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表・本匣  作者: R-N
15/21

「竿の上。」

 下の軒先では、お上さんが洗濯物を干していた。快晴、梅雨入り前のさっぱりとした早苗月の平日だ。

「おう、休憩すっか。」

 親方が梯子から首を出し、よく冷えたペットボトルの茶を掲げて言う。

 俺は素直に頷いた。

 瓦にミシ、と重みがかかる。親方はそれをものともせず、軽快に屋根の上まで登ってくる。

「屋根の上は気持ちが良いだろ。」

 棟瓦に腰掛けて、俺にも隣に座るよう勧めてきた。親方の目線の先には、雲ひとつ無い青空が広がっている。

「済みません、まだ修理終わらなくて…」

 俺はうつ向きつつ、お上さんの干す姿を見つめていた。

「まあ、次の雨が降るまでに仕上げてくれりゃいいさ。」

 明日は雨の予報だったな、と一人ごちに親方は呟く。ブルーシートに覆われた、雨漏り屋根の部分は、もう後少し。だが、今日中に仕上げないと…と言うことか。

「ところでおめえ、先刻から何見てる。」

 訝る親方の視線がチクリと刺さり、俺は眼を逸らした。親方の眼は、俺が見ていたお上さんの方へと向く。

 内心で、早鐘が俺を甚く責め立てる。

「…竿、か。」

 ポツリと、親方が言った。

 意外な、何故だか分からぬ一言だ。敢えて親方が図星を外してくれたのだろうかと、俺の心は酷く揺れた。

「よぉ、おめえはこんな話を知っているか?」

 フィと口笛でも吹くような、軽い口調で親方が喋り出す。大概そんな時は決まっている。親方の講釈が始まるのだ。

百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)って奴だ。」

 俺はただ静かに首を振った。


 竿頭とは竿の先。百尺は、それほどに長い、という例えだ。道の果てに達した極みでもある。


「更に、一歩を進む、と続くんだがな。」

 その意味は、現在の己に満足せずに精進せよ、との事らしい。

 一呼吸置いて、親方は少し話を戻した。

「竿の先に立つってのは、坊さんで言やぁ、悟りの境地に立つ、みたいなもんだ。」

 お釈迦さんがおわす所になるんだろうかな。そう、一人ごちに呟く親方は、少し照れ臭そうに俺を見る。

 俺はその、よく分からない話に、まともな思考が停滞していた。

「俺がその坊さんだったとしてだ。竿の先から何を見るだろうかと、ちょいと想像してみたんだよ。」

 竿の先、はるか前人未到のその先へ立った時、人は何を見るのだろうか。

 親方は顔を空へ向けて、高く遠く見上げた。

「でっかい宇宙が広がっているってな。」

 面白ぇじゃねえか。そう親方は無邪気に笑う。天へと伸ばした手の先には青空が。そのまた先には広大な宇宙が。果ては無い、という事は何処までも進んでいける。

「それでだ。フッ、と隣を見りゃ、おめえの顔があって、なんでいと思ったんだわ。」

 俺の頭は理解が出来ずに、白くスパークしていく。それでも親方には相槌を打って誠意を見せた。

「精神に研鑽の差はねえよ。」

 それぞれが、それぞれの過程で悟りを会得している。禅であったり、無意識であったり、本能であったり。修業の果て、出逢いもまた然り。

「おめえも俺も、偉い坊さんも、竿の先にもう既に立ってるんじゃねえかと思ってな。

 なら、誰が高い所に居るとか低い所に居るとか、そんなものはねえんだわ。」

 誇らしげな親方の顔が、優しく俺を見つめている。気恥ずかしさが胸を突き、視線を反らさせる為に、俺は他愛もない質問を親方にぶつけた。

「お上さんも、竿の上に乗ってらっしゃるんでしょうかね。」

 口にしてから、つまらないことを言ってしまったと、俺は後悔した。親方は気にもせず、豪快に笑い声をあげる。

「あたぼうよ。俺の大事な観世音菩薩様だ。」

 俺は、恥じる顔を見られない様に、己の腹へ顔を向けた。親方の率直な笑い声が何処までも、快晴の青に響いていた。




 一頻り笑い終えた後、親方は上って来た時のように、軽快に降りていく。

 俺は服が湿ってしまう前に、修理を終える決意をし、仕事へと戻った。

2014/05/09 18:14 考

2014/05/15 09:01 仕上げ

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