1ページ目 釣りの餌にされた
書類の山が崩れたとき、私は思い立った。
そうだ、日記を書こう!
思わず書類をそろえていた手を止め、ぐっと握り拳を作る。この仕事にまつわる不満や怒り、そういったもろもろの思いを文章に書きとめれば、すこしはストレスが無くなるのではないか……と。文章にすると、思考が整理できるというではないか。それは素晴らしい考えだ! 私は気分が高揚するのを感じた。
そう考えた次の瞬間、目の前の書類の端に書かれた文字が、目に飛び込んでくる。
【機密書類】
ああ、職場での出来事を日記につづるなんて、剛毅なことは私にはできない。
ちょっとした噂話から大事件に発展するときもある。職場は、ただでさえ機密事項の塊なのだ。うっかり文章に起こし、何かあったときに飛ぶのは、私の首だけではない。たとえではなく、物理的に首が飛ぶだろう。私だけではなく、下手すれば一族郎党だ。あの宰相閣下ならやる。そういった意味で、自分の上司に信頼がある。
盛り上がった心が一気にしぼんでいくのを感じた。ため息をつきながら、散らばった書類を拾い上げ整理する。山となった書類の仕分けは、第三秘書官である私の仕事だ。
処理する分野ごとに、書類を仕分けるのでである。宰相府から上がってきている書類が、ここに集約されて、閣下の決裁を待っている。が、その事前に最低限の不備をはじくのが私の仕事である。
書類をあげてくるときは部門ごとにまとめて来い。そして誤字を無くせ。宰相閣下は細かいのだから、誤字があるだけで却下だ。あとは計算の間違いなら、子供の手習いからやり直して来い。
日記を書くことができれば、そういったことを書きなぐろうと思っていた。私には同僚はいるが、身分が違いすぎてこういった日常の会話もままならないのだ。うっぷんもたまる。
本来の秘書の業務内容からはみ出しているようであるが、これも重要な仕事なのだ。内容の判断は閣下にお任せするが、誤字の有無で閣下のお時間を取らせるわけにはいかない。
不備箇所に色インクで指摘をして、却下書類箱に投げ込んでおく。
たまにまとめてゴミ箱に突っ込んでやりたくなるが、そんなことをすれば私の席は明日からなくなるだろう。
書類を乱雑に仕分けた後、項目ごとにさらに仕分ける。後半刻ほどで宰相閣下が戻ってこられる。その時にはすぐに書類を決裁に回さなければならない。
ぼんやりと思考を巡らせながらも集中していると、再びひらめいた。
文章に起こさずに日記を書けばいいのだ。
頭の中だけで!
何の意味もなさそうだが、記憶を整理するという意味ではいいかもしれない。
記憶の整理……そうだ、客観的に自分のことを最初に書こうか。
いったん書類の整理が終わった私は、眼鏡の曇りが気になった。いつの間に触ったのか、指の跡がついている。視界が曇って気持ちが悪いので、頭の切り替えがてら、眼鏡掃除をすることにした。
私は眼鏡を拭きながら、自分のことを紹介するときはどう書くだろうか、と夢想する。自己紹介など、この職場に配置されたときですらしていないな。
誰かに自己紹介するとしたら、ああ、そうだ、名前からだろう。
私はヴァレリー・グリ・アダン、名前の通り士爵家の第三子である。
先の内乱で功績を認められ、父が一代限りの爵位――士爵をいただいた。なので、私たちは何とも中途半端な存在だった。家長は貴族なのに、子供は平民だからだ。幸いなことに、一定水準以上の教育を与えられた私たちは、好きな道を選ぶことができた。長兄は騎士団に入り筋肉ダルマに、次兄は商家の娘に一目ぼれをし商人の道へ、私は安定を求めて官僚になった。末の妹は素敵な独身貴族を探して、精力的に夜会に出席しているそうだ。妹は可愛らしいので、すぐに獲物……いや、夫を手に入れそうなものであるが、いまだ特定の相手はいないそうだ。理想が高いのがやや難点である。職場の人を紹介してくれと頼まれたものの、私の身の回りは父ほどの年齢の方々しかいない。
もっとも私に歳が近く、妹の守備範囲に含まれそうなのが畏れ多くも宰相閣下だ。宰相閣下は、年頃の貴族子女の憧れだそうだ。確かに彼は見目はよく、頭脳も冴えわたっている。だが、妹よ、心して聞け。絶対に宰相閣下はやめておけ。腹黒なうえに、おそらく粘着質だ。しかも私の見たところ、王妃殿下に一方ならぬ思いを抱いている。だが、そんな情報すら妹に話すことはできないだろう。
だから心の日記に書くしかないのだ。
私の現在の職は、宰相閣下の第三秘書官である。栄誉ある地位のようではあるが、実際のところ、偉い方々は第一と第二秘書官のお二人であって、私は使いっ走りだ。侯爵家の方と、伯爵家の方に直接掛け合う勇気がある官僚は、あまりいない。先の内乱で多数の上位貴族が没落し、平民の登用が多くなった。が、それでも平民の割合は二割にも満たない。残りのほぼ八割は、貴族である。しかし、貴族といっても官僚になる貴族は大概嫡男以外か、領地だけでは食べていけない低い階級の貴族なのだ。第一と第二秘書官のお二人こそが例外なのだ。上位貴族がなぜ官僚に交じっているのかが謎である。
ともかく、そういうわけで私のような微妙な立場の緩衝材が必要となるのだ。
私のいかにも本の虫といった風情の容姿も、安心感を与えるらしい。第一秘書官も、第二秘書官も、さらには閣下も、いろいろな意味で強烈な容姿をお持ちである。
そのとき、控えめなノックとともに名乗りがあった。宰相室担当の女官である。きりりと銀髪を結い上げている女官は、たれ目がちな淡い紫の瞳と、しとやかな所作が官僚仲間に大人気だ。あいかわらず隙がない、と彼女の所作を眺めていると、
「あのー……第三秘書官」
恐る恐る女官が私に話しかけてきた。眺めすぎていたか。眼鏡がないせいで、凝視していたのかもしれない。失礼と断り、拭いていた眼鏡をかけなおす。視界良好である。そして話を促した。
「どうされましたか?」
「第一秘書官から、ご伝言です。予定が繰り上がったと」
第一秘書官は主に閣下の行動を管理している。実際の旅程や護衛の手配は補佐官の仕事だ。だが、彼らはいつも苦労をしていた。宰相閣下は予定を早く済ませることが大好きなのだ。
閣下はまだ若いのに、そんなに生き急いでどうするのか。部下の苦労を分かってほしい。ゆっくりしてください。そして、たまには休みがほしい。
ため息をぐっと飲み込み、私は機敏に席を立ちあがった。
「すぐに向かいます」
服装の乱れを姿見でチェックする。秘書官の服装の乱れは、閣下を不機嫌にするだけだ。閣下が不機嫌になるということは、こちらのストレスがたまるということである。
私は整理を終えた書類を持ち隣室へ向かう。
秘書室は宰相室と隣であるが、その扉の前には屈強な騎士が立っている。護衛に常に騎士が一人立っているのだ。重装備でよく足が痺れないなといつも感心する。
と、そこで気がついた。
見かけたことがない騎士だ。麦わらのような色の髪に、乾いた土の色の瞳。中肉中背、これといって特徴のない顔。おお、私の親戚か君は。同じような髪の色に親近感を勝手に覚えた。
「お疲れ様です」
にこやかに声をかける。
私が笑顔になると、なぜかとても弱そうに見えるらしい。騎士団に入った兄と、田舎を駆けずり回っていたので、さほどひ弱ではないのだが。
騎士は表情を変えずに私の徽章に目を走らせ礼を返した。相手の騎士は、スピラル隊の徽章を身に着けている。が、あえて私は聞いた。
「どこの所属の方か、お伺いしても?」
騎士から死角になる部分で、女官が動いたのが見えた。
私がなぜそんな質問をしたのか、気づいたのだろう。彼女は聡い。女官ではなく、官僚でもやっていけるのではないだろうか。
騎士は機敏な動きで敬礼をした。敬礼の所作にはよどみがない。
「はっ。第二スピラル隊に配属になりました、ダン・ベアールです」
「そうですか。私は第三秘書官です」
書類を抱えなおし、手を差し出す。ぐっと握った掌の感触は、剣を使うもの特有の固い手のひらであった。
が。
うちの騎士団のタコと位置が違う。
やはりうちの騎士団の人間ではない。
私はそう一瞬で判断し、騎士の腕をそのままぐいっと引っ張った。
あまりに唐突な行動に、対応しきれなかった騎士が一瞬、体勢を崩す。しかし、敵もさるものだ。足に力を入れ、踏みとどまった。もうひと押しだ。
「本当のお名前をお伺いしたいのですが」
「クソッ」
私の言葉は、相手の冷静さを奪えたようだ。
途端に騎士は悪鬼のような形相になり、私の手を振りほどき、剣に手をかけた。私は武術は全く出来ない。逃げの一手だ。騎士から距離を取る。
騎士が抜き放った剣を振りかぶった次の瞬間、ごっ、という鈍い音が廊下に響き渡った。
どさりとそのまま騎士は崩れ落ち、気絶する。
さすがにヒヤッとした。私は手ににじんでいた汗をぬぐいながら、やっと深呼吸した。
わらわらと見知った騎士たちが現れ、あっという間に偽騎士を連れ去る。どうやって入り込んだなど、取り調べが始まるに違いない。こんなに中枢に入り込めるとは、警備体制を見直していただきたいものだ。
「ありがとうございました」
救い主を見上げて、私は礼を口にする。
先ほどの騎士も恐ろしい形相をしていたが、背後に立っている彼の顔も恐ろしいものである。冬眠明けの熊だとたとえるしかない容姿の持ち主が、文官の衣装を着ているのがいまだに理解できない。
「お疲れ様です、第一秘書官」
「おう」
横にも縦にもでかい第一秘書官は、兄よりも巨漢であり、筋肉ダルマである。腕は丸太ほどあり、胸板もはちきれんばかりだ。これで侯爵家の方だというのだから、世の中分からないものだ。上流貴族は優雅な生き物だという私の先入観を、完膚なきまでに叩き潰してくださったのが、この第一秘書官である。
「第三秘書官は怪我はなかったか?」
「ええ、おかげさまで」
第一秘書官は、私の頭をガシガシと撫でた。先ほどの立ち回りよりもこちらのほうが頭に深刻なダメージを与えるのだが。歳が一回り離れているうえ、背の高さも第一秘書官の胸の半ばまでしかないので、この扱いは仕方ない。同僚に邪険にされるよりは、はるかにましである。
第一秘書官は、ひとしきり私の頭を翻弄した後、唸りながら忠告した。
「武術ができないのに、貴官の行動は軽率すぎる」
「第一秘書官がいらっしゃったのが見えたもので」
巨体のくせに、機敏な動きをするのだ。ちらっと見えたらあっという間に接近していた。私は髪の乱れを直した。反省の色が見えない私に、第一秘書官は忠告をあきらめたようだった。
「女官の機転に感謝しろ」
「はい、今度菓子でも差し入れます」
女官が人を呼びに行ったのは、私が相手の名前を聞いたからだった。
私の数少ない特技は、人の顔と名前を忘れないということだ。
これがあるから、第三秘書官という職にありつけたのだ。
「それにしても、よく貴官は人の顔を覚えているな」
第一秘書官がしみじみという。
「いつみても不思議なのだが、髪色を変えても見分けがつくだろう? コツが知りたい」
「いえ……実家で、ヤギを見分けているうちに、人の見分けも得意になりました」
「ヤギ?」
「ヤギです」
自慢ではないが、当家はかろうじて父が爵位を持っているものの裕福ではない。平民に限りなく近い。領地もないのだ。ヤギを自宅で飼育している。日中はヤギを放牧しているのだが、それがたまに脱走し、ご近所のヤギと混じるのだ。その時、自分の家のヤギぐらいは見分けなければ回収ができない。そしてこの特技を身に着けた。
この話をすると、大体の人間は、棒を飲み込んだような顔になる。
ちょうど今の第一秘書官のような顔だ。
「まあ……なんだ。それで身につくものなんだな」
「はい」
その時、特徴的な靴音が廊下に響いた。この恐ろしいまでに正確な靴音を耳にした途端、体が条件反射で廊下の端に下がり、首を垂れる。
「ご苦労」
宰相閣下のご到着だ。
「無事にあぶりだせたか」
玲瓏たるお声でとんでもないことを仰った。
「第三秘書官が見覚えがないというのなら、確定だ」
人を真贋の鑑定士代わりに使わないでいただきたい。能力を評価していただいているのか、私はやはり使い捨ての駒なのか、どちらかにしてもらいたい。いや、どちらも正解か。
面を上げろとのご指示で、下げていた頭を上げる。
宰相閣下は相変わらずの氷めいた貌で笑っていらっしゃった。青銀の髪に、笑っていない鉄色の瞳。なまじ整っているものだから、迫力は半端ない。
「やはりまだこの国には不穏なものが潜んでいるようですね。さて、どうするか……」
内乱で一度瓦解寸前までいったこの国を建てなおしたのは、先王陛下と先代の宰相閣下だ。その正当な継嗣である閣下は、いまだに内乱の敗者たちに恨みを買っている。ただし、売られた喧嘩をすべて買うのが宰相閣下だ。そしてその報復は壮絶を極める。粘着質なまでに記憶して、ねちねちといたぶるのである。想像するだけでも恐ろしい。なんでこんな人と戦おうというのか、私には理解できない。
「第三秘書官、人事権があるもののリストを報告しなさい」
「はい」
歩く人事録とは私のことだ。騎士団の人事権のある者の名前を挙げていく。宰相閣下はしばらく私が挙げた名前を吟味して、第一秘書官に小声で何か命じられた。そののち、私に改めて命令が下る。
「それらを書類にまとめて半刻後に提出すること」
「かしこまりました」
今日も、夕方の鐘では帰れそうにないな……。思わず遠い目になる。第一秘書官は同情を浮かべた表情で私を見ている。
どうやら先ほどの騒動は、宰相閣下が糸を引いてらっしゃったようである。まあ、そうだろうな。早く到着するはずの閣下が、第一秘書官より遅れて登場されたのだから。すべてを見極めてから出てこられたに違いない。部下でさえ釣りの餌にする。さすが腹黒閣下である。せめて事前に説明していただきたい、というのは贅沢だろうか。
「では、書類を」
「はい、閣下」
先ほどのような騒動があっても、淡々と日常の仕事に戻る閣下を眺めながら、もし日記が書けたら、今日釣りの餌にされたことを書きなぐるのに、と私は思いをはせるのであった。