2ページ目 先輩にいじられた
「やってしまった……」
私は呻きながら机に突っ伏した。最後の最後で誤字をしてしまった。書き直しだ。黒い模様かと思う書類を眺めながら、憂鬱なため息をつく。まさかの誤字。これを書き直しか。憂鬱になるだろう。だが、誤字をそのままで提出する度胸はない。
机の材質は、頑丈な樫だ。重ねられたニスのおかげで、美しいつやが出ている。机の表面の冷たさを、突っ伏したまましばらく味わう。
秘書官室に誰もいないからできる姿だ。作法がなっていないにもほどがある。
頭をからっぽにして、首だけめぐらせて、窓の外を眺める。
窓からはいつも石造りの建物群が見えるはずなのだが、今は全く見えない。
夜だからだ。
哨戒のためのかがり火が、闇の中でぽつぽつと星のようにきらめいている。
城下町までは距離が遠いため、街の明かりがここからはよく見えない。
昨日の偽騎士は、どうやら内乱前の時代に騎士団に所属していた人物の手引きだったらしい。
道理で敬礼の所作がよどみないと思った。内乱の後、格闘術と弓術が必須に取り入れられている。そのため、弓を扱うもの独特のタコが手に出来るのだ。前体制時代の騎士団は、とにかく見栄と不正の温床であったため、華麗さを追求した剣術のみが必須だったそうだ。
そのおかげで内乱時代は、反乱軍とされた先代陛下があっさりと勝利を手にされたようだが。
考えにふける時間はない。こうしている間も、どんどん過ぎてしまうのだ。早く済ませなければ、明日の業務に差し支える。
勢いよく起き上がり、深呼吸をする。休憩は終わった。後は清書を残すのみ。インクつぼを手に取り気合を入れなおしたとき、ドアが勢いよく開いた。
明るい声が遠慮なく私に突き刺さる。
「よーう、ヴァレリーちゃん。今日は残業? ちゃんと早く寝ないと大きくならないぞー! はっはっはっはっは」
軽い声には、いやなほど聞き覚えがある。
私は首だけをそちらに向けた。同じ姿勢をずっとしていたため、ばきっと音がする。
短めの黒髪は奔放な気質そのままにくるくるとカールし、緑の目はおもちゃを見つけた子供のように輝いている。おもちゃを見つけたのは文字通りそうだろう。最近のおもちゃは私である。迷惑極まりない。
女性にセクシーだといわれる右目のなきぼくろが特徴的な男性。左手に紙袋を持っている。
この軽くてイラッと来る人物こそ、第二秘書官だ。伯爵家の方である。なぜかこの方は私をいじることに重きを置いているのか、挨拶とともに地味にイラッと来る箇所をついてくる。せっかく長期の仕事で秘書官業務から外れていたのに、そちらが終わって戻ってきたのだろう。
「第二秘書官は、お帰りにはならないのですか?」
官僚宿舎で寝泊まりしている私と違い、この方は第三郭そばにある、伯爵家の邸宅から通ってらっしゃるはずである。早く帰れ。馬車待たせているんだろうが。御者さんに迷惑だ。心の中でシッシッと追い払っていると、
「つれないなあ」
と私の書類をのぞきこんでくる。
「うわ、細かッ! そんなの、ちゃっちゃっと書いて、ピュッと出しておけばいいんだよ。ヴァレリーちゃんは細かいなあ。字まで小さいなんて」
うるさい。
そもそも、この人は性格と言動は軽いものの、書類は完璧なのである。しかも美筆で知られている。国でも使えるものの少ない、華文字と呼ばれる装飾文字まで習得しているのだ。あのひらひらとした筆跡は、私にはまねできない。外交文章を清書する仕事をよく任されている。そんな人に、私の文字を見られているのが異常に気まずい。読みやすいがうまくないのだ。
「書き直しますので」
失礼にならない程度に、ゆっくりと書類を引っ張って回収する。
「ふうん……」
私の所作に思うところがあるのか、楽しそうに第二秘書官はしげしげとこちらを眺めてくる。いやな予感しかしない。
第二秘書官は、私の額を指先でパチンと弾いた。
「うわっ!」
これはパチンどころではない。かなりの打撃である。首が後ろに仰け反った。この人は何をするんだ。思わず椅子ごと後ずさる。腕を伸ばしても届かない範囲に退避を完了してから見上げる。これは先輩からの暴力に入るのか? ずれた眼鏡を直す。
「ヴァレリーちゃん、遠慮してるだろ」
「遠慮、ですか?」
「別におっさんや俺に遠慮しなくていいのに」
彼が言うおっさんとは、第一秘書官である。二人は昔馴染みだそうで、気安くそういうものの、私には絶対無理な呼び方だ。身分が違いすぎるので、遠慮しなくてはやっていけないでしょうに。
「昨日みたいに、危険だなと思ったら、先に誰かに言え」
「わかりました」
それは第一秘書官にも、昨日厳重に注意いただいたことだ。
「あと、今みたいにやられて嫌なことは言うんだぞ?」
「はあ」
この人なりに何か思うところがあるのか、妙なことを言い出している。
それよりも聞き捨てならないことを言っている。やられて嫌なことと分かっていてやったのかこの人!
第二秘書官は、不意に声を潜め、ほとんど唇を動かさないしゃべり方で言った。
「まだ不穏分子がうろついているから、気を付けろ」
まだ終わっていないのか。あの偽騎士から何らかの情報が引き出せたに違いない。おそらくそれをわざわざ忠告しに来たのだろう。実際、あの騎士の正体を最終的に発くきっかけになったのは私であり、怨恨で狙われる可能性もある。
「見かけない人間を見たら、逃げればいい。もやしっ子には期待しないさ」
逃げ足にも木登りにも自信があるのだが、それは今口にすべき話題ではないと判断する。真摯な忠告なのに、余計なひと言で台無しだ。
言うことだけ言って満足したのか、第二秘書官はずっと左手に下げていた紙袋を持ち上げた。
「仕事を頑張るヴァレリーちゃんにお土産だ」
「なんですか?」
渡された紙袋は脂を浸透させないような構造になっていた。中を覗き込むと、香ばしく焼かれた牛肉の塊が串に刺さっていた。私は思わず声を上げた。
「肉ですか!」
「え、あ、肉だけど」
「塊ですね!」
「……そうだな、塊だな」
第二秘書官が若干引き気味である。珍しい。
我が家では肉が食卓に上ることがあると、駆け引きが発生していた。宿題を教える権利と引き換えに肉……こずかいの貸し借りの利子としての肉……常に、肉が通貨と同等の価値を持っていた。
一人で暮らしている今、官舎に付属している食堂で肉が出たときは一人小躍りしていたのだ。肉が独り占めなのである。どれほど素晴らしいことか。しかし、官舎の食堂といっても、利用できる時間帯が決まっている。残業のため、正直、今日の食事はあきらめていた。
「第二秘書官、素晴らしい先輩がいらっしゃって、私はうれしいです」
心からの感謝をこめて、第二秘書官を見上げると、ぬるい笑顔で頭をなでられた。
「そうか、肉が好きか。またにーちゃんが買ってきてやるからな……」
ものすごく不憫なものを見る目で、第二秘書官が言う。私、成人をしているのですが。
「兄が増えた覚えはありません」
こんなに年が離れている兄はいらない。この人が兄であるなら、隠し子が満載なイメージがある。しかもこの人、第一秘書官をおっさんの呼ばわりしているものの、三歳ぐらいしか離れていないはずなのだ。
「細かいことはいいんだよ」
細かくない。
「じゃあ、頑張れよ」
第二秘書官は言いたいことだけを言って帰るようだ。
「……ありがとうございました」
おそらく私に忠告をしに来たのだろう。そのお心はありがたく受け取っておく。明日こそは夕方の鐘で帰って、城下町で食事をと思っていたのだが。第二秘書官の話を考えると、しばらく出歩くことも無理そうだ。
私はいただいた肉に歯を立てる。少し濃いめの味付けをしているようだ。ピリッとした香辛料と、絶妙な塩加減で、肉は冷えてても美味しかった。残業を頑張ろうという気力が、ひと噛みごとに湧き上がってくる。肉は素晴らしいな。
今更気づいたが、いったいこの肉をどこから買ってきたんだ、第二秘書官は。
あの方も、謎の多い方である。
とりあえず、心の日記には肉がうまかったことだけを記しておこうと思う。




