五話 ルーノ国上陸
一週間後、ルイーズたちはルーノ国に辿り着いた。
ルーノ国を初めて訪れる者たちは、その風景に言葉を失った。
はじめに見えたのは、広大な高原に点在する移動式住居「ゲル」の数々。遊牧民の営みが随所に見られ、放たれた家畜たちがのんびりと草を食み、豊かに広がる草原の景色は、隣国ボルテルノに引けを取らない豊かさを感じさせた。
しかし、船がさらに奥へと進むにつれ、風景は一変していく。
ある地点から、草木がまるでむしり取られたかのように激減し、新芽のように短い草しか生えていない。
やがて船が着岸する頃には、大地は無残に荒れ果て、戦禍の爪痕がむき出しとなっていた。ゲルの残骸がいくつも転がり、地面には抉れたような穴が点在している。まるで人々に見捨てられた土地のように、辺りは静まり返っていた。
その荒れ果てた土地に、五つの人影が静かに立っていた。
「貴殿等は、まだ船から降りぬでないぞ」
総帥は甲板から、嬉しそうに目を見開いて口角を上げながら飛び降りた。
一足先にルーノ国に降り立った総帥の手には、珍しく武器が装着されていた。
ルイーズですら、総帥が武器を装備しているところを見るのは初めてだった。
その両手には頑丈そうな手甲武器を装着し、自らのストレンジで肉体強化を施しながら、彼は人影へと向かって駆け出した。
「元気そうじゃのう」
その中で中心に立っていた一人の老人が、総帥に向かって声をかける。
「ガワワワワ、貴殿もまだ息災だったか。デープよ」
「ジジイのお主より、わしはまだまだ若いからのう」
「抜かせッ!ジジイは貴殿の方じゃろう」
互いに笑みを浮かべながらも火花を散らすような口調で言い合う二人。
デープが片手を上げると、周囲にいた四人の人物は瞬時にその場から距離を取った。
デープは総帥から目を離すことなく、口元に笑みを浮かべて言葉を続ける。
その動きは、まるで予兆を知らせるかのようだった。
四人の者たちが十分に距離を取るのを確認すると、デープの体はみるみるうちに巨大化していった。
十五メートル以上はあるであろう、その巨人の姿に、周囲の者たちは息を呑んだ。
その巨人は、太い腕を総帥に向かって振り下ろした。
もし通常の人間がその攻撃を受けたなら、まるで蟻のように簡単に押し潰されてしまうだろう。
しかし総帥は、腰を低く落として手甲でその攻撃を正面から受け止めていた。
甲板の上からは「おぉ……」と感嘆の声が漏れる。
デープと総帥の戦いを見ていたルーノ国側の四人も、驚愕の表情を浮かべていた。
「元国王であるデープ様の攻撃を、直に受けて立ってられる者がいるとは…!」
「クハハハ。ダルシアク国の連中など、ストレンジに頼った貧弱者だと思っていたが…爺様と互角にやり合える輩が居たとはな!面白い!面白いぞ!手甲のジジイ!!」
「ラジーブ様、手甲のジジイではなく、あの方はダルシアク国の総帥様ですよ」
「フォッフォ。あの二人は昔からああじゃで。ミア様がおらなんだ今でも、デープと総帥に適う者はおらんかったじゃろうて」
最後に語ったのは、彼らよりもさらに年老いた、腰の曲がった小柄な老人だった。
手にした杖をつきながら、遠い昔を懐かしむように目を細めている。
その老人は、総帥とデープが過ごしてきた長い年月を知っている人物だった。
デープはルーノ国の先代の王であり、総帥とは好敵手であり、また仲間でもあった。
若かりし頃、共に戦い、共に多くのことを乗り越えてきた二人は無二の戦友だ。
「思い出すのう、デープよ。184戦184勝。貴殿は毎度、惜しくも負けておったな」
総帥は、振り下ろされたままのデープの右腕に軽々と飛び乗ると、老体とは思えぬ俊敏さで腕を駆け上がっていく。
「ほう……とうとう耄碌したか。惜しくも、などと寝言をほざくようではな。勝っていたのはわしじゃ。負け惜しみのボケとしても、出来が悪いわい」
追撃の左手が総帥めがけて襲いかかる。握り潰さんとする巨大な指の隙間を、総帥は鋭く身をひねり、掻い潜って躱した。
そのまま勢いを殺さず、肩にまで到達すると、渾身の拳をデープの頬へと叩き込む。
ごぉん、と鈍い音と共に、デープの巨体の頭がわずかに左へと揺れた。
だが、どうやら殴打の衝撃で弾かれたのではない。デープが自ら首をひねり、力を受け流したのだ。
それでも、総帥の拳はただ掠めただけでも、肉を抉る威力を持つ。
「かゆい。かゆいのう……。蚊でも止まったか?」
頬をポリポリと掻きながら、デープは楽しげに挑発する。
「強がりはよせ。口の端から、血が垂れておるぞ」
「……あ?」
言われて初めて、デープは口元に違和感を覚え、血を拭う。
そして、舌で奥歯を探った瞬間ゴロリ、とひとつ歯が取れた。
奥歯が一本、完全に折れていた。
「ぷッ……!攻撃力は、衰えておらんようじゃのう」
そして不意に。
モーションすらなく、デープは口からその折れた歯を吐き出した。
それは弾丸のように総帥めがけて一直線に飛ぶ。
総帥は即座に手甲を交差させて防御の構えを取ったが、吹き飛ぶほどの勢いには耐えきれず、衝撃でそのまま肩から地面へと落下していく。
その落下に被せるように、巨腕が振り下ろされる。まるで虫けらを叩き潰すかのごとき一撃。
だが総帥もただでは転ばない。空中で体勢をひねり、迫り来る拳に向けて鋭く構えを取った。カウンターだ。
その瞬間。
「どれ、そろそろ止めに入ろうて」
静かに、しかし朗らかに響いたのは、杖をついた老爺カランの声だった。
「ラジーブ様よ。わっしを、二人の間へ飛ばしてくりゃせんじゃろうかて」
「カラン老師、本当に良いのか?」
「フォッフォ、心配はいらんて。二人もわっしの顔を見れば、さすがに力を抜くじゃろうて」
「……わかった。それじゃあ、飛ばすぞ」
「頼んだて」
ラジーブは一歩踏み込むと、老師の懐に入り、腰を落としながら掌を腹部へと伸ばす。
だが、老師の身体は掌が触れるよりも早く、ふわりと斜め上空へ浮き上がり、風を裂くように空へと飛んでいった。
それはラジーブのストレンジによるものだった。周囲の重力場を自在に操る能力だ。
このとき、カランに対して「斥力」を働かせ、まるで大砲から撃ち出すように軽々と跳ね飛ばしたのである。
「「老師!?」」
「それまでじゃて」
驚きに声を重ねたのは、総帥とデープだった。
カランの登場に、二人は拳を止めようとしたが、既に勢いを得た拳は簡単には止まらない。
その刹那。
カランはふたりの間にすっと入り、手にした杖を軽く振る。
その杖が拳に触れた瞬間、拳の形がぐにゃりと変形し、まるで意思を持ったかのように左右へ逸れていった。
「なんだ、今のは……」
船上にいた者たちは何が起きたのか理解できず、ただ呆然とその光景を見ていた。
突如現れた老人が、激突寸前の攻撃をいとも簡単にそらしたのだ。まるで拳のほうが老人を避けたかのように。
カランの能力。それは【対象物の変形】。
自身や杖を通じて触れた対象の分子構造を変化させ、その物体の柔軟性を極端に高めることができる。
これにより、金属でさえ粘土のように曲げ、伸縮自在に操ることが可能なのだ。
「あれが、噂のカラン様か……」
ダルシアク国の騎士団隊長・ギャスパルがぽつりと呟いた。
その言葉に、皆の視線が彼に向く。
「いや……私も噂で聞いただけなんだがな」
そう前置きしながら、ギャスパルは語りだす。
「総帥ですら、唯一頭が上がらぬ人物がいると……その人物こそが、ルーノ国に住むカラン様というご老人だと聞いたことがある」
総帥がまだ若かりし頃。
いつ現れるかも分からぬ“自称・始祖神”との戦いに備え、彼はルーノ国へと渡り、己を鍛える日々を送っていた。
デープとはその修行中に出会い、互いに競い合う好敵手となったのだ。
当時、始祖神に従う勢力との小競り合いも度々起きていたが、総帥とデープは時にそれらと戦うため共闘し、戦友として絆を深めていった。
そして何より、そんな二人を導き、鍛え上げたのが他ならぬカランその人である。
今でこそ、か弱い老人にしか見えぬその姿だが、総帥とデープにとっては尊敬すべき師匠であり、生涯の恩師なのだ。
「ほれ、他の者達を早く案内せんといかんじゃろうて。放っておくとお前達は引き分けるまで辞めんじゃろうて」
カランの柔らかい口調に、その場の空気が一瞬で和らいだ。
けれど、それ以上に驚きだったのはその言葉の意味だった。
184戦中、全引き分け。
両陣営にとって、総帥やデープが敗北するなど想像できない。
だからこそ、それだけの戦いがすべて引き分けに終わっていると知った瞬間、誰もがその凄まじさに無言となった。
そして今、また新たに185戦目の引き分けが刻まれたのだ。
カランのおかげで戦いは止み、ダルシアク国の関係者と留学生たちは荷降ろし作業に取り掛かった。
「あーあ、もう終わりか。爺様たちの戦い、もうちょっと見ていたかったんだけどな」
遠く離れた山の上。一本の木の上に座り込む一人の女が、心底残念そうに呟いた。
「はあ、はあ……よろしいのですか? デープ様は必ず来るようにと仰っていたのに」
その後ろから、必死に山を登ってきたらしい少年が、肩で息をしながらようやく女に追いつく。
「いーのいーの。爺様たちの戦いが終わってから会いに行こうと思ってたし。それに、先に顔がバレたら面白くないでしょ?」
「?ダルシアク国に知り合いでもいらっしゃるのですか?……あ、ハロナさんのことですか?」
「ハロナ姉のことじゃないよ。お、いたいた。あの子か」
女の瞳が、荷降ろしを手伝うルイーズの姿を捉える。
その唇に、いたずらめいた笑みが浮かぶと、彼女は木の上からひらりと降り立った。
「会うのが楽しみだね。ルイーズちゃん」
そのまま森の奥へと軽やかに消えていく女。
その背を慌てて、少年が追いかけていった。




