「阿を問う」
「産まれたての赤子に、説法なんぞ必要無かろう。」
無粋なだけじゃ、と僧正は小さな赤子を腕に抱いて、似合わぬ笑顔であやしている。
「それはまだ幼すぎて、理解出来ぬからでございましょうか。」
シンラは円鏡を磨く手を僅かに緩め、師である僧正に問うた。
伽藍は高地に有り、喧騒とは無縁の静寂が保たれている所。
そんな伽藍に僧正の笑声が、よく響き渡った。
「主には、まだわからぬか。」
愉快に頬を緩める僧正の皺だらけの顔に、幼い手が伸ばされる。
「あ、あ、」
つられてか、赤子も楽しげに笑声をあげた。
「主が今磨いて居る鏡。真っ新であった頃は、一点の曇りも穢れも、付いて無かったであろうが。」
「はい。」
頷いたものの、シンラには僧正の意とする物が見えては来ない。
下を向き、改めて手元の円鏡に眼を落とす。鏡は十分に役目を果たす煌めきで、そんなシンラの顔貌を映した。
「鏡も使っていく内に、曇りや穢れが付いてくる。人の心とて同じ事よ。」
僧正は赤子の首に手を添えながら、高く掲げる。
「歳を重ね、他人と交わり学を知る事で、心にも迷いや傷が生ずる。」
無邪気に歓ぶ赤子の頭背に、仏神像の後光が重なり、その笑顔に映えた。
「なので、心もその惑障を取り除くべく、説法を聞きて磨く必要があるのじゃ。」
赤子に向ける笑顔とは裏腹な、厳格な声音がシンラの耳に届く。シンラは手を止めてしまった。僧正の心気に、眼が奪われたのだ。
「じゃが、既に曇りの払われた鏡を磨かぬのと同様に、迷いの晴れた心も説法を必要とはせぬ。無用の長物よの。」
ほれ、手が止まって居る。と、見もせいで、僧正はシンラを窘める。慌ててシンラは磨く手に力を込めた。
「故に、鏡を磨く事は大切な修業なのじゃ。」
「ならば、人間も鏡も、真っ新な方が宜しいのでしょうか。」
赤子と己を競べるも愚かだと、思いつつもシンラはその念を振り払えず、手元とは裏腹に、心に靄が溜まっていく。
そんな卑屈さが、つい僧正への理不尽となり、険を持って口から出でた。
高く高く掲げられた赤子の御体を膝元へ降ろし、僧正は初めてシンラへ、その視線を向けた。
「使い込んだ鏡にも、使い込んだ美しさがある。」
人間の心とて、同じことよ。そう語る僧正の真愛に、シンラは熱くなる胸心を感じ、一心不乱に円鏡を磨き込んだ。
「そなたの話はつまらん。疾く寄越せ。」
豪快に足音を立てて雪崩れ込んで来たかと思えば、足音の主人は僧正の脇に仁王立ちした。
絢爛豪華に身を飾った真如王が、僧正の腕から乱暴に赤子を奪い取っていく。
「おお、吾子よ。退屈はせなんだか。」
生母の出でましに、今日一番の歓声を上げ、赤子は大いに喜んだ。
王の声も赤子を前に、凡そ先程の怒鳴り声と同じ主と思えぬ、それは優しく慈愛に満ちていた。
「バンショウ僧正、ところで吾子の生名、決まったのか。」
生誕月の盈虧期限は明日に迫っている。
「勿論にございます。」
僧正は硯箱を取り出し、三椏で漉かれた真紙に、まずは「阿」を、そして「吽」を書いた。
「阿吽、か。」
「左様で御座いまする。」
赤子は母の腕の中で、キャッキャとはしゃいだ。
「そうか、」
阿は始まりを示すもの。
吽は終わりを示すもの。
「阿吽様もこの世に生まれ出でられた瞬間に、真理のを体現なされて居りますな。」
僧正は平伏しつつ、その命を穏やかな笑みで讃えた。
そして、赤子は、あ、と声を発し満足げに、ん、と閉じた。
2014/4/22 原稿
詰が甘いですね。やっぱり。




