魔法のメイクブラシ
暖かい風で桜が揺れる中、飯田まりえはバイト先に到着した。
歳は18、大学に入ったばかりだった。
ー自転車を停めないと。
店ーストロベリーキャンドルというフラワーショップの隣にある駐車場の端に移動すると、ヘルメットを取る。
その顔は整っており、まだ10代ということもあって、肌が瑞々しかった。
メイクはしておらず、店の中へ入る。
「お疲れ様です」
店主ー村山まりに声をかけると、彼女は明るく返してくれる。
「いらっしゃい、まりえちゃん。今日もバイト、頼んだわよ」
「はい、分かりました。着替えてきます」
まりえはバッグを持ちながら、STAFF ONLYのドアを開く。
パソコンがある事務室の奥に、更衣室があるのだった。
ー10代だからって、馬鹿にされないように気をつけなきゃ。
まだバイトを始めたばかりだが、まりえはプライドが高かった。
今日もミスしないように気をつけようと思いつつ、青色のエプロンを身につける。胸にはネームプレートがあり、飯田と書かれている。
「メイク、メイク」
バッグから手鏡と1本のメイクブラシを出したのだが、メイクブラシが変わっていた。
持ち手のところにボタンが並んでいるのである。
まりえは部屋の中央にあるテーブルに手鏡を置くと、メイクブラシのボタンを押す。
すると春の日光より眩しい光が満ち、形が変わる。
「まずはファンデーション」
まりえは持っているだけで、スラスラとメイクブラシが動いていく。
そう、これは魔法のメイクブラシだった。
1本、持っていれば、メイクが簡単にできるという、女子にはありがたいグッズだった。
メイクブラシは顔のTゾーンを中心に、綺麗にファンデーションを塗っていくと、自然と顔から離れる。
まりえは満足そうに手鏡を覗くと、次のボタンを押す。
それは頬を中心に、桜色に染めてくれるチークだった。
「あとは…」
目元だと思い、1度、後ろを振り返る。
まりが来ないかどうか確認してから、メイクブラシのボタンを押す。
今度はアイライナーの形となり、目元にすっと馴染んでいく。
最後にボタンを押すと、アイシャドウとなり、細くなった筆が動いていく。
「そうだ、口紅」
ボタンを押すと、口に当て、塗り絵のように慎重に動いていく。
「よし、できた」
手鏡を覗き込み、色んな角度から見てみる。
眉を整えるアイブロウが足りないと気づき、ボタンを押す。
まりえは眉がないわけではないのだが、メイクの中で眉は重要な役割をもっていると思っていた。
ーあたし、綺麗になった。
桜もびっくりするほど、メイク後の顔は整っており、まりえは鏡に向かってにこりと笑う。
今日も楽しくバイトができそうだと思い、メイクブラシを大事にバッグの中へしまう。
それから、まりえは店内に出ると、まりがこちらを見てくる。
「あら、春らしいメイクね」
純粋に褒めてくれたらしく、まりえは嬉しそうに微笑む。
「メイク、楽しいので」
魔法のグッズのことは内緒で、誰にも教えていなかった。
取られたら嫌だし、話題になって奇異の眼差しで見られるのも、嫌だった。
ー本当の友達は、メイクブラシだけ。
素のまりえを知っているのも、その日の体調に合わせてメイクしてれるのも、魔法のグッズのお陰だった。
まるで親友みたいな感じで、いなくなったら困る存在だった。
ーメイクブラシだけが、傷つけてこない。むしろ守るように、あたしを輝かせてくれる。
人間不信というわけではないのだが、まりえはある程度、心をブロックしていた。
店主のまりの前でも、一歩、引いたような態度だった。
ーまりさん、良い人なんだけど、その良い人っていうのが、いつまで続くのか分からないのよね。
まりえはまりをじっと見、全身を眺める。
化粧は薄めだが、流行りのメイクをしており、細身だった。
優しくてほんわりとした性格のようだが、いつ牙を剥くか分からない。
ー人間の腹の中なんて、何を考えているか、分からない。油断しては駄目。
まりえは強く自分に注意すると、まりに聞く。
「何をすればいいですか?」
「そうね…。花の名前を2つ、覚えましょうか」
「なるほど」
エプロンのポケットからメモ帳を取り出すと、まりの後をついて行く。
「これはネメシア。別名ウンランモドキといって、花ことばは正直ね」
「ネメシア…」
メモをしつつ、鉢植えに入った紅白の花を見る。
まるで色鮮やかな鯉のようで、まりえは顔を近づける。
春の日差しに照らされているからか、日光の甘い香りがし、目を細める。
猫ではないが、誘われてリラックスしたくなる。
ー花ことば、正直か。1つ勉強になった。
小さな花が懸命に咲く姿は、自分と重なり、「どうだ、美人だろう?」と言っているように見える。
まりえの姿に、まりがくすりと笑うと、次の花を教えてくれる。
「これはラナンキュラス。別名ハナキンボウゲ。花ことばは華やかな魅力」
「ラナンキュラス、華やかな魅力…」
丸い花はカーネーションに似ているが、光のある方向へ真剣に咲いているのだった。
ー真剣に咲いているか…。あたしもちゃんとやらないと。お金をもらうんだから。
メモを書きつつ、心に留めておく。
遊んでお金をもらうのは簡単だが、そんな職があるはずがない。
皆、一生懸命、仕事をしているから、日本の経済が回るのだと、まりえは思っていた。
真面目といえば真面目で、馬鹿にされやすい性格だが、真面目がいなくなったら、社会がどうなるかと、いつも嫌な奴に会うと考えてしまう。
ー考え過ぎかな、あたし。
ぼうっとしていると、メモ帳にインクが広がっていく。
「あ!! 大変!!」
慌てて意識を取り戻すと、まりが心配そうに言ってくる。
「大丈夫?」
「大丈夫です。ちゃんとメモをとっています」
「それなら安心ね。頼りにしているわよ」
肩を叩かれ、まりえは頬を少し紅潮させ、うなずく。
人から頼りにされるのは、嫌ではなかった。
「ーあの」
スーツを着た若い男性がやってきたので、まりえはメモ帳をポケットに入れ、挨拶する。
「いらっしゃいませ」
すぐにまりも挨拶し、男性客に近づく。
「どんなお花をお求めでしょうか?」
「そうですね…」
迷う客の姿に、この人、前も見たことがあると思いつつ、まりの後ろにぴったりとくっつく。
見て覚えること、それが1番、早いような気がした。
ーよし、頑張るぞ!!
まりえは気合を入れると、顔を引き締めたのだった。




