5ページ目 機嫌の悪い上司は正直怖い
宰相閣下のくせを、いくつか第一秘書官からお伺いしたことがある。
少し機嫌が悪い時は、よく腕を組む。さらに悪くなってきたら、左手の中指で、机ないし組んだ腕をトントンと叩く。そして、それを突き抜けたときは―――。
「それで、外務大臣はどう事の収拾を付けられるつもりであるのか」
「それは、現在調整中でして……」
伝達で訪れた外務官は、しきりに汗をぬぐっている。気丈な方だと尊敬のまなざしで見守る。私があの視線の先にいたら、卒倒しているかもしれない。
横に控えているだけでもわかるこの閣下の重圧。
宰相室の空気が重苦しい。
頭の上に辞書が3冊載っているといわれてもおかしくないぐらいの重さだ。あまりの緊張感に、こちらの体がこわばっている。
宰相閣下の機嫌が、最底辺になっているのがとてもよくわかる。
閣下の機嫌が最も悪い時、口元だけに恐ろしいほど綺麗な笑みを刷くのだ。ここでポイントなのは、笑っているのは口元だけというところである。
鉄色の視線は、決して笑っておらず、鋭いナイフのような輝きで相手を威嚇するのだ。
現状、閣下はとても華麗な笑みを刷いていらっしゃる。口元だけに。
外務官はナイフを首に押し付けられたように、萎縮して報告を続けている。
現在報告を受けているのは、第二秘書官を貸し出すことになった案件である。
窓の外にはさわやかな朝だというのに、部屋の中の陰鬱な気配などういうことだろう。ここでは火薬庫で煙管をくゆらせる人物を眺めるような、そんな危険な空気だ。
そう、まだ朝なのだ。
私の憂鬱な一日は、まだ半分も終わっていない。もう帰りたい。早退していいですか。第一秘書官、帰ってきてください。閣下への報告を横で並んで聞く。部屋は人払いをしているため、報告している外務官と、閣下、そして私だけだ。報告を受けて閣下が動くことを補佐するのが、秘書官の職務だから仕方がない。どうしても仕事は機密事項ばかりになる。
ひとしきり報告を受けた閣下は、深くため息を落とされた。
そんな閣下の人間らしいしぐさに、わずかに部屋の空気がゆるむ。外務官の顔の引きつりがゆるむことはなかったが。
「では、追って会議を開く。大臣にその席でさらに詳細な報告を上げてもらいたい」
「かしこまりました」
外務官がぎこちない動きで宰相室を後にするのを、同情をこめて見送った。あなたは立派に戦った。その雄姿を、少なくとも私は覚えていよう。
「第三秘書官」
「はい」
どんなに思考を飛ばしていても、条件反射で礼をする。
閣下は机をゆるく叩いていらっしゃる。瞳に険はない。少しだけ落ち着いたようだ。
「緊急会議の準備を。関係各所に伝達しろ。私付きの職務はしばらく不要だ」
「承知いたしました」
私は部屋を後にし、廊下に出た。ああ、廊下の空気が美味い。ここで仕事をしたいぐらいだ。
しかし、今はとにかく時間がなかった。
関係各所という漠然とした指示を、具体的な言葉に直しながら侍従と女官を集合させる。
外務大臣、実際のことにあたった担当、将軍閣下、頭の中でリストを並べて猛然と書類を作成する。気軽に呼び出せる方々ではない。正式に書類を回し、集まっていただかなければならないのだ。
秘書官室で伝達用の紙に清書をし、サインを添えて必要な官庁へ使いを出した。これで会議室の使用許可は下りるはず。あとは関係各所の長もしくは代理もそこへ集合するはずである。
あわててサインをしたせいで、指の先が黒く汚れてしまった。私の体に染みついた疲労のように黒々としたそれは、いくら拭っても落ちない。
ただ、宰相閣下がお怒りになるのもわかる。
あまりにもあまりな案件であったからだ。
おおざっぱにまとめれば、いつもの二国の大使が、いつも通りいがみ合っているだけだ。
多くの国民は、外国との関係など漠然としか知らない。定住が大好きな国民性である。めったに引越しや旅をするものがいない。
かくいう私も、家庭教師に教わるまで、情勢は全くと言っていいほど知らなかったのだ。
簡単に地理の話をする。
三つ肉が刺さっている串があるとしよう。
左からクアンド、真ん中が自国であるドーヴェ、右がペルケである。海の向こうのキ国からは、三国まとめて認識されているようだが、それは大きな間違いである。
我が国を挟んだ二国はとても仲が悪い。
成立年代も王家の成り立ちも似たようなものであるのに、とても仲が悪い。
双子かと思うぐらい規模も風習も似ているのに、仲が悪いのだ。
しかもはた迷惑なことに、我が国を挟んでことごとく張り合う。
我が国の立ち位置は、両手を両方から引っ張られる兄のようなものだ。こっちの味方でしょ? とわがままな双子から詰め寄られているのを想像していただきたい。おおむね、それで三国間の関係性はあっている。我が国の歴史が五〇年ほど古いため、兄と形容できるのだ。
内乱の折り、先代宰相閣下が最も心を砕いたのは、片方への対抗心で前体制へどちらかの国が後援としてつかないようにすることだったという。そんな子供の喧嘩じゃあるまいし、と歴史書を読んだときに思ったものだ。
しかし、現実は非情だった。
子供の喧嘩よりたちが悪い。
親善のために両国の大使は、一の郭に隣接する形で常駐している。
昨日、クアンドの大使館に勤務する兵が城下町でとある女性に言いよっていたらしい。そこにさっそうと助けに現れた男性がいた。その男性はクアンドの兵を叩きのめし、女性をエスコートして夜の街に消えたらしい。それだけならまだ兵士の個人的な恨みが生まれるだけで終わっていたに違いない。
女性を助け、クアンドの兵を叩きのめした男が、ペルケの大使館に勤務するものだったからさあ大変。両方の上司が出てきて文書での熾烈なやり取りが行われているそうだ。
クアンド大使館曰く、当方の兵にけが人が出た。傷害罪で犯人を捕らえてほしい。
ペルケ大使館曰く、嫌がる女性を力ずくで何とかしようという男のほうが、城下町の風紀を乱している。捕らえて司法で裁きを下すべし。
横で報告を聞いていた私も思った。
どっちもどっちだな、と。
女性を助けるにも、相手をぼこぼこにする必要はない。報告では、腕と足の骨が折れていたとあった。もともとクアンドの兵は相当酔っていたようだ。酔っ払いを落ち着かせるのも、ほかの方法があっただろうに。
また、女性も初めはクアンドの兵に積極的に酌をしていたらしい。しかし、相手がさほど金銭に余裕がないと聞くと、手のひらを返した対応をしたようだ。つまり、金銭目的。ペルケ大使館の男が金を持っていなかったとすれば、彼もさっさと振られているはずである。
案件の内容のばかばかしさもさることながら、両方から詰め寄られる我が国の立場も難しいものだ。宰相閣下の機嫌が上方に向かうことはあるのだろうか。
会議の予定を組み上げ、閣下へ報告に向かう。
いつも通り警護騎士に挨拶をし、入室の許可を求めると、許可が下りるまで、やや間があった。
中で話し声がする。訪問者がいたらしい。
扉を侍従が開くと、訪問者が帰ろうとしているところに鉢合わせた。
反射的に道を譲り、首を垂れる。頭を下げた拍子に、眼鏡が少しずれた。
一瞬、私の目に映ったその人の顔に、強烈な既視感と違和感があった。
相手が通り過ぎるのを気配で感じ、頭を上げる。
ずれた眼鏡を直しても、目に映る人影の姿かたちは変わらなかった。
供を連れずに軽やかに歩み去るその後ろ姿を眺めながら、胃がどんよりと落ち込んでいくのを感じた。下級官僚の官服を纏い、目立たない灰茶色の髪をした青年である。何も知らない人間が見れば、人のよさそうな下級官僚にしか見えないだろう。
呆然とその後ろ姿を見送ってしまう。
「黙っていろ」
「……はい」
宰相閣下から、すかさず指示が入る。
黙っているほか、ないだろう。
なぜわざわざカツラまでかぶって、陛下がふらふらと歩いているかなど、理由を知りたくもない。
もう、帰りたい。
本日二度目、心で私は強く叫んだ。