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蒼下焔舞  作者: タチバナ ナツメ
第一章 静賀編
3/4

参ノ話 ささがねの雲、鶯を想ふ(参)

このお話は、前回“弐ノ話”としていた分の後半部分です。

場面転換ごとにページを切り替える仕様に変えたかったので、前回分を二つに分けてアップさせていただきました。

(多少気になるところを加筆修正させていただきましたが、大まかな内容は変わっていません)


挿絵(By みてみん)

八雲(やくも) イメージイラスト】

「瑞雲の旦那の頼みとあっちゃあ、仕方ねえな。八雲さんが出入りしてらっしゃるのは、通りの中ほどにある“蛍花楼(けいかろう)”って廓だよ」

「ありがとうございます、助かりました」


 それからの花街勘注は、さすがの厚顔、鉄面皮を持ち合わせた火天ですら、“やはり自分はついてきた意味がなかったのではないか”と思えるほど、順風満帆の一途を辿ることとなる。

 情報収集の決め手となるものは単純明快。万国共通、商人(あきんど)の大好物といえば、“袖の下”の右に出るものはない。

 当初は品良く“いくら家人の頼みと言えど、いち個人の素行を易々と他人に差し口するのは――”などと渋っていた者たちも、ひとたび鼻薬(※1)を嗅がせれば、まるで雪上に墨をぶちまけたかの如く、あっさりとその心色を入れ替えてしまうのだから、金の力というものは恐ろしい。

 そんなこんなを繰り返し、過ぎ行くこと一刻。

 夜五つ時(※2)は床付(とこづ)け時。この時刻に差し掛かると、廓の宴は打ち止めを迎え、花街は緩やかに落ち着きを取り戻し始める。そして、艶やかな遊女に手を引かれた浮かれ人たちは、徒桜(あだざくら)の如き夢の浮橋を渡り、一夜の甘い情思に酔い痴れるのだ。


「火天。貴方、蛍花楼に出入りしたことは?」


 七色の蛍火を放つ誰也行灯(たそやあんどん)をぼんやりと眺め、歯痒さと世の無常とを噛み締めていた火天は、紅色の暖簾をくぐって出てきた空冥と目を合わせると、気を抜けば漏れ出そうになる息嘯をぐっと飲み込み、取り繕うように目を泳がせていた。


「馴染みの女郎が出来るほどは通っちゃいねえな。言われて思い出したが、お前が俺と八雲を見てたっていうあの日、あいつを無理矢理引っ張り込んだ廓が蛍花楼だよ。あそこは中見世じゃ一番の上玉が集まる廓だからなあ……とてもじゃねえけど、俺の稼ぎじゃ通い詰めるなんてのは無理な話だね」

「大方、自分では無理だからと言って、その日の払いは八雲にやらせたんでしょう? 貴方という人は、全く呆れますねえ」

「い、いいだろ別に……何事も経験だよ、経験」


 もはや、強く言い返そうなどという気は更々起こらなくなっている。

 兎に角今はもう、一刻も早くこいつの側から離れて楽になりたい――

 火天の思いはただ、それだけであった。


「蛍花楼へ行った時、八雲は何か気になることを言ったりはしていませんでしたか?」


 そんな火天の思いを、上見ぬ鷹の空冥が知る由もないのは明らかだ――と言うより、先ほどのことなど欠片も気にした様子の無いところが、逆に末恐ろしい心地がする。相も変わらず、思惑の読めない糸目で天を仰ぎ見た空冥は、中見世通りを目指して歩みを進めながら、しきりにその細首を捻り回していた。


「そういや廓に入る前、張見世で女郎とえらく熱心に話してるのを見たような――名前はなんだっけな、ええと」


 朱色の格子の向こうで、書き入れ時に売れ残ってしまった女郎達が手招きするのを恨めしげに眺めていた火天は、伸びっ放しの顎鬚を一撫ですると、眉根を寄せて思案に耽っていた。


「頼む、この通りだ! もう少しだけ待ってくれ。そうすれば、私が(うぐいす)を――」

「あ、そうだそうだ。鶯だよ」


 絶妙の頃合いで、すぐ側の見世先から、何やら切羽詰ったような雷声が響いてくるのが分かった。

 あのよく通る声には、際々と聞き覚えがある。


「あれは、八雲ではありませんか。一体何を――」


 ほぼ同じ頃合いに、“蛍花楼”の赤暖簾を振り返った空冥が、驚きの声を上げていた。

 それもそのはず、白声を振り絞っていた八雲は、あろうことか見世の土間で膝をつき、慌てふためく主人に向かって、その額を地に擦り付けんばかりの勢いで頭を下げていたのである。

 青白い顔を滝のような脂汗で濡らした主人は、見ているこちらが気の毒に思えてしまうほど、泡を喰っているように見えた。


「や、やめてください、坊ちゃん。貴方のようなお方が――」


 火天がただ呆然とその光景に見入られていると、ふくよかな太鼓腹を抱えた主人が、妙に真ん丸い魚のような瞳をぎょろりと泳がせ、こちらへ真っ向から視線をかち合わせてきたことに気が付く。


「いけません、そんなに近付いては――」


 珍しく焦り声を漏らした空冥が、慌てて火天の羽織の裾を引いてきたものの、時は既に遅かった。

 数日ほど前、八雲と一緒にこの見世に入ったことを目ざとく覚えていたのだろう――すぐさま火天の正体に思い当たったらしい主人は、まるでその何ともつまらない頃合いを見計らっていたかのように、あっと大袈裟な悲鳴を漏らしたのである。

 (むじな)のような主人の寸胴を、ことさら拝み入るように見上げていた八雲が、それを見逃すはずも無い。


「火天、空冥――!」


 紅色の短髪を振り乱してこちらを振り返った八雲は、悔しげに唇を噛み締めると、白袴に纏わり付いた砂埃を払おうともしないまま、一目散に見世先を飛び出し、瞬く間に雑踏の中へと駆け込んでしまっていた。

 おそらく、よほどのことがなければ、追いかけても意味が無い。

 物心も付かぬ幼い時分から、八雲が速疾鬼(※3)の如き俊足を自慢にしていたことは、兄貴分として共に育ってきた火天に加え、空冥も重々理解していたようである。

 即座に八雲の追走を諦めた火天は、またも脂汗を流してわたわたと慌て始める主人に向かって、虫唾の走る思いを誤魔化しながらも、なるたけ優しく声を掛けていた。


「おい、親父。今のは一体どういうことだ?」

「あんたは、八雲の坊ちゃんとこの。ど、どうせ瑞雲の旦那に言われてやってきたんだろ? 悪いけど、いくらあんたたちでも事情は話せないよ。何か聞きたいことがあるなら、坊ちゃん本人に尋ねてみたらどうなんだい! こちとら、妙な世話を掛けられてほとほと困り果ててんだよ。これ以上深く詮索するのはやめとくれ! 言っておくけどね、いくら金を積まれたって、こればっかりは――」


 八雲の奴が、こんな狸親父に頭を下げていたなんて――

 後から後から滲み出てくる脂汗をしきりに拭いながら、末広がりの目出度(めでた)い寸胴を揺すってまくし立てるその姿を見ていると、途端に苛立ちが募ってくるのが分かる。空冥さえ居なければ、おそらく今頃は思う存分、そのたわわに垂れ下がった横っ面をはたき倒してやっていたに違いない。この見事な肉付きならば、さぞかし威勢のいい音が響くことだろう。

 けれど、甲高い声を響かせて見世番を呼びつけた主人が、“塩を持ってこい”と吐き捨てるように叫んだのを見た瞬間に、火天の擦り切れた理性は、とうとう限界を迎えてしまっていた。


「この化け狸――調子に乗りやがって!」


 奥歯をぎりぎりと鳴らした火天は、気がつくと、自分の腰ほどの背丈しかない狸親父の掛襟を掴み上げようと詰め寄っていた。すぐ側に立っていた空冥が素早くこちらの肩を掴んでこなければ、自分はおそらく手加減もなしに、あの醜い狸面を殴り飛ばしていたに違いない。

 火天の形相を目の当たりにした主人は、ひい、とまたも大袈裟な悲鳴をあげ、唖然呆然で成り行きを見守る見世番の後ろに、こそこそと隠れようとしていた。

 ところが、流石の見世衆も、主人の目も当てられない狼狽振りには呆れ返ってしまったようである。塩を持ってこいと言われましたので、と冷たく一蹴すると、見世番の若い男はあっさりと主人を見捨てて奥間へ引っ込んでしまった。

 見世先には、彼以外にも下働きの若衆の姿がちらほらと見えたが、皆が皆、主人の危機に見て見ぬ振りを決め込もうとするところを思うと、日頃からの狸親父の嫌われ振りが身に染みるほど伝わってくるような気がしていた。


「駄目ですよ、火天。ここで暴力沙汰にしてしまっては、後々面倒なことになります」


 すっかりのぼせてしまった頭に、落ち着き払った空冥の金声が響いてくる。

 怯えた様子で一人、見世先に取り残されてしまった主人に向かって、彼はこれから一体、何をやらかそうというのだろうか――火天はしばし、その顛末を見守ることに腹決める。

 ところが、空冥の取った行動は、治まりかけていた火天の腹の虫を、(いたずら)に刺激するものでしかなかったようだ。あろうことか彼は、別の廓でやってみせたのと寸分違わぬ手振りで、袂からじゃらりと金子(きんす)を取り出したのである。


「空冥! てめえ、こんな奴にまで金を払うってのかよ!」


 もやもやとむかっ腹が立ってくるのを感じた火天は、思わず自らの肩を掴む空冥の手を、勢いに任せて振り解こうとしていた。


「まあ落ち着けって、火天」


 口許に薄く笑みを浮かべた空冥が、再び糸目の際から群青の瞳を覗かせる。

 その瞬間、一気に頭の奥が冷めていくのを感じた火天は、吐き出しかけた言葉を、半ば反射的に飲み込んでいた。

 袂から取り出した数枚の山吹を、主人のぼてぼてと肥った手に無理くり握らせた空冥は、やけににこにこと愛想を振り撒きながら、主人の前で静かに膝を折っていた。


「主人、これでは足りませんか? 私たちは客としてやってきただけで、別に八雲の事を詮索しにきたわけではないんです」

「だ、だけど、あんたたちは――!」

「私たちは何も見ていませんから、詮索も何もありません。そうですよね、火天」


 こちらを振り返った空冥の表情は、それこそはち切れんばかりの満面の笑みに溢れていた。


「空冥、お前一体……」


 しかし、こんな状況で、どうしてこれほど一点の曇りも無い笑みを浮かべることが出来るというのだろうか――考えれば考えるほど、末恐ろしくて仕方の無い心地がする。


「但し、これから私が一晩、鶯女郎を買います」

「や、やっぱりあんた――」


 それから後、主人の方へ向き直った空冥がどんな顔をしていたのかは、もう既に分からない。分かったところで知りたくもなかった。


「黙りな、狸親父。あんたにゃ客として以外に話すことは何も無えって言ってんだよ。俺と女郎が二人してどんな与太話をしようと、あんたには一切関係ねえはずだ。そんなことであれやこれやと口を挟むのは、野暮ってもんだろ。違うか?」


 てらてらと脂ぎった主人の顔に、これでもかと言うほど鼻先を近づけた空冥は、再びあの静かな敵意に満ちた低音を響かせ、白目を剥いて失神しかかっていた主人の肩をゆっくりと叩く。声も立てぬまま、まるで稲光に打たれたかのように大きく体をびくつかせた主人は、がちがちと歯のぶつかり合う音を響かせ、みるみるうちにその顔色を、死人のような土気色に染め上げていた。


「俺は単に、前々から目をつけてた女郎と、四方山話をしにきただけだ。あんたは頭の良い商人だろ。それなら、俺の言いたいことは分かるな?」

「はい――も、もちろんで」


 自分がつい先ほど、あの狸親父と同じ状況に晒されていたのかと思うと、死ぬよりも恐ろしい目に遭わされていたのではないかと、怖気立つような思いがしてくる。

 反面、空冥のぎらつかせた氷刃の切っ先がこちらに向けられたものでないことを思えば、今の自分の境遇を、心から幸せだと思うことが出来た。


「他に何か、不服なことがありますか?」

「い、いえ――あの、どうか、存分に……ごゆるりと」


 廓の主人はもはや、ただガクガクと上下に首を振り続けるだけの、壊れたからくり人形のようになってしまっている。

 そんな主人の様子を満足げに見下ろした空冥の声音は、すっかり元の呑気な調子を戻しているようであった。

 冗談じゃねえ――こいつは、学者の皮をかぶったヤクザだ。

 体の底から湧き起こってくる戦慄を押し戻すように身を竦めた火天には、この先待ち構える前途多難を予測することなど、到底出来ようはずもなかった――。






※1 鼻薬=賄賂。袖の下。

※2 夜五つ時=戌の刻。二十時頃。ちなみに、一刻は約二時間。

※3 速疾鬼=羅刹のこと。足が速いことから、その名が付いた。

ツイッターで仲良くしていただいているゆきなりさんに、火天のイラストを描いていただきました♪

ゆきなりさん、ありがとうございます!

挿絵(By みてみん)

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