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蒼下焔舞  作者: タチバナ ナツメ
第一章 静賀編
4/4

肆ノ話 ささがねの雲、鶯を想ふ(肆)

 脳裏の奥の奥で、柔らかな幻影が揺れ動いている。

 常世の浄土で夢心地に耽る折、いつもこうして頭の中に薄ぼけた(もや)が纏わり付いてくるのは、千紫万紅に溢れたこの空間が、真にあの世とこの世を繋ぐ端境だからではないのかと思うことがある。

 仄暗い部屋の四方を囲む、目も眩むほどの猩々緋(しょうじょうひ)の襖の上を、とりどりの風采を纏った無数の光が、所狭しと飛び交っている。

 あの風変わりな回り灯篭は確か、“走馬燈”とかいうものではなかっただろうか――何時ぞ、千登勢屋で目にした覚えがある。

 しかし、いつかの夏の夜に、見世の子供達が肩を寄せ合いながら見上げていたあの即席の影絵芝居は、こんなにもたくさんの光に溢れたものではなかったはずだ。

 虹のような光彩を放つあの灯篭には、何か特別なからくりが施されているに違いない。

 成る程、幽明(※1)の境を醸す方便(たずき)として、これほど(あつら)え向きな小道具も他に無い。

 思わずほくそ笑んだ火天は、目まぐるしく動く光の群れを無闇やたらと追い回すでもなく、ただぼんやりと眺めながら、朱塗りの杯をゆっくりと傾けていた。

 移ろいゆく七色の光をぼんやりと眺めていると、それまでの俗事が夢まぼろしであったかのように思えてくる。

 先刻より次第次第に注ぎ込んだ冷酒が、下腹のあたりでほろりと熱を放ち始めた所為もあってか、火天は心地よい微酔に満ち足りていた。

 気分は上々だ。

 何故ならば此処には、ガミガミと小言を撒き散らす女中も居なければ、ヤクザのような刺々しい気這(けわい)を纏った独裁者も居ない。おまけに、今日に限っては“先立つもの”の心配も要らないと来ている。

 ただ在るのは、酒と美女と、小唄の爪弾き。そして、極彩色の寝屋。

 此処はまさに極楽浄土。今ならきっと、“これ以上欲しいものなど、世界中の何処を探しても無い”と明言することだって出来るに違いない。

 火天はまたも、不敵に笑っていた。


「貴方のその笑顔、とても退屈そうね。お相手が私ではご不満かしら」


 空の杯に代わりを注ぎ入れようとしたのだろう。火天の傍らでは、三味線を爪弾く手を休めた女郎が、箱膳の上の徳利にそっと手を伸ばしていた。

 刹那。

 ざわ、と(はだえ)が粟立つのを感じた火天は、気付く頃にはもう、箱膳に伸ばされた女郎の白い手首を掴み上げていた。

 力任せに引き寄せられ、小さく悲鳴を漏らした女郎は、初めこそ驚き入った様子で浅葱の瞳をぱちくりとさせていたものの、すぐさま平静を取り戻すと、なよやかな目遣いで火天を見上げていた。

涼風(すずかぜ)”と名乗ったその女郎の気立てを言い表すとするならば、“小賢しい”の一言に尽きる。

 言葉の遣り取りをすること自体は好きなようだが、“話し相手に歩調を合わせてやる”ということが、(はな)から頭に無い気質。小難しい言い回しを好み、相手が話に追い付けているか否かは、一切お構いなし。寧ろ、言葉遊びを理解できない相手の愚かしさを鼻で嗤うことを愉しみとしているような、“高慢ちき”以外の何者でもない女だ。

 この女郎が二目と見られないほどの醜女であったなら、今頃は怒りの赴くまま容赦なく蹴飛ばして、早々に(くるわ)を飛び出しているところだが、涼風は間の抜けた声で欠伸を漏らす姿でさえも絵になりそうなほどの、妖麗な美女である。

 火天の中では既に、見下されることへの苛立ちよりも、女が手の平を返す様を一刻も早く見てみたいと思う好奇の心の方が、よほど強くなっていた。


「どういう意味だ? 俺は、お前みたいな思い上がった高飛車女は大好きだぜ」

「あら、奇遇ね。私は貴方みたいに、女は皆、力で捩じ伏せれば何とかなると思ってる単純な男は大嫌いよ」


 四囲を彩る猩々緋と同じ――極彩色の唇を僅かに歪ませた涼風は、不遜げに嗤っていた。




 飴色の(かんざし)をそっと引き抜いてやると、後頭で高く結い上げられていた涼風の髪が、さらりと零れ落ちた。

 美女の艶姿において、好みのものを順繰りに並べ立ててみたとする。中でも五指に入るほど乙だと思えるのは、まとめ髪を解いた折、首元に纏わりついた髪を払うときの、あの仕草だ。

 流水文を彷彿とさせるしなやかな翡翠の髪が、虹色の光彩と交じり合って、一段となまめかしく輝いている。柔らかく瞼を下げ、ゆっくりとかぶりを振った涼風の仕草は、何処を切り取っても、浮世の女には(ゆめ)と有り得ぬ艶やかさに溢れているようでならなかった。


「何て言ったかしら、あの子の間夫(まぶ)(※2)。確かまだ若くて可愛い子だったわね。貴方、あのお坊ちゃんの知り合い?」


 不意に、それまでずっと遠い場所から聞こえていた彼女の声が、突如としてはっきりと輪郭を帯びたような感覚があった。

 くらりと面食らった後で、火天はようやっと気付かされる――心底自分は、彼女を天上人か何かのような心積もりで見ていたのかもしれない、と。

 唐突に(うつつ)へと引き戻された気分になったのは、天女の口から飛び出した科白(せりふ)が、その浮世離れした風采とは裏腹に、甚だしいほど俗世にかぶれていたからだろう。

 せめてあと少しくらいは、夢心地に浸っていたかったのに。

 心の中でそう呟いた火天は、寸刻ほど思案を巡らせ、既に朧気になりかけていたそれまでの遣り取りを、どうにか手探りで思い返そうとしていた。


「ええと――」


 今の今まで頭からすっぽ抜けていたが、自分が此処へやってきた第一の目的は、八雲の不可解な言動の理由(わけ)を突き止めるためであったはず。

 とは言ったものの、おそらく肝心なことは全て、あの鶯女郎と共に隣の部屋へ消えていった空冥が聞き出してくれているはずで、自分に何か役立てることがあるとは到底思えないのだが――

 それでも、このまま遊び呆けていたのでは、万が一“お前は何をしていたのか”と詰問されようものなら、病める後腹をどうすることも出来なくなってしまう。

 ここはひとつ、“自分なりに聞き込みはしてみたが、何も成果は得られなかった”と言い訳が出来るくらいには、動いておくとするか。

 そうして欲得尽いた火天が算盤を弾いた結果、後々ややこしくならない程度に、鶯という女郎について、何か知っていることはないかと尋ねてみることにしたのである。

 ところが今日は、やはりいつもとは何かが違っていたらしい。千登勢屋に居た頃に引き続き、尚も火天の当てずっぽうは冴え冴えとしていたようである。

 たまたま火天の相手をすることになった涼風女郎だが、偶然にも、鶯女郎とは平時から親しく付き合うほどの知己であるのだという。

 願っても無い棚ぼた話だ。事と次第によっては、首尾よく成果を引き出すことも出来てしまうかもしれない。

 とはいえ、先ほど顔を合わせたばかりにすぎないこの女郎の言葉を、どこまで信用するかということは、慎重に見極めねばならないところだが――


「どうしたの? もしかして、もう眠くなってきたのかしら」

「そんなわけあるかよ、餓鬼じゃあるまいし」


 そこまでを思案したところで、火天の見下ろす先から不思議そうにこちらを見つめていた涼風と視線がかち合う。

 ――けどまあ、どっちにしたって、根を詰める意味なんてあるはずがない。

 頭のいい学者先生のこと、火天の働きに関しては、端から期待などしていないだろう。当てにもされていないものを無理くり努力しようとするくらいなら、たった今しか味わうことの出来ないこの刹那の快楽に酔い痴れる方が、自分にとってはよほど重要に決まっている。 

 そう思うと、これまでの熟慮断行が嘘のように、馬鹿らしさが沸々と込み上げて来るのを感じ、火天はすぐさま考えることをやめてしまっていた。


「八雲の奴はな、俺の弟なんだよ」

「嫌だ、見え透いた嘘。貴方とあの子じゃ、似ても似つかないわよ。唯一同じものって言ったら、その髪の色くらいじゃないの」


 そして、今の今までお高くとまった態度を崩さなかった涼風が、面白可笑しそうに破顔する様を目の当たりにした途端、とうとう火天の中の思慮の二文字は跡形も無く崩れ去ってしまっていた。


「弟っても、血の繋がりがあるわけじゃねえよ。兄弟と同じくらい、寝食を共にしてきたってことだ」


 乾いた唇をぺろりと舐めた火天は、白磁のように透き通った涼風の頬に、指を這わせる。


「それなら私は、鶯の姉よ。あの子とはほとんど同じ時期にここへ来たから、いつも一緒だったわ。遊里の外を見てみたくて、こっそり抜け出したときもね、結局一緒に捕まっちゃって、その後は――」


 けれど涼風は、火天の挙動を気にする様子もなく、もはや“どうでもいい”とさえ感じるその話題に、とことん花を咲かせようとする。

 どういうつもりだ?

 心からその遣り取りを愉しもうとしているのか、それとも、焦らすつもりでいるのか――

 またも膚の粟立つ気色(きそく)に襲われた火天は、欲気の赴くまま、再び涼風の細腕を引いた。


「ちょっと。貴方、私の話を聞く気があるの? 鶯のことを聞きたいって言い出したのは、貴方のほうなのに」


 (きお)い口に任せて金紗の敷き衾(※3)へと転がされた涼風は、蔑むような目遣いで(まなじり)を細めると、じっとこちらを見据えていた。


「半分くらいはな。言い訳出来る程度には聞き込みしとかねえと、優秀な相棒に愛想尽かされちまうだろ?」

「呆れた――貴方、(ろく)な死に方しないわよ」


 柳の眉を逆立てた涼風は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。

 けれど、やはり彼女は、不貞腐れた顔ですら愛おしく思えるほどの、飛び切りの美人である。どれほどつれない態度をとられたところで、無粋に腹を立てる気にはならなかった。


「侍じゃあるまいし、自分がどう死ぬかなんて考えたこともないね。そんな事より、生きてる今が楽しけりゃそれでいいのさ」


 金紗にたゆたう翡翠の髪をそっと掬い上げる。絹糸のように艶やかな髪は、とりどりの簪にきつく(まと)め上げられていたにもかかわらず、結い跡のひとつさえ残ってはいなかった。

 見下ろした女郎のあでやかな錦衣の襟元からは、まさに玉膚とたとえるに相応しい肌理(きめ)と艶とを持ち合わせた、透くような白い素肌が覗いている。

 あの雪白に触れたなら、一体どれほどの心地よい手応えが返ってくることだろう。

 明け透けにごくりと喉を鳴らした火天は、気が付くと、吸い寄せられるように手を伸ばしていた。

 ところが。

 すんでのところで、火天の手の平は空しく宙を掴んでいた。

 それは、相も変わらず不機嫌そうに眉を寄せたままの涼風が、瑠璃色の刺青を刻んだ火天の腕に、ぴしゃりと平手を喰らわせた所為だ。


「私をそこらの三下女郎と一緒にしないで欲しいわね。たった一度顔を合わせただけで、簡単に床入り出来るなんて思わないで頂戴」


 どうやらこの女郎の鼻を明かすには、途轍もなく周到な策を講じなければならないようである。

 ――面倒臭い奴。

 しかし、だからと言って、“それならそれで、思わせぶりな態度を見せるんじゃねえよ”と、憎まれ口を叩くような野暮だけはしたくない。


「この、高慢ちき……」


 結果、小さく舌を鳴らすことで、どうにかして喉の奥に恨み言を押し込めようと試みる。

 けれど、遣り切れない思いを無理くり隠そうとするあまり、甚だしく平静を欠いてしまったことは手落ちであったと思う。女というものが、押しなべて地獄耳の持ち主であるということを、(ことごと)く忘れてしまっていたからだ。


「何か言った?」


 彼女がいつの間に起き上がったのかは、分からなかったとしか言い様が無い。

 口許に薄っすらと笑みを浮かべたまま、刺すように眦を尖らせた涼風は、熱くなった火天の頭を鷲掴んでこねくり回すと、たおやかな四肢から生じたものとは思えぬほどの怪力で、ぐいと引き倒していた。


「言ってねえよ、畜生」


 火天の顔っ面が豪快に着地したそこが冷たい畳の上であったなら、今頃はさぞかし派手な紅染が鼻回りを彩っていたことだろう。しかし、火天の鼻筋が触れたのは、雅やかな香り湧き立つ、絹綿の風合い――紅紫の錦衣に包まれた、柔膝の上であった。

 立ち上る沈香(じんこう)の香りはあまりに濃厚で、言葉通りに鼻孔のくすぐられるような思いがしてくる。こそばゆい感触を持て余した火天は、ごしごしと鼻っ柱を擦りながら、仰向けに寝返りを打っていた。


「ねえ。それでも貴方は、私を抱きたいわよね?」


 さぞかし小憎たらしいしたり顔を浮かべているものと思いきや、こちらを見下ろす涼風の面持ちは、つい先ほどまでの様子と遜色ないほどの、喜色満面に溢れていた。


「そりゃあ……まあ」


 鼻っ柱のむず痒さのせいで、気持ちはすっかり萎えてしまった――きっぱりとそう言い切れないところが、悔しいやら情けないやら。

 (ほぞ)を噛むような思いを押し隠しつつ、火天は思わず口ごもってしまっていた。

 おそらく女郎には、端からそれがお見通しだったのだろう。目元に浮かんだ涙を錦の袖で拭いながら、またも涼風はころころと笑い出していた。


「だったら、一つだけ頼まれてくれない? 私の頼みを聞いてくれるなら、貴方と寝てあげてもいいわよ」


 つい先ほどまで、確かにここに居たはずの妖艶な美女と、火天の見上げた先に居る、あどけない郎女(いらつめ)とでは、どちらが本当の“彼女”なのだろうか。

 ぼんやりとそんな思いも巡らせながら、火天は眉根を寄せ、訝しげに涼風の笑顔を見つめていた。


「もしかして、その頼み事ってのは、あの鶯に関係のあることなのか? 取り敢えず聞くだけ聞いてやってもいいが、見ず知らずの人間に頼み事ってのは、頭のいい奴のすることとは――」


 そこまでを言いかけたところで、頭上に浮かんだ涼風の面持ちに大きく(かげ)りが差し込んだことに気付いた火天は、ぐっと言葉を飲み込んでいた。


「そんなの分かってるわよ、自分がどれだけ馬鹿なことをしようとしてるのかってことくらい。だけど私は、どれだけ強く望んでも、この廓を出ることは出来ないの。あの子のために身を粉にしてやりたいと思っても、出来ることは限られてるのよ」


 憂いに満ちた浅葱の瞳が、火天の視線を釘付けている。爪紅(つまべに)に彩られた細長い指で、火天の目元に掛かった髪をそっと払った涼風は、尚もくるくると回り続ける走馬燈の光をぼんやりと見上げていた。

 心の奥が、ぴりぴりと刺すような痛みを放っている。

 ――冗談じゃない。

 余所から持ちかけられる頼まれ事などというものは、厄介事と同等のものだ。

 一文の儲けにもならない話を、易々と引き受けてやる道理がどこにある?

 普段の自分なら、さしたる熟慮もなしに、そそくさとそのように結論付けていたところだったかもしれない。

 けれど、それまで確固不抜と気丈な態度を貫いていた彼女の、崩れっ振りを目の当たりにしてしまった後では――

 如何にも気位の高そうな彼女をどうにかして出し抜いてやりたいと、そんな邪意を抱いていたこともあったが、当初自分が思い描いていたのは、このような顛末ではなかったはずなのに。

 ――ああ、うざったい。

 目元口元のそこかしこが、ぴくぴくと引き攣っているのが分かる。今の自分を鏡に映して眺めてみたとするならば、さぞかしはっきりと、苦虫を噛み潰したような相好が拝めることだろう。

 小さく息をついた火天は、結局それまでの思案を、全て“意味のないもの”と投げ打つことに決めていた。


「ひとつ、聞いておきたいことがある」

「何?」


 遠くを見つめる涼風の細こい(おとがい)にそっと手を伸ばすと、彼女ははっと驚き入った様子でこちらを振り返っていた。


「たとえばここで、俺がお前に“頼み事を聞いてやる”って言ったとするよな。それから約束通りに事を済ませて、俺が一旦ここを出て行くとするだろ」

「そうね……私が今貴方に話したからって、すぐに解決できるような問題でもないし」

「その後俺が、お前との約束を反故にして、二度とこの見世に来なかったらどうするつもりなんだ? お前はただの抱かれ損じゃねえのかよ」


 おそらく彼女は、皆まで言わずとも、こちらの言いたいことを理解していたはずだと思う。

 火天の言葉を聞き終えた涼風は、微かな憂いを孕む表情は少しも変えようとしないまま、ただただこちらを見下ろしていた。


「貴方はそんなことしないわ」


 そして、間髪を入れることなく、きっぱりとこう答える。

 その言葉付きは不惑そのもの。それどころか、寧ろ彼女は火天の問いに答えることで、自分の中に僅かに残っていた迷いや憂いを吹き飛ばしてしまったかのようにも見えた。

 けれど、いくら涼風が必要以上に男に媚びるような気質でないとはいえ、相手は女郎である。

 一双の玉手は、千人の枕。廓の中の好いた惚れたは、総じて夢幻の顛末。女郎とは本来、甘い嘘を重ねることで、一夜の夢を売ることを生業とするものだ。そんな女郎が、顔を合わせたばかりの客に手厚い信頼を寄せるなどという話は、聞いたことがない。

 揺らぎのない彼女の物言いを信じてみたいと思う反面、夢の世界の出来事をまともに信じてみたところで何の意味があるのかと、明け透けな現実を思う自分が居る。


「お前、何を根拠にそう思ったんだ?」


 此処で彼女がちらつかせているものは、決して“据え膳”などではない。

 その風格が信用に足るものでないと判断した場合、深入りすべきではない。

 何度も自らに言い聞かせた火天は、静かに涼風の答えを待っていた。


「貴方が、私を抱くからよ」

「何だよ、それ」


 やはり、女郎の言葉遊びをまともに聞き入れることなど、馬鹿げた話だった。

 彼女の示す“根拠”に、何がしかの期待を膨らませていたことは確かだったのかもしれない。

 けれど、彼女の答えは予想していたよりもずっと底浅く、さしたる意味などどこにもありはしなかったようだ。

 急速に興が醒めていくのを感じ、火天は苛立ちと共にさっと身を起こしていた。


「そんなの、答えに――」

「二度と来ないなんて、絶対に言わせないわ」


 芳しい香りが揺れている。

 素気(すげ)なく向けられた背に飛びついてきた涼風は、火天の言葉を遮ろうとするかのように、決然と言い切ってみせていた。


「貴方は絶対、もう一度私を抱きたくなるもの。だから、二度と来ないなんて、絶対に言わせない」


 しかし、言葉とは裏腹に、火天の朱衣を掴む手の平は、小刻みに震えている。

 ――小賢しい女。

 たとえそれが、周到に意図されたものでなかったとしても。

 否、意図されたものでなかったのだとすれば、余計にだ。

 すっかり打ちのめされたこの胸の内を、易々と悟られてしまうのは酷く癪だった。

 どうにか格好がつけられるくらいに焦燥を押し隠し、不敵な笑みを浮かべた火天は、くるりと背後の女を振り返る。


「お前は、なかなか面白い奴だ。とことん妙ちきりんな女だとは思うけどな」

「妙ちきりんは余計よ。こんなこと滅多にないんだから、有り難く思いなさい」


 再びふんと鼻を鳴らした涼風は、すっかり元の“高慢ちき”に逆戻りしているようであった。

 しおらしい泣き顔を拝んでやれなかったことは少し悔しかったが、自分とこの女郎とが、お互い似たもの同士と言ってしまえるほど、片意地を張ることをやめられない性分であることを思うと、腹の底から、引き攣れた笑いがこみ上げてくるような思いがした。


「いいぜ、話せよ。聞いてやるから」


 脇に転がしてあった朱塗りの杯を拾い上げた火天が、見事なまでの膨れっ面に向かってそれを突き出してやると、すぐさま側の箱膳を手繰り寄せた涼風は、安堵の笑みを零しながら、そこへなみなみと代わりの冷酒を注ぎ入れてくれていた。

 そして、まるで記憶の感触そのものをじっくりと確かめていくかのように、彼女はぽつりぽつりと言葉を零し始める。

 その面持ちは、見るに忍びないほどの心痛に満ち溢れていた。


「鶯はね、近々身受けされることが決まっているの。あの優しそうなお坊ちゃんのところなら良かったかもしれないけど、行き先は――」






※1 幽明=あの世とこの世。

※2 間夫=女郎の情夫のこと。

※3 敷き衾=敷布団のこと。

ご愛読ありがとうございました♪

次回も拙作をよろしくお願いします。

挿絵(By みてみん)

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