弐ノ話 ささがねの雲、鶯を想ふ(弐)
不夜の極楽浄土は、今宵もまどろみを忘れてしまっているかのようであった。
大門をくぐった格子の先は、泡沫夢幻の楼閣が軒を連ねている。
遊女の掻き鳴らす見世清掻の響く中、数多ひしめく道住き人の隙間を縫って、玉子売りが威勢のいい声を張り上げている。数と並んだ張見世(※1)の軒先では、七色の蛍火が舞っていた。
「玉子を食べると精がつくというのは迷信ではないかと思っているのですが、実際のところはどうなんでしょうね」
「さあな……俺は廓の外で無駄金落とす気は更々無えから、試したこと無えけど」
こんなにも晴れ晴れとしない気分で花街へ繰り出したのは、よもや初めてのことであったかもしれない。いつもなら今頃は、鼻歌交じりの浮かれ烏で張見世を冷やかしに廻っている頃だが、それが出来ないのは、先立つものが絶望的なほど不足していることと、思いがけない同行者がついてきている所為である。
常世の国に足を踏み入れた瞬間から、早速小見世の客引きに遭っていた空冥を睨み付けた火天は、呑気に与太話を零す同行者へ向かって、深く溜め息をついていた。
「畜生。依頼を請けたはいいけど、金がなけりゃ廓の中に入れねえじゃねえかよ……花街に来ておいて、どこの見世にも入らずに帰るなんて、男のすることじゃねえ。据え膳食わぬは男の恥だ」
引かれる腕を隠してしまえば、それで事が済むとでも思っているのだろうか。得意の愛想笑いで脂こい客引きをするりとかわした空冥は、着物の袖口に両手を突っ込むと、狐狼のような細目でぽかんと月を仰ぎ、小首を傾げていた。
「いくらたくさん袖を引かれても、金を払わなければ見向きもされない世界でしょう。この状況のどこを見たら、据え膳だなんて言えるんです?」
「空冥、お前は何も分かっちゃいねえよ……庵の外にも出ねえで、埃の積もった古書とばかりにらめっこしてやがるから、そんな風になっちまうんだぞ」
「そういうもんですかねえ。でも別に、お金を払うようなことをする必要はないでしょう。義兄さんの名前を出せば、どこの見世の者であろうと、きっと話くらいは聞いてくれますよ」
駄目だ。こいつとはもう、根本からして重きを置いてるものの順序が違う。
この先どうあっても、自分とこの男とは、終着点を合わせられる気がしない。
「ああ、お前はやっぱり何も分かっちゃいねえ。お前みたいな奴のことを迂儒って言うんだぜ」
「まあ、そのあたりは否定しませんが」
こいつは何時だってそうだ。
風にしなる薄のように飄々としたこの男は、どんなに突っ撥ねても貶しても、少しも堪えた様子を見せることがない。
詳しい経緯は詮索したこともないが、空冥が瑞雲のところに現れたのは、自分よりも僅かに数年後の話だ。まともに年月を数えたとすれば、もう彼とも長い付き合いになるのだが、火天にとって、あの糸目の先に宿る光は、未だ海の物とも山の物ともつかないものでしかない。かといって、そこに大した興味があるわけでもなく、さして深く知りたくもないものだと思っていた。
知りたくもないものを、これ以上掘り下げる必要はない。
易々と腹を括った火天は、思いつく限りの悪態を吐き出すことで、腹の底に溜まったもやもやとしたものをどうにか打ち払ってやろうと決めていた。
「それにしても瑞雲の奴、面倒事を頼んでるくせに、出し渋りやがって――半額だと? ヤクザか、てめえは」
「普段何もしてないんですから、今日くらいまともに仕事をしてあげたらどうなんですか……」
気に染まない思いを抱えての道中は、足取りも自然と重くなる。
委細構わず悪態をついていると、いつの間にやら自分の前を歩いていた空冥の声調子が、緩やかに下を向いていくのが分かった。
何だ、こいつもやっぱり人並みの感情を持ち合わせてるんじゃねえか。
今まで自分がどのような言動を取ろうとも、蛙の面に何とやらだった男の態度が、今まさに雪消の如くほろほろと崩れ去ろうとしている――
頭のいい学者を手玉に取ったような気分に浸っていた火天は、しめしめと口許を綻ばせ、したり顔を浮かべていた。
ところが、高揚感と悪戯心とが胸中で幅をきかせる中、それと同時に、まるでこれから起こる“何か”を暗示するかのように、妙な不安感が心を過ぎった気がしたのは、単なる思い過ごしだろうか。
『火天、空冥の陰口は言わない方が身のためだ。あの人は、怒ると――』
いつか八雲がそう言っていたのは、どういう理由からだっただろうか。
確かあの時は、何を言われても際立って感情を表に出さない空冥のことを“胆気で理知的だ”と言って、すっかりのぼせ上がっていた女中をからかおうとしていたのだと思う。“あいつの正体はからくりか何かで、本当は歯車で動いているのだ”と打ち笑う自分に向かって、青白い顔でそれをたしなめた八雲は、何を恐れていたのだったか――
何れにせよ、はっきりと覚えていないのだから、おそらく大したことではないのだろう――所詮は頭でっかちな学者相手のことだ。かたやこちらは一応のところ、それなりに場数は踏んできた一介の剣士である。万が一にもこの男が食ってかかってきたとして、自分が後れを取るなどとは思いも寄らない。むしろ、腕っぷしで一泡吹かせることが出来るのだとすれば、日頃の憂さを晴らすいい機会だ。
飄然と頭の後ろで腕を組んだ火天は、いよいよわだかまりの矛先を、空冥の方へと向けてやることに決めていた。
「だいたいなあ、空冥。お前さえ余計な口出ししなけりゃ、儲けは俺一人のもんだったんだぞ。お前がついてきたりしなけりゃ、今頃は俺が……」
「――だよ」
刹那、火天の肩の上を颯爽と行き過ぎようとしていた河原風が、突如としてずしりと重みを帯びたような気がしていた。
幾人の道往き人が怪訝な表情でこちらを振り返ったところを見ると、それは火天の空覚えではなかったらしい。
それまでずっと同じ調子で歩を進めていた空冥が突然立ち止まったことに気がついたのは、感じるよりも先に動いた右手が、腰の刀の柄に喰らいついた後のことであった。
「何だって? 今何か言ったか?」
「うるせえんだよ、てめえは」
「え――」
低くぼやいた空冥の変化を、甚だしく警戒していたことは確かであったはずだ。
それにもかかわらず、素人であるはずのその男に、いとも容易く間合いに入り込まれてしまった火天は、抗う術無く一瞬のうちに、小暗い路地裏へと引っ張り込まれてしまっていた。
「ごちゃごちゃうるせえって言ってんだよ」
火天の掛襟を掴む細腕に力を込め、空冥はうっすらと糸目を開いていた。
暗がりの中に浮かぶ切れ長の群青は、濁り江のようにどんよりとしていて、ただ鋭く、ただ険しく、敵意に満ちている。
それまでの、長年と拝んできた穏やかな態度からでは及びもつかないほどに豹変を遂げた空冥は、火天の喉元へ氷刃のような声を押し当てていた。
「てめえの口から出てくんのは、愚痴とハッタリと息嘯(※2)だけか? ガタガタ抜かすんなら今すぐ帰れ。俺はてめえなんざ一緒に居ねえ方が楽だって、端からそう言ってんだろうが。俺がついて来てるんじゃねえよ、俺がお前を仕方なく連れてきてやってんだよ。分かってんのか、この木偶の坊が」
ごくりと自身で唾を飲み下す音が、やけに大きく耳に残っていた。
額を、頬を、背の筋を、幾多と冷たい塊が通り抜けて行くのが分かる。
こいつ、やばいぞ。絶対、素人じゃねえ――――
“血の気が引く”という感覚を、生まれて初めて味わったような気がしていた。
“死ぬかと思った”と、後々になって思い起こす出来事はいくつも在ったが、あんなものは、今感じている身も凍るような戦慄と比べれば、どれも皆、些事でしかなかったと思える。
空冥が、侍の治める“武科国”の生まれであることは知っている。一丁前に名字を名乗っているからには、その家筋が侍の血脈を受け継いでいることも、何となく分かっていた。しかし、所詮は学者かぶれの萌やし侍だと甘く見ていたことは、大誤算であったのだ。
だとすれば、一体彼は何者で、この静賀に居付く以前は、一体どのような生活を送っていたというのか――
気に掛かることはいくつもあったが、今の自分が最も気にしなければならないのは、そのようなことではない。
「わ、悪かったよ――もう文句言わねえからさ、そんなに怒るなって。仲良くやろうぜ、兄弟?」
長きに渡り、“高級呉服屋の用心棒”というぬるま湯に浸かり続けてきた火天は、その安楽な現状を、永久に護り続けるための妙法を心得ている。
自身の遥か上を行く権力者の言うことには決して逆らわぬこと――要するに、“長い物には巻かれよ”ということだ。
意気地が無いって? 馬鹿を言うな、己の身の程をよくよく弁えているだけだ。
自分のように、そこそこ腕はたつが、際立って強いわけでもない剣士などというものは、出来ることと出来ないことの区別をはっきりとつけなくては、うまく生きていくことは出来ない。それが、長年根無し草を続けてきた火天の培った、世渡りの術というものなのである。
「調子のいい奴だな、お前は――まあ、分かればいいんですよ。今後、私の前で不平不満を口にするのはやめてくださいね」
それまで、まるでその身の総てを鋭利な刃の鎧で固めていたかのようだった空冥は、突然にその殺伐とした態度を引き上げると、元の調子を取り戻していた。
千登勢屋の用心棒をやらせるとするなら、自分よりも遥かにこの男の方が向いているのではなかろうか。
敢えてそれをしないのは、何か特別な理由があるからなのか、それとも瑞雲本人が、この男の持つ裏の顔に気がついていないからなのか――
余計なことを考えてはいけない。考えたところで、聞ける筈も無い。
再び眼前をふらふらと歩き出した空冥の背中を見つめた火天は、ただ黙り込むより他なかったのだった。
※1 張見世=遊郭で、女郎が通り掛かる客に声を掛けて呼び入れる格子構えの座敷のこと。
※2 息嘯=溜め息。