛さが刺さる暑さだった。手翳しで青空を睨む。
俺は、ゆっくりと歩き出した。
食堂を出て少し坂を上れば、左手に松の枯木が見えてきた。きっと、鬼が健在であった頃は、もっと青々としていたのだろう。
今は、朽ちた幹が昔の名残を留めている。
「あの山…か。」
眼前に広がる、深い鬱緑の谷。道が付いているように見えない。けれど、峠から山谷へ向けて伸びているのは間違いなかった。
俺は峠より、振り返り見た。
同じ高さの山腹には、それまで気が付かなかった鐘楼が見えた。それより遥か下に、集落が広がっている。昨晩泊めて貰った宿は、ここからだと点にしか見えないものだなと、改めてその遠さを実感した。
俺が此処に至る迄の道程も、やはり遠いものだったのだろうか。
感慨に耽っても、前に進む訳じゃない。少し西に傾いてきた太陽目掛けて、俺は再び歩き始めた。
途中から、人の為か獣の為か分からぬ状態に、行く先はなっていく。それでも微かに道と呼べるその筋を頼りに、俺はひたすら進んでみた。日が落ちたら洒落にならないな、と自嘲しながら、進み難い藪を必死で掻き分けた。
「あっ、」
隠れて見えなかった木根に、足を捕られる。転ばずに済んだは幸いだったが、歩足は遅れる一方だ。
邪魔する輩は必ずいるもので、親父のくだらない愚痴を垂れる顔が、咄嗟に俺の脳裡に浮かんだ。八つ当たりをする親父の腕と、その木根はよく似ていた。
腹立たしさと苛立ちが、余計に歩みを鈍らせる。
日暮れまでに、最低でも洞穴まで辿り着いておかないと、野宿は本当に洒落にならない。
後戻りする事も考えたが、後ろは見たくなかった。見たところで、既に戻る標も無くしている。そんな気がしていたからだ。
次の足場も具合が悪い。助けを、と伸ばした先で、腕を茨の棘に引っ掻かれた。
他人には決して言えぬ憎悪が、前に進もうとする俺の足を落とし込む。それがどうしても遣り切れない。
「くそ、」
ツイてない。上手くいかない時は、大凡そんなもの。
俺は、胸ポケットに忍ばせた御守りを取り出した。
何の変哲もない、交通安全の御守りだ。精々使い込まれた古さが目立つ位だろう。
休憩がてら、手のひらに握り込む。渡してくれた彼女の淡い笑顔が、俺の心を和ませてくれた。そっと、彼女の手が俺のくたびれた背中を押してくれる、温かさと優しさを汗で汚れた己が背に感じた。
「さあ、行くか。」
徐に俺は立ち上がった。どれだけ登ったかは、定かでないが、山はもうすぐ越えられる。きっと越えられる。
そう信じて、次の一歩を踏み出していく。
目的の祠は、まだその先にあるのだ。
どうにか山を越えた尾根で、地元の猟師らしき人に出会った。
「ごくろうさん。大変だったろ。」
日焼けした真っ黒い顔が笑えば、くしゃりと皺が顔面を被う。対照的な丸刈りの白髪は、その歳経た顔によく似合っていた。
「裏の浜へ下りる道なら、洞穴を通って行くのが近道だけぇ。」
無理しなさんな。と猟師は声を掛けてくる。俺は、浜に馴染みはなかったが、洞穴という響きには惹かれた。
「済みません。その洞穴に向かう道をもう少し、詳しく教えて頂けませんか。」
俺はもう一度詳しくその道程を尋ねる。
気さくに猟師は答えてくれた。
言われた通りに、尾根を下り、大きな巖の屹立する小峯をぐるりと回ると、ゴツゴツした岩場だらけの斜面に出た。
慎重に少し急なその斜面を下り、巨石が折り重なる狭い山道を進んでいくと、幾つ目かの巨石を潜った所で、岩壁に空いた洞穴を見つけた。
俺は、意を決し、その洞穴に足を踏み入れる。
中は足音がよく響いた。
薄暗い印象が俺の胸に刻まれる。洞穴はその暗がりに俺を飲み込んで、密かにひやりとする霊気を流す。それまで掻いた汗が一気に冷やされて、俺の身体は縮こまった。
手探りで、俺は慎重に奥へ進んだ。明けぬ夜は無いと、何処かで読んだ台詞が、BGMの如く頭の中をぐるぐると回り始めた。
つられて思い出される記憶もあった。頭を下げに走り回った俺と、その時の胸に巣食う情けない感情。俺の中で鮮明に甦る。
そして、酒瓶を握り真っ赤な茹で蛸で当たり喚く親父の後頭部が、どうしても消えてはくれなかった。堪らずに俺は瞼を閉じる。
人生は山登り、そう喩えられるけれど。他人の意固地やプライドで振り回される尻拭いはもう沢山だ。ましてやそれが親父という、どうにもならない怪物ならば。ならばいっそ。
「明けぬ夜は無いさ。」
俺は、思わずそう叫んだ。暗闇には足音が響く。俺の息遣いも響く。
いっそ、と叫ぶ心の先は見たくはない。だから、たった一人で此処まで来た。
いいや。一人では無理だ。
「畜生!!」
俺が此処に来れたのは、周囲の理解があったからだ。気持ちよく送り出してくれた彼女─妻の支えがあるからだ。
それでも、この胸に突き刺さる親父への憤りが、深く鋭い棘となって抜き去れない。
洞穴は暗さを増し、狭さが身を圧迫した。
そして。
不意に目の前が開けた。
それまでより明るい、と思えば見上げた先に空がある。羊歯や苔の類いが、石に貼り付くように生えていた。
俺の真正面には岩壁があった。その壁には小さな祠があった。切り立つ巖の窪みが、祠として祀られていた。
それだけ、だった。
「…なんだよ、」
胸を突いて出た言葉は、裏切られた絶望感を、俺に深く刻み込ませる。
俺は虚を突かれた気分に陥った。苦しみを取り除く存在など、無い。
此処まで…来たのに。
心共々、膝ががくりと折れてしまった。俺はただ呆然と、中身の無い祠を眺めるしか、出来なかった。
何処からとなく虫の音が、聴こえてくる。
我を取り戻すのには少し時間を要した。
結局は、無駄足だったのだと、自分を言いくるめて、納得させようとしている。
東天には深藍の空。西空には茜雲。両者の色が混じりあう絶妙の光加減が、不思議と俺と祠を包む。
呆然と見ていた俺は、その不可思議さに言葉を無くした。
祠の中に顔が浮かぶ。その微笑は親父の…俺への詫びる顔に見えた。
俺が、本当は求めていた素顔だったのかもしれない。
「うわああああああああああぁ」
慟哭に近い俺の叫声は、辺りにこだました。感極まった心から溢れ出る涙も嗚咽も、止まる気配はない。
陰影に浮かぶ地蔵の慈悲、その微笑。心に深い棘を持つ者を救うという、棘抜き地蔵の話。
俺はただ号泣し、平伏すのみ。
誰の目も憚ることなく、俺は俺自身が溜め込んだ棘を全て、涙に流した。
日の暮れた空に月が昇っていた。
岩壁の向こうに見える僅かな繁みの奥で、チラチラと光が瞬いて見える。
気の抜けた俺は、胡座を掻いて座り込んでいた。確か浜への近道だと、猟師は言っていた。それを俺は思い出した。
俺は、へたり込んでいた腰を上げ、立ち上がった。
あれだけ泣いた所為だろうか、気持ちはすっきりしていた。今なら親父を許せる。
俺は顔を空に向けた。広く頭上を被う夜闇は、無数の星の瞬きで埋め尽くされていた。そして煌々と満月が辺りを照らす。
帰ろう。俺は月明かりに照らされて、再び道を歩き始めた。
「そりゃあご苦労様でしたな。」
旅館の女将は笑いながら、愛想良く酒を注ぐ。
温泉で寛ぎ、海鮮に舌鼓を打つ。少々一人で頂くのは申し訳なく感じてしまうが、ほろりと温まる体に心もほろ酔いに浸っていた。
俺は照れ笑い、程よく脂の乗った刺身を口の中に放り込む。
この浜は旨い海鮮を振舞ってくれる事で有名らしい。
「土産話になるんじゃございませんか。」
「いや、話よりも旨い肴の方が喜びます。」
「それはそうですね。」
フフフ、と女将も俺も笑い、こじんまりとした夜宴は今しばらく続いた。
きっと今宵はぐっすり眠れる。もう、あの親父の顔は柔和に溶けて、俺の中に染み込み消えていった。
2014/07/21 考
2014/07/29 18:18:31 仕上げ
2014/08/21 14:38 改訂




