「鬩-semegi-」
名、を呼ばれた気がした。
化猫の女はゆるりと身を起こした。獣の白毛耳は誇らしく立ち、優雅な尾は長く白く、鞭の如く撓う。
自ら凶眼と称す紅い眼眸は、縦に細く狭められた。
もう一人。混沌に近い闇を走る巫女がいる。何かに追い立てられるように、焦燥に満ちた眸は、寄る辺を求めて辺りを彷徨う。
名、を呼ばれた気がしたのだ。だが、いつの間に迷い込んでしまったのだろう。それは、見てはいけない心の闇だ。
蹲ってはいられない。立ち止まってもいけない。それでも、心臓を握り潰すに等しい痛みは、容赦なく巫女の身体に襲い掛かる。
化猫の女はその体躯を総毛立たせ、咆哮を上げた。奇怪な叫声は身を取り巻く肉の匣を震撼させる。
だが、体躯を押し込める肉筋の厚い壁は、声を上げれば上げる程に圧し潰さんと締め付けてくるのだ。
『ぬ怒吁吁う吁吁ぅ』
化猫の女は牙を剥き、その圧迫に全身全霊で抗った。
心臓が軋む。血流が沸騰する。
「ぁぐっ、」
吐き出す息と共に、巫女の喉元から呻く声も零れ出でた。咄嗟に胸を手で押さえ、傾いた身体を支えるべく地に掌を着く。
躓いて、足を止めてしまった。くの字に折れ曲がった体は冷たく、じっとりと額にも掌にも汗が滲む。
化猫の女は、蠢く肉の圧力に抗いながら、ずぶりと壁に爪を突き刺した。
手に伝わる感触は、生暖かい生きた肉だ。獣が糧とするに相応しい、生血の滴る鮮やかな肉。
化猫の女の胸にも、ちくりと裂痛が走った。しかし、臆する事無く狂悦に口元を歪めて、化猫の女はズブズブと肉の内へ手を埋めていく。
身の内側から鋭く刺すような、暴虐な痛みだ。それが身体を支配していく。
巫女はもう抗えなかった。ほとほとに心が弱く折れてしまった。
断末魔の叫びを喘ぎ上げても、最早その声すらない。肉を割かれて血飛沫を上げる末路が、虚ろとなった瞳に映り込む。
獣の、猛々しい腕が女体を突き通す。
弓形の女体を貫いて、天を突く。まるで其処に生えている様に。
『訃叭叭、訃あは叭叭』
生暖かい、生きた肉だ。獣が糧とするに相応しい、生血の滴る鮮やかな肉。
喩え其れが己が身であったとしても、だ。
『嗚呼は はは叭叭叭』
巫女の心臓から生えた腕が、巫女の肉体を割いていく。白毛の獣耳も血に染まる。黒い肌も褐髪も血にまみれてより赤黒くなる。
化猫の声は赤子の声。巫女の人皮を裂いて生まれ出でた。狂喜の声だ。
同じ顔を持つ化猫が、巫女の頭を蔑み下していた。既に息耐えた顔貌は、ただの人の皮であった。
足で踏みつけられて、へしゃげた頭は木っ端になり、無惨に飛び散った肉片が、血溜まりよりも鮮明に闇に浮かび上がる。
内臓は元より、微塵にされた肉の塊を踏みつけ、化猫の女は満身で、表の位気を掻っ食らった。長らく狭苦しい胸の奥底に押し込められていたのだ。今は、遮るものも屈伏させようとするものも、何もない。
あるがままに、獣躯を謳歌出来る。ケダモノである事を誇れるのだ。
腹の底より笑が込み上げてくる。大口を開けて、化猫の女は歓喜した。
子の宮には命が宿る。例え獣の腹であろうと、それは変わらない。
子の宮は光に満たされていた。それは仏の遍明光であり、神の慈愛であり、人が善きと想う心の具象だ。
命は尊きもの。そして力強き存在。
一粒の胤から出でた緋に彩られた糸が、絡み合い、睦み合い、巫へと貌を変えていく。
化猫の女は不意に、その口を閉じた。妙な違和感が、その身に起こるのを感じた。
笑い尽くした腹が、熱い。
「唖虞ぐ…ぅ」
腹の内が燃え盛る。灼熱の煉獄を取り込んでしまったと勘ぐる程に、腹の熱さは治まらず、其処いら中を七転八倒、悶え暴れ続けた。
焼ける痛みは一向に治まる気配無く、獣身を苦しめる。
「危ゃ噫唖あぁぁぁ…」
ぶすぶすと化猫の女体は焦臭さを放ち、その口からも眼窩からも、煤煙が吐き出された。黒の体躯は次第に炭の如く、黒味を増して硬直していく。
炭化した体躯の表面はひび割れ、其処から漏れ出でた眩い後光が、辺りの闇も切り裂いていった。
粉々に砕け散った獣身は、灰の様に辺りに静かに舞い落ちる。巫女はそれをただ、静かに眺めていた。
巫女の姿も、化猫女の姿も、共に己を映した仮姿。
憐憫に眼差しを向けるは誰が為であろうか。
「…愚かな、」
彼女の呟きは、静寂の無韻の先へ溶け入る。其を聞く者も無し。
幾…久しきかな。
胸の内で化猫の女が嗤った。
2013/10/24 考




