三話 ルイーズと王子様
夢を見た。遠いようで、遠くない、そんな日のこと。
ルイーズが五歳の頃──それが、彼との出会いだった。
その日、王宮では第一王子のお披露目が行われていた。招かれたのは、貴族階級であることはもちろん、王子と年の近い子供たちとその親族たち。
だが、これは単なる儀式ではなかった。集められた子供たちは、婚約者候補および将来の側近候補として、裏で静かに“査定”されていたのだ。
スタニスラス殿下──第一王子は、ルイーズと同じ歳。カプレ公爵家からはルイーズと、三つ年上の兄・ラファエルが招かれていた。
お披露目は、華やかなガーデンパーティーという形で執り行われていた。
「こちらの御方が、エヴリーヌ王妃と第一王子・スタニスラス殿下です。二人とも、ご挨拶なさい」
母・コーデリアに促され、ラファエルが一歩前に出る。
「お初にお目にかかります。カプレ公爵家三男、ラファエルと申します……」
彼の堂々とした挨拶に続き、ルイーズも一歩踏み出すが、小さな声で言った。
「ルイーズです……」
「ルイーズ、ちゃんと挨拶の仕方を教えたでしょう?」
母の小言に、エヴリーヌ王妃がやわらかく微笑んだ。
「ふふっ、ルイーズちゃんは恥ずかしがり屋なのね」
「ごめんなさいね、エヴリーヌ。普段はもう少ししっかりしているんだけれど……」
二人の母親は旧知の仲。互いに信頼し合う関係であることが、会話からも伺えた。
「初めまして。僕はスタニスラス・ダルシーと申します」
陽光を浴びて銀の髪が煌めき、青く澄んだ瞳が穏やかに細められる。すっと通った鼻梁に長い睫毛、整った顔立ちはまるで絵本の中の王子様そのもの。
笑顔ひとつで、見る者の心をつかんで離さない少年だった。
その笑顔を向けられた瞬間、ルイーズはとっさにラファエルの背後へ隠れた。
「あら、ルイーズったら……もしかしてスタニスラス殿下が格好良すぎて緊張しちゃったのかしら?」
「……ちがうもん。ルイーズのお兄様たちのほうが、ずっと格好いいもん」
ラファエルの服の裾をきゅっと握り、しっかりと隠れたまま反論する。
この時、ルイーズがスタニスラスに抱いた印象は苦手意識だった。
スタニスラスは庭園に姿を現してから、ずっと変わらぬ笑顔を浮かべていた。
裏では何を考えているか分からない笑顔。感情の読めない笑顔。──ルイーズが嫌いな笑顔。
「まあ、驚いたわ。スタニスラスが女の子に避けられるなんて、初めてだわ」
「……母上、口元が笑っていますよ」
「あら、ごめんなさい。つい楽しくて」
エヴリーヌは、扇子で口元を隠してくすくすと笑った。
「コーデリア、少し良いかしら?」
そう言ってエヴリーヌはコーデリアに耳打ちをする。
「ふふ、それはとても良い案ね」
「でしょう?」
母親二人がふふ、と意味ありげな笑みを交わす。
「私たちはここを離れられないから、スタニスラス。ルイーズちゃんと一緒に遊んできなさい。将来の婚約者をリードするのも、王子の大事な務めよ」
「ルイーズ、いつまでもお兄ちゃんにくっついてばかりじゃだめよ?いずれ婚約者になるかもしれない方なのだから、ちゃんと殿下のことを知ってきなさい」
「やっ……ラファエル兄様も一緒じゃないとやだ!」
「ルイーズ。ここは公の場よ。立場を弁えなさい。今のあなたの態度は、淑女として失格よ」
母の叱責に、ルイーズはぎゅっと唇を噛み締めた。今にも零れ落ちそうな程に、目に涙を浮かべる。
「殿下の御前であるにも関わらず、醜態を晒してしまい……申し訳ございませんでした」
ルイーズは先ほどまでの子どもらしい頑なさを脱ぎ捨てたかのように、一変して淑女然とした態度で深く頭を下げた。
「お話、喜んでお相伴させていただきます。スタニスラス殿下、不束者ですが何卒よろしくお願い申し上げます」
そう言って顔を上げたルイーズの瞳には、今にも涙が零れそうな光が宿っていた。
けれど、唇を引き結び、必死に感情を押し留めている様子がその表情から伝わってくる。言葉とは裏腹に、頬は赤く染まり、不服そうな気持ちがありありと顔に出ていた。
「それでは、参りましょうか」
スタニスラスは優雅に手を差し伸べた。ルイーズは躊躇いながらも、おずおずとその手に自らの小さな手を添える。
途端に、彼は軽くその手を握り、まるで逃げられぬようにとでも言うように、歩き出した。
ルイーズは、不承不承ながらも彼に引かれるまま、その場を後にする。
「見まして?ルイーズったら、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうだったわ。あの顔は相当、ラファエルと離れたくなかったのね」
「ほんとに、あのむくれっ面がたまらなく愛らしいわね。ルイーズちゃん、是非とも娘に欲しいわ。それに、ルイーズちゃんに振られた時のスタニスラスも見まして?表には出さなかったけれど、あの子、絶対ショックを受けてたはずよ。うふふ」
母親たちは、ゆっくりと薔薇園の方へ歩いて行く二人の背を眺めながら、実に楽しそうに言葉を交わしていた。
少し離れた場所で、控えめにその様子を見ていたラファエルは、呆れたように小さく溜息をついた。
ルイーズとスタニスラスは、無言のまま手を繋ぎ、広い庭園をそぞろ歩いていた。
行き着いた先は、咲き誇る薔薇が甘く香る、手入れの行き届いた見事な薔薇園。
「こちらにどうぞ」
スタニスラスは、石造りの腰掛けへと腰を下ろしながら、隣を手で示す。
ルイーズは気乗りしない様子で、それでも促しに従って、隣に座った。二人の間に、またしても静かな沈黙が流れる。
「ルイーズ嬢は、お兄様たちのことが大好きなんだね」
沈黙を破ったのは、スタニスラスだった。
ルイーズは口を開きかけるも、何かを飲み込むようにして、再び口を噤む。
「違った?」
スタニスラスは、首を傾げながらルイーズの顔を覗き込む。
俯いたままのルイーズは、答えを返さず、ただ沈黙を続けた。
「……僕とは話したくない?」
その問いは、責めるようなものではなかった。むしろ、自嘲すら感じさせる静かな声音だった。
スタニスラスは、ルイーズが言葉を発せぬ理由を考えていた。
ルイーズは言葉を話せないというわけではない。だとすると、彼女が口を効かない理由は己に対する心理的抵抗かと考えた。
詮無い話。まったくその通りである。母親達の勧めとはいえ、気の進まないルイーズを半ば強引に連れ出したのだから。
スタニスラスはふと、視線を遠くへと向けた。
満開の薔薇の花が、風にそよぎ、微かに揺れている。
「……違うの」
ルイーズは、ほとんど聞こえないような微かな声で答えた。
彼女の目には、まだ消えぬ涙が滲んでいる。
「お兄様達の事は大好き。わたくしの事を愛してくれるし、大事にしてくれるから……でも、他の人は嫌い。」
「──どうして?」
スタニスラスは、その暗い表情が気になって、思わず尋ねた。
「わたくしの事を嫌うから。だから、わたくしも家族以外の人は、みんな嫌い。」
四兄妹の末子であり、唯一の子女として、ルイーズは大切に育てられた。蝶よ花よと目に入れても痛くないといった扱いで、愛されて育ったその結果、放漫な性格へと変わっていった。
すべては、自分を中心に回っていると信じて疑わなかった。だが、ある日、使用人たちの会話を偶然耳にしたことで、その考えは大きく揺らぐこととなった。
「わたくしに家柄もなく、優秀なお兄様もいなければ、誰も優しくしてくれないもの。だから、わたくしも家族以外は要らないの」
その言葉が、深く心に刺さるように響いた。
ルイーズは、かつての無邪気な自信を打ち砕く出来事を、未だに引きずっているようだった。
「本当に?──君は、本当は他人とも繋がりたいんじゃないかな?」
スタニスラスは静かに、しかし優しく問いかけた。
ルイーズはその言葉に一瞬戸惑ったが、答えることなく視線を落とす。
スタニスラスの手が静かに伸び、彼女の頬に触れた。
親指が目尻の涙をそっと拭う。その優しさに、ルイーズは耐えきれず、声を上げずに涙をこぼした。
「わたくしと顔を合わせる時は、みんな優しく笑うの。貴方と同じように、優しくて善意を向けた笑み。だけど、その笑顔の裏では何を考えているのか分からない。心の中では、嘲笑っているのか、本当は嫌悪しているのか、分からないの。貴方の笑顔は従者たちと同じだもの……怖いの……」
ルイーズは、涙を拭うスタニスラスの手を振り払った。
その動作には強い意志が込められていたが、同時に不安定さも感じられた。
スタニスラスは目を見開く。
驚いたのは、手を振り払われたことではない。
彼は、それよりもルイーズの言葉に深い衝撃を受けた。
中身が空っぽである事を見抜かれた。そんな気がした。
スタニスラスはかつて、周囲が驚嘆するほどの早熟で才気煥発な少年だった。
それゆえに、何事もすぐに覚え、成し遂げてしまう。しかし、その結果、感情の起伏をあまり見せなくなり、冷静で無感動な人物だと思われることが多かった。
だが今、目の前のルイーズの痛みを、彼はどうにもすることができなかった。
「貴方は今、何を考えているの?どうして、わたくしに優しくするの?どうして、わたくしの本音を言い当てるの?」
ルイーズは未だ涙を湛えたまま、きっぱりと言い放った。
その声には、痛みと戸惑いが入り混じっている。
「上辺だけの優しさなんて、もう要らないわ」
人に嫌われる辛さを知った。人から憎悪を向けられる恐怖を知った。
それ以来、放漫な態度は改善されたが、心の中で築いた壁は高く、家族以外の誰にも心を開こうとはしなかった。
「分からない」
スタニスラスは静かに答えた。
「だけど、君に優しくしたいと思った。そうしたら、君の涙を拭っていた」
考えるのは『あたま』。感じるのは『こころ』。指導者は言った。
英明と持て囃された、スタニスラスでさえも分からない事があった。
『心』とはつまり、心臓を指す、心臓は血液循環に必要な核であり、ただのポンプ。
考えるのは『頭』で、お腹が空くのも痛みを感じるのも神経伝達物質によって脳髄に情報伝達が行われる。
嬉しいも楽しいも哀しいも感じるのは全て「脳髄」だと思っていた。
脳で考えるならば、感情は制御出来るもの。
でもそう言うと大人は皆、それでも感じるのは心なのだと言った。
心で感じることが出来ないスタニスラスは、自分には心が無いのではないかという結論に至った。
「どうして、そう思ったんだろう?」
頭で考えるよりも先に、体が動いた。その行動は、スタニスラスを驚かせた。
彼はじっと、ルイーズを見つめていた。
「君の笑った顔が見てみたい」
その言葉が、自然に口をついて出ていた。
スタニスラス自身、その感情がどこから湧き上がったのか理解できなかったが、それでも強く思った。
ルイーズは驚き、目を大きく見開いた。
しばしの沈黙の後、彼女はふっと息を漏らし、笑い出した。
「……ふ、っふふ。自分の感情も分からないなんて、変な御方」
その笑いは、何もかもを受け入れたかのように自然だった。
そして、それがスタニスラスには不思議に思えた。
彼はその瞬間、何かが変わったことに気づいた。
「かわいい」
その言葉は、無意識に口から出ていた。
それはあまりにもやさしくて、あたたかくて、やわらかく、とつぜんに、──二人の元に訪れた。
人と仲良くしたいけれども、他人を信じられない少女と、感情を理解しきれない少年。
その幼い世界に、ほんの少しだけ色がついた瞬間だった。
それからというもの、ルイーズとスタニスラスは何度も顔を合わせ、互いに惹かれ合うようになった。
彼らの仲が深まるにつれて、お茶会だけでなく、母親が同伴することはあっても二人だけで会う機会も増えていった。
「わたくし、幸せですわ。」
「幸せ?」
「ええ。こうして、スタニスラス殿下にお会いできることが、わたくしの幸せなのです。」
薔薇園のベンチに腰掛け、ルイーズは淡紅色に頬を染めながら、恥ずかしそうに言った。
二人は友として親交を深めていたが、次第にその関係は変化し、ルイーズの中でスタニスラスの存在は特別なものになりつつあった。
「わたくしは、スタニスラス殿下に出会って、変わりましたわ。人との繋がりに臆病だったわたくしに、再び他人との付き合い方を教えてくださった恩人です!」
「それを言うなら、僕もだよ。ルイーズ嬢と出会って、僕の人生は大きく変わった。何事にも心が動かなかった僕に、色彩を与えてくれた。ありがとう」
「そんな……わたくしは何もしておりませんわ」
唐突に告げられた感謝の言葉に、ルイーズは驚き、否定した。
「ルイーズ」
「えっ?」
「これから、君のことをルイーズと呼んでもいいかい?君も、僕のことはスタンと呼んでくれ」
「そんな……恐れ多いですわ。」
「駄目か?」
スタニスラスは少しだけ眉を下げ、真剣な眼差しでルイーズを見つめた。
その直球な視線に、ルイーズは一瞬、息を呑んだ。
「しょ、承知致しましたわ」
「ありがとう!ルイーズ!」
スタニスラスは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「あの……でしたら、スタン様もわたくしのことはルゥと呼んでくださらないでしょうか?」
ルイーズは少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら、目を逸らす。
「分かった。これからはルゥと呼ぶよ。」
「っ、はい!」
互いに、愛称で呼び合うことを約束した二人は、なんだか照れくさい気持ちを抱えつつ、顔を見合わせて笑い合った。
その笑顔の中に、二人の距離がさらに縮まったことを感じ、胸が温かくなった。
出逢ってから二年が経つ頃、ルイーズとスタニスラスはすっかり互いに気を許し、想い合う仲になっていた。
ルイーズは対人関係を克服し、スタニスラスは感情を感じる心を手に入れた。
二人は次第に異性として意識するようになり、顔を合わせる日々は色を帯びたように鮮明で、毎日が楽しかった。
しかし、その幸福も永遠には続かなかった──。
王妃エヴリーヌの死が公布され、刻一刻と、最後の時が二人の元に訪れようとしていた。
そして、その日が突如として無情に訪れたのだ。
「ルゥ、僕たちがこうして会えるのも、今日で最後だ」
「どうしてですの?」
「ごめんね。君とは今日でお別れなんだ」
「いや、嫌ですわ。どうして、遠くへ行ってしまわれるのですか!」
「父上のご決断だ。でも、泣かないで、ルゥ。僕は必ず戻ってくるよ」
「本当……に?」
「ああ、約束だ。何時になるか分からないけれど、必ず僕は君の元に帰ってくるよ」
「分かり、ましたわ。わたくし、スタン様がお戻りになる日までずっと……ずっとずっと、お待ちしております」
「ありがとう」
その時、スタニスラスを探す衛兵の声が遠くから聞こえてきた。
「もう、行かなくちゃ」
スタニスラスが衛兵の元へ向かおうとしたその瞬間、ルイーズの小さな手が彼の裾を掴んだ。
スタニスラスは静かにルイーズを振り返り、ゆっくりと額にキスをした後、そのまま目元に移動して優しく涙を拭い、唇でその涙を吸い取った。
そして、顔を離すと、ルイーズの小さな手を優しく包み込んだ。
「覚えていて?僕は君のことが大好きだよ」
その言葉と共にスタニスラスは手を離し、衛兵の元へと歩みを進めた。
一人残されたルイーズの手元には、スタニスラスから渡されたペンダントがしっかりと握られていた。
それは、二人の最後の記憶。
一度は寄り添い交わり合った想いが、この先違える未来が待っているなど、この時の二人は思いもしなかった。