4ページ目 気まずいものを見た
城をどうしてこのようなところに建てたのか。
遷都を行った百年前の王へ、恨みを吐くのは何も私だけではない。大体の官僚や下働きは、一度は胸中でつぶやいているはずである。
目の前に広がる急斜面に、私はため息をついた。今朝も職場が遠く感じる。
王城は山の半分に沿って建てられている。
上から、一番上の一の郭が王族のいらっしゃる場所、次の二の郭が公式行事が行われる場所、そして三の郭が官庁や官舎がある。更に山のすそ野には、城下町が広がっている。
王城の反対側、つまり山のもう半分は騎士団や軍団の施設が占めている。
高いところのほうが、偉い人がいるという寸法だ。実に分かりやすい。が、毎朝通勤する身としては、なぜそんなところへ作った、と言いたくなる。貴族ならばいいだろう。第二郭の門まで馬車で通えるのだから。私のようなものは、一生懸命山登りである。まだ、三の郭にある官庁が勤務地なら、ここまで苦しまなかったに違いない。残念ながら、私が仕えているのは宰相閣下だ。一の郭の最も近い場所に執務室を構えていらっしゃる。
官舎は三の郭の隅である。
つまり、私は毎朝山登りをしているわけだ。
しかも、官服を汗で汚すわけにはいかないので、着替えをもっての出勤になる。
私はほぼ身一つで出勤しているものの、荷物を持って行き来する使用人たちなどは、この坂にはいら立ちを隠せないだろう。建物の外にある道はすべて傾斜のついた道、そして城内では至る所に階段があり、慣れないものは困惑するらしい。
今朝も延々と坂道を上がりながら、仕事の予定を頭で考える。
今日は第一秘書官が外出されるので、宰相閣下の随行員として各官庁周りに同行しなければならない。何ともストレスのたまる一日だ。朝から考えるだけで目がさまよってしまう。
私が歩くのは、使用人用の通路だ。
貴人と決して出会わないようにできている、裏方専用に網の目状に張り巡らされた道である。
この時間帯は、早朝に働く使用人に会うには遅く、普通に出仕する者たちに会うには早い。
そのため、だいたい私は誰にも会わないまま出勤するのだ。
天気がいいと気持ちはいいが、汗ばむ。じわりと浮かんできた汗に、眼鏡が接している部分の肌が気持ち悪い。眼鏡をのけ、手布でふいて、すっきりする。
私が足を止めたのは、庭園の端にある庭師専用の道だ。二の郭まで突き抜けて歩くには、城内をくねくねと行くより、屋外を横切ったほうがはるかに道のりが短いのだ。ただし、それと同時に急斜面は多くなる。城内では、おそらく外敵の侵入に警戒をしているのか、道が複雑になっており、階段を上るだけならまだしも、下っては上りという気力と根性をためされるのだ。もともと体力より気力の尽きそうな職場である。仕事以外で気力を削りたくはない。
汗をぬぐったついでに、眼鏡用の手布を出して眼鏡も掃除する。眼鏡の曇りは心の曇り、となぜか商家に婿に行った兄が主張していた。当家で眼鏡を使用しているのは、兄と私だけである。
眼鏡がないと、視力がかなり悪い。
ぼやけた視界の隅に、ちらりとなにかが見えた気がした。
眼鏡をかけなおしそちらを向くと、生垣の向こうに人影が見える。
知っている人物に、朝から運動とは違う汗がにじむ。
第二秘書官と、宰相室付きの銀髪の女官である。
朝とはいえ、こんな人目を忍ぶ場所で二人っきり。どう考えてもあいびきであろう。ただの立ち話という風情ではない。二人の距離が近すぎる。
気まずい。
よりにもよって、私の通勤ルートであいびきをしないでいただきたい。
生垣の向こうにちらちらと見えるだけであるので、こちらには気づいていないようだ。それだけが幸いである。第二秘書官はもてるらしいので、女官殿はしっかり捕まえておいたほうがいいと思う。頑張れ、お幸せに、と心の中で応援をする。
私は気配が薄いことでも有名である。これ以上場面が進行しないうちに立ち去るのが良いだろう。
いつも以上に気配を殺し、そっとその場面から立ち去った。幸いにも、最後まで二人がこちらに気が付いている様子はなかった。
「第三秘書官殿」
秘書官室近くで、騎士に呼び止められた。知り合いの騎士である。宰相室の警備によく立っている人物だ。困っている様子だった。
「おはようございます」
「ああ、挨拶もせずに失礼しました。第三秘書官殿は、第二秘書官殿の車寄せの場所をご存知ですか?」
第二秘書官は、言うまでもなく貴族だ。毎朝三の郭にある邸宅から、馬車で通勤している。
貴族の馬車での乗降は、身分と家により場所が決められているのだ。おそらく何か急ぎの書類が発生したに違いない。私は先ほどの光景をぼんやりと思い出しながら、
「ああ、第二秘書官なら」
と口を開いたものの、さっき見ましたよとは、さすがに言えない。
「……いつもでしたら、そろそろお見えになるころあいだと、思いますよ」
無難なことを口にした。気が弱いとののしるがいい。いろいろ噂が流れて困るのは、第二秘書官よりも女官殿のほうだろう。であるので私の対応は間違いではないはずなのだ。
「そうですか」
と言いながら、騎士は困った様子のままだ。
「どうかされたのですか?」
「いえ、外務官の方が至急、外交文書の清書を依頼したいと」
それは私では無理な問題だった。そうですか、とあっさりと頷くだけに留めておいた。そもそも外務官にも何名か清書できる人物がいたはずだが、第二秘書官に依頼を持ってくるとなると、相当危険な状態なのだろう。しかも第二秘書官は宰相閣下の直属である。あの、宰相閣下の部下を使うほど切羽詰まっているといいかえれる。
「……探してきましょうか?」
私の申し出に、騎士は恐縮した様子で、
「いえ、他にも何名か使いとして走っておりますので、そこまでお手を煩わせるわけには」
と固辞した。それなら、誰かが第二秘書官を捕まえられるだろう。
騎士にとりあえず第二秘書官の車寄せの場所を伝えると、彼は慌ただしく去って行った。
何をした外務官。騎士を使い走りにするとは、よっぽどの事態だと推察できる。彼らの勤務も交代制であり、気軽に持ち場を離れることなど出来ないのだ。
内乱後、先王陛下も現陛下も、特に外交に心を砕いている。国内が浮足立っている今、外国に隙を見せるわけにはいかない。その方針で、特に外務官の職責は重要なものになっている。
そこまで考えて、気づいた。
これは、宰相閣下まで上がってくる案件かもしれない。
しかも、今日の随行員は私である。
第一秘書官はいらっしゃらない、しかも今の雰囲気では第二秘書官もそちらの案件にかかりっきりになるはずだ。と、すれば、消去法で私が一日宰相閣下に張り付いていることになるだろう。
機嫌の悪い閣下と、ずっと一緒。
変な笑いが出てきそうだ。
とにかく、すぐに服を整えて今日の宰相閣下の予定を、もう一度チェックしておかなければならない。おそらくどんどん変更が出て、その都度対応に追われるはずだ。予定を早くこなすことを好む閣下は、用事を済ませつつ、問題にも当られるだろう。一日がギュッと詰まって濃縮されるはずだ。
外務官、恨みます。
何があったかなど情報が流出してはならない。今日も日記に罵倒を書き込もうと思う。
朝から廊下に膝をつきそうになったことも、明記しなくてはならない。……ただし、心の中で。