9ページ目 休みという言葉を忘れていた
ごたごたしていた日からあっという間に十日経った。
現在は至って平穏なものである。細かいトラブルなどはあるが、大したものではない。もはや、ナイフが飛んでくる状況よりは、おおよそは大したものではないと言い切れるだろうが。
今日も私はいつも通りの業務をこなしている。書類整理をしている途中、女官が秘書官室に入室した。栗毛の目がぱっちりした子だ。おそらく、この部屋付きの女官では、一番年下なのではないだろうか。
そういえば、最近銀髪の彼女を見ていないな。女官の勤務には詳しくないので、休みかどうかは分からない。
彼女たちは、私の仕事の邪魔にならないように作業を片づけていく。本来ならだれも部屋にいない時間帯に仕事をするのだろうが、だいたい私が部屋にいるので、どうしても時間が重なるのだろう。私自身も、気にしないでほしいと伝えている。
「第三秘書官、お茶はいかがでしょうか」
私の作業が途切れたのを見て、女官がそっと声をかけてくれる。
「いただきます」
休憩の時間だ。早いものだ。
私は伸びをした後、メガネを布で掃除をする。少し、弦の部分にゆがみが出てきた。これも長く使っているせいだろう。替えの眼鏡を買いに行きたいのだが、城下町へ降りていいという許可がまだ下りていない。しばらくはこれを大切に使っていかなくてはならない。
「どうぞ」
女官が微笑みながら透き通った紅茶を差し出してくれる。
ありがたいことに、小さな焼き菓子も添えてある。贅沢だなと思いつつも、遠慮なくいただく。
「ありがとうございます」
いいえ、と微笑んで、女官は仕事に戻っていく。以前、一緒に休憩を誘ったことがあるのだが、休憩の時間帯が違うとやんわりと断られた。立場的には彼女たちより上の位置にいるため、無理強いはできないので、それ以降は誘わないようにしている。女官たちに決して不審がられているのではないと信じたい。
温かい紅茶の湯気で、メガネが曇った。
茶のたしなみはないが、うまく淹れられた茶だということがわかる。渋すぎない。先日、どうしても喉が渇いて自分で入れたところ、渋すぎて涙目になった。女官の技術におののいた。さすが王城勤務の女官である。
官僚になってよかったこと。それは、衣食住の手間が少ないということだ。
洗濯は所定の場所に預ければ、まとめてしてくれる。服も、仕事用のものは支給される。
食事は時間さえ守れば食堂で格安にありつける。
官舎はある程度支払いはいるものの、割安の住居だ。私はベッドさえあれば満足なたちなので、狭さは全く気にしていない。
そして、休憩時間には、上司たちのおこぼれだろうが、おいしいお茶まで用意される。ありがたいことだ。
官僚になったまっとうな動機は、国のために力になりたいというものであった。が、不純な動機は衣食住の心配がいらないというのが大きい。実家のある地方の官吏でもよかったが、より待遇がいいのはこちらだったというわけだ。さすが王都である。
以前、官僚の志望動機を第一秘書官に尋ねられた。その際に馬鹿正直に答えてしまい、第二秘書官に爆笑されたのはいい思い出である。曰く、そんな理由でここまで上がってこれるヴァレリーちゃんも十分おかしい、とのことだった。そこそこ自分は勉強ができるのは分かっているが、そこまで笑われることだっただろうか。第二秘書官にひとしきり爆笑されたあと、第一秘書官に飴をいただいた。なぜ飴。そして、それが懐から出てきたのも謎であった。
どちらにせよ、士爵を正式にいただいているのは父だけである。私もいずれは名前が二つになるのだし、生活基盤を固めておくのは重要ではないだろうか。
焼き菓子を口に含んだところで思い出した。
先日の礼がまだだった。
偽騎士に相対した時、銀髪の女官に助けてもらったのだ。あの時の礼をするべく焼き菓子でも買いに行きたいのだが、なかなか行くことができていない。
これは、かなり失礼にもほどがあるだろう。
「すみません」
「は、はい、ご用事ですかっ」
棚の整理をしていた女官は、唐突に話しかけられたせいか、びくりと跳ね上がった。
あまりの驚きように、私もびくりと跳ね上がる。
驚いた私に、女官がさらに驚いたようだ。わけがわからない状況になってきた。
気を取り直すために、背筋を伸ばして座りなおす。
「突然申し訳ない」
「い、いえっ」
あたふたしているのが、小動物のようで可愛らしい。だが、私相手にこんなに驚いて王宮勤めができるのだろうか。このあたりに出没する方々は、さらに高位の御歴々である。宰相閣下の氷の目線を見ると、この子は固まってしまうのではないだろうか。他人事ながら気になってしまう。
ここまで素直に考えていることがわかる女官も珍しい考えていると、眉を下げながら、女官が心持うなだれた。
「申し訳ございません、至らない点がありましたでしょうか」
どうやら誤解されたようだ。
「いや、今度女官の方々に、焼き菓子でも進呈しようとおもっているので、おすすめの店があればと……」
私はそう言ったことに疎いと自覚がある。
「焼き菓子ですか! 第三秘書官様も、焼き菓子がお好きですか?」
ものすごい食いつきだ。正直、甘いものよりは普通の食事のほうが好きなのだが。否定するのも悪い、と思い、質問に質問で返すことにした。
「焼き菓子がとてもお好きなんですか?」
「はい!」
輝く笑顔で言い切られた。潔い。
そして、女官はいくつもの店を上げていく。どうやらかなり好きなようだ。新作チェックに余念がない。私はそんなにも焼き菓子を売る店が多くなっているのかと、しみじみ考えていた。どうやら流通も回復しているようだ。砂糖類は海から遠い農地で栽培しているため、王都では入手がしにくかったのだ。それが手軽に買える菓子に使われているのであれば、喜ばしいことだ。
「というのが、おすすめの菓子でございます」
話を締めくくり、女官は緊張した面持ちで私を見上げてくる。教師に指名された生徒のような面持ちだ。
「ありがとう、スルヤ殿」
名前を呼べばぱっと笑顔になった。彼女の名前を憶えていたのが役に立ったようだ。
そして、女官は期待に満ちたまなざしをこちらに向けている。これは、買ってこないといけない状況に陥りそうである。
「次に休みがもらえたら、行ってみます」
その言葉に、女官はしょんぼりとした風情になった。私の言葉に落ち度があったのだろうか。
「なにか、気になることが」
促してみると、
「第三秘書官様、いつも執務室にいらっしゃるので……」
私はぐるりと自分の行動を考えてみた。
こういう時、日記があれば正確にたどれるのだが。
前に休みをいただいたのは、閣下がご実家に帰られた日か。
つまり、三十日ほど前である。
あまり仕事が苦にならないので、すっかり忘れていた。そして、基本、閣下も休みを取っていらっしゃらない。王族の方々と同じように、生活が公務のようなものだ。私が休みを取った日も、閣下は夜会に出席されていたはずである。働き過ぎだとおもうのだが。
「私どものことは大丈夫ですので、お休みはゆっくりなさってください」
どうやら心配されていたらしい。
わりと丈夫なうえに、ストレスはためこまないたちなのだ。日記に叩きつけたい、と思うが、吐き出してしまえばすぐに忘れる。
なによりも、休みがあったところで持て余すだけである。王都には知り合いも友人も少ない。
割と私はさびしい生活なのでは、と思い至るが、あまり考えないようにしている。
ともかく、指摘されるまで休みについて気にしたことがなかった。
心配そうな女官を眺めながら、いい子だな、とのんびりした気持ちになる。素直な妹が居れば、このような感じなのだろうか。
「女官の皆さんには、休みがあるのですか?」
「はい、交代でお休みをいただいております。王城では、だいたい交代で休みをいただいていますよ」
もしかしなくとも、と私はあることに思い至る。
「いつも秘書官の皆様はいらっしゃるので、いつお休みなのかと……」
働きづめなのは、私たちぐらいだったか。
財務官時代は休みがなければ睡眠時間がなかったので、休みはきっちり取っていたことを思い出した。休日、寝て体力を回復させるのもどうかとは思う。
「大丈夫ですよ」
心配そうな女官に笑いかけたものの、余計に心配させたようだ。話題を変えてみる。
「じゃあ、最近銀髪の……」
そういや、あの子の名前を聞いていなかった。失態である。
「あの子も、お休みですか?」
銀髪、と聞いてしばらく女官は考えていたが、思い出したようだ。
「ロバートですか。今は他の仕事の応援のようです。最近はこちら付きから外れているみたいで」
その名前を聞いて、頭の隅で何かが引っ掛かる気がして、首を傾げる。
入れてもらった紅茶が醒める前にと、手に取った時、もやっとしたものの正体を掴むことができた。妙な汗が背中に流れる。
「……彼女には、兄弟がいるのですか?」
「兄弟、ですか? 聞いたことありませんが」
背格好が同じ銀髪の騎士を思い出した。後姿と耳のあたりしか見ていないので、確信は持てない。
王城はやはり魔窟かもしれない。知らないほうがいいことが多いようだ。
顔を見たわけではないが、あっさり脳裏で重なった姿。
彼か彼女かは分からないが、礼をするのなら第二秘書官にお伺いしたほうがいいかもしれない、ということは分かった。あいびきに見えたのも、おそらく別件なのかもしれない。あれも口に出さないほうがいい情景だったか。
心の日記に、礼をする、とだけ書き留めておこうと思う。
言えないことばかりが増えていく。