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蒼下焔舞  作者: タチバナ ナツメ
第一章 静賀編
1/4

壱ノ話 ささがねの雲、鶯を想ふ

挿絵(By みてみん)

火天(あぐに) イメージイラスト】

 愛しい貴方は、浅葱の空を流れゆく八重の雲。

 届かぬ雲居に想いを馳せる、私は籠の中の鳥。

 神送(かみおくり)の風よ、どうか()の人を(さら)っていかないで。


*****


 うつらうつらと船を漕ぐ度、朱塗りの刀にぶら下がった小さな鈴が、チリリと澄んだ音を立てる。

 鈴の音に揺り起こされ、まどろみの中から何とか這い出しても、睡魔は再びすぐにやってきて、瘴霧のような分厚い(とばり)を下ろそうとする。

 明け透けに大欠伸を漏らした火天(あぐに)は、藍染の暖簾(のれん)の足元に出来た小さな陽だまりをぼんやりと眺めていた。

 呉服屋の用心棒というものは、非常に退屈な役回りである。

 多かれ少なかれ(すね)(きず)持つ者の集まる賭場、足抜けや心中が頻繁に起こる遊郭などでもなければ、用心棒という役どころに華々しい見せ場が巡ってくることは滅多に無い。ましてここは、襟付きの上品な金持ちばかりが集まる高級呉服屋である。時折、人手が足りずに舞い込んでくる、誰にでも務まるような使いや買い付け――所謂(いわゆる)“雑用”を押し付けられることがなければ、日がな一日こうしてぼんやりと欠伸を零しているだけで過ぎていってしまうことも多かった。


「ちょっと火天、退()いとくれよ。四六時中同じ場所に居座られたんじゃ、掃除もろくに出来やしないじゃないか」


 そんな名ばかりの用心棒を、お荷物扱いする者がいるのも当然。このように、若い下女中――下手をすれば、年端もいかない丁稚(でっち)小僧にまで、野次を飛ばされることも間々あった。

 しかしそこは、この“千登勢屋(ちとせや)”の主人に拾われてから、十年近い歳月を過ごしてきた火天のことである。気にしたところで一銭の得にもならない小言幸兵衛(こごとこうべえ)をあしらうことなど、朝飯前だ。


「うるせえなあ、ただ一言“退け”って言やあ済む話だろ。そうやって怒ってばっかいやがるから、小皺が増えちまうんだよ」


 (ほうき)を手に、腰に手を当て、仁王の如き形相で自分を見下ろす下女中に向かって、火天はひらひらと虫を追い払うように手を振ってみせる。

 すると彼女は火天の踏んだ通り、団栗(どんぐり)のような真ん丸の瞳を据わらせて憤慨していた。


「何だと、この木偶(でく)の坊が!」


 根が単純であるせいか、この女中はいつも事あるごとに火天の言動に目くじらを立て、息筋を張ろうとする。彼女にとって自分はおそらく目の上の瘤でしかないのだろうが、自分から見た彼女は、格好の暇潰し相手だ。

 木偶の坊だと? 確かに、“用心()”よりはそっちの方が、俺にとっちゃ相応しい肩書きなのかもしれねえな。

 自嘲気味に微笑んだ火天は、閉じていた瞼をうっすらと持ち上げる。

 膨れっ面の女中と目が合うと、胸の奥に湯水の如く悪戯心が溢れ返ってくるのを感じていた。


「お前みたいなタダ飯喰らいは、いっぺん――」


 腕捲りをしながら箒を構えるその勇壮な姿にはなかなかの迫力があったが、それでもやはり彼女は素人だ。

 がら空きの足元に軽く足払いを喰らわせてやるだけで、彼女の細い足首はすぐに五体の重さを支えることが出来なくなってしまう。

 楓のような小さな手の平からすっぽ抜けた箒が、静かに畳の上に転がる。

 またも計算通りに、女中が自分の膝の上に倒れ込んでくる様子を悠々と眺めていた火天は、呆けたようにこちらを見上げる女中の顎を支え、息が掛かるほどの距離まで鼻先を近づけていた。


「そんなに怒るなって、八手(やつで)。お前、怒ってさえなけりゃ、元は可愛い顔してんだからよ」


 ほんのりと頬を染め、八手はしばしの間、魅入られてしまったかのように茫然とこちらを見つめていた。しかし、火天が更にその距離を縮めようと動いた瞬間、彼女は思い出したかのように甲高い怒声を上げる。


「この、助平!」


 走り去っていく八手の背中に、チカチカと星が舞っている。そこまでをぼんやりと見送った後、ようやくじわりと頬に痺れるような痛みが広がっていくのを感じ、火天は八手に思い切り横っ面を引っ叩かれたことに気が付いていた。続けて、八手と入れ替わるように店先から戻ってきた浅黒肌の男が、彼女の鬼の形相を見て、ぎょっとしたように目を見開くのが見えた。


「火天、お前――昼間っから一体何やってんだよ」

「何って……暇潰しだよ、悪いか」


 八手の放り出していった箒を手に取った火天は、ぽかんと口を開けた色黒男に向かって、溜め息とともにそれを投げ渡す。軽々と箒を掴み取った男は、困ったように苦笑を浮かべ、鳥の子色をした艶やかな紙子羽織を翻すと、火天の前に腰を下ろしていた。

 彼はこの店の主人で、火天の雇い主。名を瑞雲(ずいうん)という。

 この“千登勢屋”以外にも、多くの商家が軒を連ねる此処“静賀(せいか)”は、古今東西の見世商人(みせあきんど)が市を成して作られた、商家町である。

 近隣の国々に一定の献納を行うことで自治権を得たこの町は、有力な大商人たちの集う、商人のための町だ。その中でも千登勢屋の瑞雲といえば、他国にまでその雷名を轟かせるほど、名の知れた豪商である。

 元は一介の小さな木綿問屋でしかなかったこの店を、たった一代で並び立つもののないほどの大店(おおだな)に生まれ変わらせた彼は、まさにこの町の栄華の象徴であると言えよう。おまけにこの男は、書に歌に、茶に華にと、“娯楽”と名の付くものは何でもそつ無くこなす粋人だ。

 もう一つおまけを付けるとするならば、瑞雲は“業平(なりひら)作り”の形容が至極お似合いの好男子。本人の話によると、彼の(よわい)は四十手前で、そろそろ一人息子に店を譲って隠居してもいい頃合いだ、などと周囲に零し始めていたりもするのだが、どう見てもその表付きは、火天と同年代の青年のようにしか見えない。それ故、一人息子を授かると同時に妻を亡くしてしまった彼には、手練手管で言い寄ろうとする女の影が絶えず――――と、こんな調子で、彼の偉人伝を列挙し出せばキリがない。

 兎にも角にも言えることは、火天が彼と一緒に居ると、縮まるはずのない落差を周囲から比較され、厭な思いをさせられることが非常に多いということだ。

 他国からの流れ者でしかない自分を拾ってくれた瑞雲に、感謝こそすれ、妬むようなことがあるはずもないのは身に染みて理解している。しかしその“厭な思い”は、人柄の好い彼の思惑とは別のところから降りかかってくるのだから、どうにも仕方がない。


「何だよ、何か用か? まさか仕事だとか言うんじゃねえだろうな」


 ぶっきらぼうに言い放った火天は、胡坐を組み直し、目の前の主人からふいと瞳を背けていた。


「お前、一応うちの用心棒だろうが。それなりの報酬(モン)と引き換えに雇ってやってんだから、たまの仕事くらい二つ返事で引き受けられねえのかよ」


 まるで、火天の立ち居振る舞いが予想通りであったとでも言いたげに苦笑を零した瑞雲は、懐から小さな煙管(きせる)を取り出して咥えると、火天の隣に置かれていた煙草盆を顎で指し、上向きに広げた手の平で、くいくいと指を折ってみせていた。


「面倒臭えなあ……ここのところ、とくに目立った厄介事もなくて、こうして店の奥でふんぞり返ってるだけで済んでたってのに」

「そんな無茶な道理が通るのはうちくらいのもんだぜ。有り難く思いな」


 火天が爪先で押し遣った煙草盆を引き寄せた瑞雲は、盆の上でちらちらと小さく燻っていた炭火に、鈍色(にびいろ)の古めかしい煙管をかざし、そっと火を点けた。

 彼の愛煙は、海を渡った西国から取り寄せた特別製。煙草独特の所謂“ヤニ臭さ”というものが一切無く、伽羅(きゃら)を思わせる柔らかな香りを放つ極上品である。瑠璃色の瞳をうっすらと細め、存分にその芳香を口の中で転がした瑞雲は、ゆっくりと紫煙を吐き出していた。


「で? 何だよ、仕事ってのは」


 勧められるがままにもう一本の煙管を受け取った火天は、刻み煙草の袋を掻き回しながら、ちらと瑞雲を側める。逆さに傾げた煙管を、漆塗りの灰吹きにトントンとぶつけた瑞雲は、珍しく浮かない面持ちで深く息を吐いていた。


「用心棒って仕事からは外れたことを頼むようで悪いんだが、お前にしか頼めねえことだ。多少手当ても弾んでやるから、潔く頼まれてちゃくれねえか」


“手当ては弾む”の一言を拾い上げた瞬間、現金な火天の耳元は歓喜にぴくぴくと躍り出し、みるみるうちに口端が持ち上がってくるのが分かった。

 こみ上げてくる笑みを押し隠そうとすることをすぐに諦めた火天は、手にしていた煙管を放り出すと、高揚感を露わに、瑞雲の釣り上がった猫目を覗き込んだ。


「俺は気前のいい奴が大好きだ」

「お前に好かれたところで、得することなんか何もねえよ……」


 ずずいと詰め寄った火天の熱視線から露骨に目を反らした瑞雲は、青み掛かった短い銀髪を悩ましげに押さえつけると、再び紫煙をくゆらせていた。


「実は、俺の不肖の息子のことなんだがよ」

八雲(やくも)の?」


 細長く煙を吐き出す煙管を静かに脇へやった瑞雲は、膝の上に乗せた両手をぎゅっと握り締め、静かに瞼を閉じていた。


「情けねえ話だが――八雲が生まれて十七年の間、多忙に(かま)けて店の女中に任せっきりにしてきたせいか、俺にはあいつの考えてることがさっぱり分からねえ。けど、そりゃあ紛れも無くみんな俺の責任だ。親らしい言葉の一つも掛けてやることなく育てちまったんだから、懐かれねえのも仕方のねえことだと思ってた」

「まあ、言われてみればそんな感じかもな。俺ももうここに来て十年近く経つが、お前ら親子が仲良くしてるとこなんか見たことねえよ」


 この期に及んで、世辞や気休めを言っても仕方が無い。

 むしろ、自分と彼との仲ならば、妙に心気を砕いて気を回す方が不自然だ。

 乗り出した体重を引き取った火天は、頭の後ろで両腕を組むと、千草色の土壁にだらりと背を預ける。言われた瑞雲は何度目かの苦笑を零したが、すぐさま元の鬱々とした顔色を戻し、言葉を続けていた。


「やっぱりそう思うか。でもな……俺のような商売人気質でないことは確かだが、あいつはちゃんと真っ直ぐに育ってくれてる。他人様(ひとさま)に顔向け出来ねえようなことを平気でするような悪い人間には育っちゃいねえはずだ。だから俺は、いつか時が来れば分かり合える日が来ることもあると、そう思って生きてきたんだが――」

「何かあったのか?」


 いつも朗らかで、人懐っこい笑顔を絶やすことの無い瑞雲が、こうも塞いだ姿を見せるのは非常に珍しいことである。

 眉を顰め、怪訝な面持ちで瑞雲の虚ろな双眸を覗き込んだ火天は、一度は引き取った体重を、またも前のめりに押し出そうとしてしまっていることに、全く気が付いていなかった。


「実はあいつ、最近夜中に町をほっつき歩いてることが多くなってきててな……悪い連中と付き合ってんじゃねえかって、いろいろと気には掛けてたんだ。そしたらついこの間、神妙な顔で俺のところに来やがってよ。珍しいこともあるもんだと驚いてたら、一言目に言った言葉が――」

「もしかして、“金を貸してくれ”とか?」


 その言葉は、大して深い読みがあってのものではない。

 ただ、当たらなければいいと思っていた。

 けれど、無常にも彼は、その細面をゆっくりと縦に揺らしていたのだった。

 自分はそれほど勘の鋭い人間ではないはずなのに、こんな時にばかり当てずっぽうが冴えを見せるのは、一体どういう了見なのだろう。


「相手がお前ならいつものことなんだが、どうやらあいつは本気らしい。それが結構な額面でな……一生かけてでも返してみせるから、三百両(※)の金子(きんす)を貸し付けてくれと言って来やがったんだよ」

「さ、三百両? そりゃあ……穏やかな額じゃねえな」

「その上、金の使い道は追求してくれるな、と来たもんだ。当然俺は、目的も分からずにそんな大金を渡せるはずがねえと突っ撥ねたんだが」


 そこまでを言い終え、瑞雲は喟然と長嘆息を漏らしていた。そんな彼を見ていると、只の時でさえどんよりとしていた空気が、見る間に梅雨曇の空の如く、腫れぼったくなってゆくのを感じる。


「あの八雲がねえ――まさか、女が出来たとか?」

「そういうことがあってもおかしくない年頃だとは思うが、な。けど、ただの女遊びにしちゃ、あまりに笑えねえ額面だろ? 何か重大な理由でもあるなら、工面してやらねえこともねえんだが」


 一回り近く歳の離れた八雲は、火天にとっては弟のような存在である。

 柔軟で器用な父親とは違い、頑固で融通の利かないところはあるものの、真面目で辛抱強く、正義感の強い八雲が、父親の言う“良い子”であることはまず間違いがない。

 普段口も利かないたった一人の息子と、ようやく交わした言の葉の斬り出しが、金の無心であったとは――

 親のいない身の上である自分でさえも、瑞雲の落胆を思うと、胸の軋むような心地がする。


「それで、あいつが何をやらかそうとしてるのか、俺に突き止めさせたいってわけか」


 黙したまま深く頷く瑞雲を目にした火天は、顎鬚を擦り、ニヤリとほくそ笑んでいた。

 自分にとっても、八雲の真意の究明は望むところだ。

 父親から言われないまでも、火天自身が八雲の変化に気が付くことが出来ていれば、同じことを考えたに違いない。

 しかし、正直な胸の内を明かせば、自分はツイていると思えてならないのである。

 不謹慎ながら、瑞雲の方から八雲のことを頼まれる形になったのは幸運であったと思う。気掛かりな八雲のことを大っぴらに調べ上げてやれる上に、それなりの見返りを求めることも出来るからだ。

 うまくすれば、酔った勢いでしこたま色街でばら撒いてしまった金を、いくらか取り戻すことが出来るかもしれない――肉親同然の弟分の身を案ずる恩人に向かって、こちら側にそのような打算があることは、口が裂けても零せそうにないが。

 実を言えば、ここ数日の八雲の様子を反芻してみたところ、アテになりそうな情報を引っ張り出すことが出来ていたのだ。

 しかし、その情報を生かすためにどうしても補わなければならないものがある。それは皮肉にも、渦中の人物が求めていたものと、ほぼ同質のものであったりするのだが――


「じゃ、とりあえず花街に調査に行きたいから、その費用を前払いで頂くってことで――」


 八雲のときの落胆振りとは違い、こちらの要求は大方予測していたとでも言いたいのか、瑞雲は酷く冷静な様子で呆れ顔を見せつけようとする。


「お前、調子のいいこと言って、その費用を使い込むつもりじゃねえだろうな。何もまだ、花街に手掛かりがあると決まったわけじゃねえだろうが」

「八雲が花街通いに目覚めたのだとしたら、それはおそらく火天のせいでしょうね。この間、嫌がる八雲を無理矢理花街に連れて行こうとしていましたから。何の脈絡もなく突然花街が怪しいと言い出したのも、おそらく自分に心当たりがあるからでしょう」


 刹那、店先の方から届いてきたのは、落ち着き払った厭な声。穏やかな低音を響かせ、店先とこの奥間を隔てていた藍染の暖簾をくぐってやってきたのは、すらりとした長身を常磐色の羽織に包んだ若い男であった。


「げ、空冥(くうめい)――何でこんなところに」


 聞き慣れたその声を即座に“厭な声”だと認識したのは、その男の為人(ひととなり)が、火天の好みに塵ほども合致しないからである。

 加賀山空冥(かがやまくうめい)というこの男は、侍の統治する隣国武科(たけしな)の生まれで、軍学者だ。軍学以外にも、彼は医学や易学など、様々な分野に造詣が深いが、常日頃から、“手広くいろんなことをやろうとする人間には、結局どの分野においても中途半端な知識と経験しか持っていない”と言い聞かせながら生きている火天にとって、この男の存在は鼻持ちならないものでしかない。

 この静賀へとやってきたばかりの頃、ひょんなことから厄介ないざこざに巻き込まれ、大怪我を負う羽目になった火天は、名ばかりも甚だしい薮医者に捕まったせいで、三途の川を拝みかけたことがあるのだ。

 そこから自分を救ってくれたのも、他ならぬ医学者――空冥の尽力によるものに違いはないのだが、生死の境を彷徨ったあの日以来、火天は本能的に医学を志す者の存在を受け付けなくなってしまっているのである。


「やっぱりお前が一枚噛んでやがったのか、火天……」


 傍らでぼそりと恨み言を吐いた瑞雲の言葉も、既に気にならなくなってしまっている。

 火天は鋭く瞳を(すが)め、空冥が小脇に抱えていた唐草模様の風呂敷包みを、油断無く睨み付けていた。


「遅くなりました、義兄さん。いつもの煙草を持ってきましたよ」

「おう、毎度済まねえな。その辺に置いといてくれ」


 まさかそこに毒薬が包まれているなどとは思ってもみなかったが、医者の持ち物というだけで、どれもこれもが酷く怪しげなものに思えてしまうのは、もはや心疾の域に達していると言ってもいいのかもしれない。

 火天がほっと胸を撫で下ろしたのを知ってか知らずか、いつものようにニコニコと柔らかな笑みを振り撒きながら、空冥は瑞雲の隣に腰を下ろしていた。


「それよりも、先ほどの話ですが。八雲がそんなことを言い出すなんて、気になりますね」


 瑞雲から勧められた煙管のもてなしを柔らかく辞し、何故だかいつも肌身離さず持ち歩いている弁柄色の短い棒切れを脇に置くと、空冥は切れ長の糸目をうっすらと開け、腕を組んで考え事を始めていた。


「おお、空冥。やっぱりお前はちゃんと心配してくれるか。いやあ、火天なんかに頼むより、お前に相談した方がよっぽど早かったかもしれねえなあ」

「おい、ちょっと待て! せっかくのおいしい臨時収入の話が――」


 幼い子供の仕草のようにパッと顔色を明るく染めた瑞雲は、期待のこもった眼差しを向け、空冥の零す独り言に耳を傾けている。

 明らかに雲行きが変わってしまっている――

 焦燥を抑えきれなくなった火天は、ぽろりと本音が口を突いて出ていることにも気がつかないまま、(すが)るように瑞雲の紙子羽織の袂を引いていた。


「何だお前、そんなに俺の依頼を受けたいってのか? だったら当初の半額の報酬で手を打ってやってもいいが」

「何だよ、何でそこでお前が報酬を値切るんだよ!」

「嫌なら別にいいんだぜ。空冥ならたぶん一人でも解決してくれるだろうしな」


 こちらに振り返った瑞雲がしたり顔で口許を緩ませる様を目に入れた瞬間、火天はまたも、この男と自分との才覚の違いを認識させられる。

 この男が根っからの“商売人”だということを忘れていた。

 彼はおそらく、火天が四の五の口を出す余地がないほど金に困っていることを知っていて、最初からこのようにして、何彼に付け手取りを減らしていく心積もりであったのだろう。


「いや、むしろ最初から私一人の方が、面倒を起こさずに済むと思うんですが」

「どういう意味だよ、てめえ」


 悪足掻きとばかりに、毒舌を吐いた空冥に噛み付いてはみたものの、もはやそれは泥田を棒で打つようなものである。


「まあ、とにかくそういうことだ。お前はどうするんだよ、火天?」


 これ以上手取りを減らされては、堪ったものではない。

 反論の言葉を喉元に押し込み、への字に堅く口をつぐんだ火天は、早々に与太話を切り上げ、町へと繰り出すことに決めていた――。




※ 三百両=現在の貨幣価値に換算すると、約二千四百万円(一両を約八万円として換算)。

挿絵(By みてみん)

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