「べぇ」の話
気味が悪い、と俺は思っていた。
生憎と駅の待合室は、俺とその男の二人しかいない。
男は先程からじっと、俺の顔を見てにやにやしている。
「なあ、兄ちゃん。『べぇ』の話を知っているかい。」
「…いいえ。」
関わりたく無かったが、黙っている方が余程気まずく、俺は簡潔に言葉を返した。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、相変わらずにやにやしたまま、男は勝手に語りかけてくる。
「ワシの知り合いに女が居てな。そいつがベロをよく出すんだよ。ベロはわかるかい。」
無視を決め込む訳にもいかず、一先ず俺は首を縦に振った。
「ベロはこいつの事ださぁな。知ってんだろ。」
そう言って舌を垂らし、自分で指さした。
「でさぁ、知り合いの女が何でベロを出すかってぇと。」
勿体振って、男はわざと間を置いた。俺はどうでも良いから早くしてくれと、頭の中で願っていた。
そんな俺の意図を汲み取ってか、ふふんと鼻先で嗤う。
「舌が口ん中に収まり切れねぇ、と言うんだ。」
妙な話だ、と俺は気が削がれて聞く意欲を失った。むしろ今は隙間から舞い込む冷たい冷気の方が、気にかかる。
「舌で喉が詰まっちまうみたいでな。時折そうなるらしい。」
「へぇ。」
興味がないが、適当に相槌を打っておかないと。そんな気に駆られて俺は、呑気に頷いた。
「犬ッコロか猫みてぇに、ちょんと舌を出した姿が可愛くてな。歯を立てて、中へ引っ込まないようにしているから、何かの肉を銜えているみてぇなもんだ。」
あまり想像はしたくない。が、頭の中は勝手にその姿を作り出し、俺は妙な吐き気を覚えた。
「その女とワシは、一緒に旅籠に泊まったんさぁ。」
ああ…聞きたくない。俺は眼を瞑り、俯いた。耳には隙間風が舞い込む、ヒュウと高い音が響いてくる。まるで、喉笛のような決して心地の良い音ではない。
男の声はそんな風の音に乗って、否応なく俺の耳に届く。
「ワシは女と一夜を共にしたが、女は途中で気持ち悪がってな。隣の間で先に休ませる事にしたんだ。
丁度、夜半を過ぎて一刻回った頃だろうか。
「…アカン、」
気のせいか、とも思ったが。女のか細い声が聞こえてな。
堪忍して。そんな風に言っている様に思えたもんだが。
「…アカンょ」
ワシは襖を少し開け、そっと隣にいる女の寝所を覗いた。
何か長いものがひょろりと立っている。よくよく見るとそれは、女の口から突き出していた。
舌だ。
まるで別の生物の様に、ぐにゃぐにゃのた打っていやがった。女は苦しげに呻き声を上げて、とても声が出せる状態じゃねえ。
「…アカンて」
白目を剥いた女の喉の奥から、責める様に声が上がりよる。真上を向いていた女の頭がゆっくりと、ワシの方に向いてな…」
俺は固唾を飲んで、男の言を待った。その時。
ビィィィィィ、と激しく警笛が鳴る。と同時にホームへ列車が静かに滑り込んできた。
「おっと、着いたようだ。じゃあな兄ちゃん。達者でな。」
男はさっと立ち上がると、そのまま真っ暗な列車に乗り込む。車両の扉は閉じられて、起動音は遠くに動き出し、鉄の塊は漆黒の闇へと走り消えた。
列車の去ったホームの先を俺は見つめたまま、動く事ができなかった。
冷たい風が体を凍てつかせる。もう俺は、どうしてだろう、動けそうに無い。
だがそう言えば…。ある光景を思い出し、俺は己を笑った。
情事の最中で絞め殺された叔母が、同じ様に呻きながら、舌を天井に突き出して…いた…な…と。
2014/2/2 考
最後が投げやりになってしまった。




