6ページ目 なんとなく落ち込んでしまった
おそるおそる入室し、そっと扉を閉めた。扉のたてるわずかな物音でさえ、静かな室内にはやけに大きく響く。宰相室の中は、いつもは閣下と第一秘書官しかいない。集中できないからと、侍従や女官は別室に待機させられている。
今は、閣下と私の二人だけであった。
陛下のことについては、宰相閣下はそれ以上触れなかった。
現国王陛下は、まばゆい黄金の髪が特徴の精悍な青年である。
陛下といえばキラキラの金髪であり、むしろキラキラしているのが陛下だ。そういった認識を国民は持っている。バルコニーでのあいさつで遠目に見る陛下は、金髪が輝いているぐらいしかわからないのだから、仕方ないだろう。私も陛下の強烈な金髪の印象のせいで、一瞬判別がつかなかった。まさかカツラ一つであそこまで地味になるとは。陛下の変装も侮れない。
今の陛下は、先代陛下から四年前に位を譲られた。
先代様は、現在前王妃様と諸国漫遊の旅に出られているそうだ。初め聞いたときは冗談かと思ったが、本当に漫遊していらっしゃるらしい。道を教えた相手が、引退した英雄王であった……などという事態が普通に発生するのが、今のわが国である。牧歌的なのか、治安に自信があるのかは判別できない。また、先代様が各地の辺境貴族の悪事を暴いて回り、そのため軍の出動がちらほらあるというのも、噂だと思いたい。何されているんですか先代様。下々にはわからない思考である。
現国王陛下と宰相閣下の関係は、ご学友らしい。
陛下、王妃様、陛下の乳兄弟である将軍閣下、宰相閣下は、幼いころからのお付き合いだとお伺いした。
しかし、陛下と閣下には微妙な空気が流れている気がしなくもない。
気の置けない友人や幼馴染と言った雰囲気ではない。それは王妃様の件が絡んでいるのかと、勝手に推測している。殿上人は幼いころから人脈を構築させるそうだ。子供のころから人付き合いが大変そうだ。
田舎でかえるを握っていた私には、想像もできない世界である。人脈よりも、ヤギにエサをやるほうが重要だったのだから。
閣下のご機嫌はうかがえない。じっと窓の外を見て何かを考えていらっしゃる。
昼近くの光は、窓越しに部屋の中に降り注ぎ、調度品と閣下をやんわりと照らしていた。おおむね、閣下は静かな方だ。私が動くたびに布地の音がする。それが気になるぐらい、部屋は静かなのだ。
私は会議準備が滞りなく終了したことについて、簡単に報告を行った。
わかったと、宰相閣下が鷹揚に頷かれたことに安堵する。目立つ不備や指摘はないようだ。
そのとき、扉の向こうから入室許可の声があった。
第二秘書官である。
「入れ」
閣下の許可に、するりと扉が開く。
第二秘書官は、私を見て、閣下に一礼する。全く無駄がない、洗練された所作である。こういったとき、私の所作がまだまだおぼつかないものだと感じる。
第二秘書官は相当文章を書かされたはずなのに、袖口には全く汚れがない。見事なものだ。その顔にはいつものような笑いは無く、目元を引き締まっていた。
閣下は第二秘書官を一瞥したあと、私に指示を飛ばした。
「第三秘書官、下がりなさい」
「はい」
おそらく内密の話なのだろう。
まだまだ私が新参者であると感じるのはこのような時である。ある程度の仕事も機密事項も任せられてはいるものの、おそばにお仕えするようになって半年、難しい案件を振られることはない。信頼されていないのではないと思いたいが、気落ちするのも事実だ。そして、まだまだ先輩方のようなレベルに私が達していないのだろうと実感するのである。 だが、落ち込んでいる場合ではない。できることから仕事をするしかないのだ。
完全に気持ちを切り替えることはいささか難しい。しかし、切り替えなければならない。
官僚は責任感と気合と根性で成り立つ職業である。
私が最初に師事した、財務庁の上司がおっしゃっていた格言だ。お前たちの気合はそんなものか! 官僚としての意地と根性をみせてみろ! と常々倒れ伏した先輩方を叱咤しながら仰っていた。徹夜仕事が普通だったのだ。恐ろしい職場である。年に何名か奇声を上げながら走り去り、そのまま辞職、という事態も起こっていた。異常な職場であったが、当時はまたか、とぬるい目で同僚を見送ることに慣れていた。人間、慣れと言うものは恐ろしいものだ。それを考えれば、今の職場は上司が恐ろしいこと以外は天国のようなものだ。
いまさらながら、なぜ文官で気合と根性が必要なのか。体力が必要ない文官に就職したはずなのに、なんとも理不尽だ。
ともかく、目の前の仕事である。会議の会場を下見しておこう。侍従に席を外すことを伝え、二の郭にある会議場ヘと足を運んだ。
会議場の設営は間に合いそうだった。
会議場にも格式がある。二の郭と一口に言えども、巨大な施設群なのだ。
今回用意した部屋は、特に上位の方々が話し合うための部屋であり、防諜のための仕掛けが幾重にも施されているそうだ。部屋の性質上、危急の時にしか使わない。陛下もご臨席されるとのことで、この部屋での開催となったのだ。
出席者を記した表を警護の騎士に預け、簡単にこの部屋担当の官と打ち合わせをする。
それが終わった時には、かなりの時間が経過していた。
いったん秘書官室へ戻ろうと、来た道をたどっていく。会議まではしばらく時間がある。昼食はとれるだろうか。朝からの緊張の連続で、食欲が薄れると思いきや、逆に体力を消耗しすぎて腹が減った。腹が減っているのに、なかなか帰り着くことができない。相変わらずくねくねと城内の道は複雑だ。階段を何度も上下する。田舎育ちで体力があると自負する私でも、軽く汗をかくほどだ。体力のない文官であれば、移動だけでも重労働だろう。腕が汗ばんできたような気がして、抱えた書類を持ち直す。
その時、声が掛けられた。
「ヴァレリー」
聞き覚えのある声に振り返れば、見知った人物が両手に書類を抱えて立っていた。
疲れた顔でへらりと笑っているのは、財務官時代の同僚だ。
「カナート。久しぶりだな」
おさまりの悪い赤茶色の頭髪をした、ひょろひょろとした背の高い青年である。
普段から個性豊かな同僚と上司を見慣れているせいか、彼のように群衆に埋没しそうな雰囲気に安心する。特に閣下は顔を合わせるだけでも心臓に悪い。
それにしても、カナートは記憶よりもすすけた印象になっていた。髭もうっすら生えかけているようである。よれよれの官服は、彼の疲れそのものなのかもしれない。相変わらず目の周りにクマがすごい。
クマを眺めながら、財務官のスケジュールを思い出した。
「予算編成の時期か……」
「はは……忙しくてね、昨日も帰れなかった」
この時期の財務官は多忙である。
各所が予算の嘆願と確保に動く。そして、財務官はその問い合わせに、前年度の財務状況の締めをしながら調整にあたるのだ。ただでさえ忙しいところに、将軍や大臣がどんどん訪問し、予算を確保してほしいと依頼される。それを断る鉄の心臓を持てる者だけが、財務官として出世できるのだ。
私には到底無理である。見た目通り気が小さい。
今年もあの嵐の中にいるのか。財務官時代を思い出し、鳥肌が立ってきた。私の同情の視線に気づいたのだろう。カナートは疲れた顔で、
「同情するなら、手伝ってくれ」
と消え入りそうな声で言った。冗談だろうが、目が座っている。ひしひしと追い詰められている雰囲気が分かる。さすがに頷くわけにはいかないので、話題を逸らしてみる。
「いや……それよりも、昼食はとったか? とってないなら一緒に」
「ダメダメ、ヴァレリーちゃん。俺と付き合ってくれなきゃ」
話の途中で不意に後ろから明るい声が掛けられ、肩が引かれた。
ぎょっと振り返れば、思ったよりも近い場所に、満面の笑顔があった。反射的に体が硬直する。
第二秘書官である。いつの間に背後に現れたのだろう。
ちらりと第二秘書官はカナートの徽章に目を走らせた。所属を確認したようだ。
「財務官どの、申し訳ないが第三秘書官に用事がある。お借りするよ」
「あ、はい」
唐突な申し出に、カナートは生返事をする。
めまぐるしい展開に、私もついていけない。
「第二秘書官、何か」
「お仕事だよ、さあ一緒に帰ろう」
有無を言わさず先輩に引きずられて移動する羽目になった。カナートのぽかんとした顔が、とても印象的だった。説明を求めるような視線をもらったが、正直私にも意味が分からないのだ。
見上げた第二秘書官が何を考えているなど、全く読み取れそうになかった。