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三十話 サビーヌの本音

 ジェルヴェールとサビーヌは来た道を戻り、西棟とは反対方向に位置する東棟へと駆けていた。

 途中、彼らはデジレやポールたちが待機している一角を通過した。だが、ポールと二人の少女は何故か本当に遊んでおり、残された他の仲間たちは見るからに疲労困憊していた。

 建物の崩壊音が響いていたのは総帥側の区域だったらしく、このあたりは比較的静かだった。


 彼らの気配に気づいたポールが、少女の一人をまるで砲弾のように持ち上げ、ぶん回しながら軽い調子で声をかけてきた。


「お前たち、どこへ行くんだ?」

「ルイーズ様の姿が見当たらず、捜索に向かうところです」


 サビーヌが簡潔に答えると、ポールは状況をすぐに理解し、それ以上は追及せずに言葉を返す。


「おー、そうか。東棟に行くなら気をつけろよ」

「……ご忠告、感謝いたします」


 一瞬、ポールの忠告に反応してサビーヌの空気が張り詰めたが、すぐに頭を下げ、再び足を速めた。

 ジェルヴェールはその後ろ姿を追いながら、必死に遅れまいと走る。だが、サビーヌの速度について行くのがやっとであった。


 彼は七歳の頃から陰影として育てられ、ストレンジの力のみならず、身体能力にもそれなりの自負があった。しかし、今こうしてサビーヌの背を追う中で、自分が井の中の蛙であったことを思い知らされる。


 距離は縮まるどころか、じわじわと開いていく。

 時折、彼女が後方の気配を察して速度を落としてくれていることに気づいた。

 ジェルヴェールにとっては、これ以上ない屈辱だった。

 だが、いまは己の力のなさを悔いている場合ではない。


 本来なら、誰よりも早くルイーズのもとへ駆けつけたいはずのサビーヌに、ジェルヴェールは「先に行け」と促した。

 だがサビーヌは、その言葉を頑として受け入れなかった。


「お嬢様がお待ちしているのは、貴方の助けです。どうか、あの御方を…ルイーズお嬢様を救ってください」


 その声音は、いつになく熱を帯びていた。

 サビーヌは、ルイーズがまだ幼い頃から仕えてきた。

 長年の主従関係の中で、互いに築いた信頼は計り知れない。サビーヌにとってルイーズは、ただの主ではなく、時に妹のようであり、時に自らの人生の指針でもあった。


 彼女は誰よりも知っている。ルイーズが他人の前では決して弱音を吐かず、感情を抑え、凛然として在ろうとすることを。


 記憶を失ったスタニスラスが“ジェルヴェール”として現れたあの日。

 ルイーズの胸中に去来した想いは、言葉では言い表せぬほど複雑で混沌としていただろう。

 それでも、あの日一度だけ、彼女はサビーヌの前で涙をこぼした。

 まだ八歳の少女だったルイーズが、感情を押し殺して泣く姿に、サビーヌは胸を締めつけられるような思いを覚えていた。


 あれ以来、ルイーズは誰の前でも泣かなくなった。

 七歳のある日を境に、何かが彼女の中で変わったのだ。もとより聡明だった彼女は、急速に大人びた雰囲気をまとい、弱さを他人に見せない術を身に付けていった。


「お嬢様を心から、あらゆる意味で救い出せるのは、ジェルヴェール様。貴方様しかいらっしゃらないのです」


 サビーヌは、普段はどんなときも冷静で無表情を貫くが、この時ばかりはわずかに眉を寄せ、感情を滲ませた。


「なぜ…俺なんだ? ルイーズ嬢は、恐らく貴女のほうを、俺以上に信頼していると思うが…」


 ジェルヴェールは息を切らしながら、それでも真っ直ぐにサビーヌに問う。


「貴方様より私のほうが信頼されているのは……当たり前でしょう」


 サビーヌは心底呆れたように呟きながら、唾棄する者を見る目でジェルヴェールを一瞥した。


「無礼を承知で申し上げますが、私は貴方様のことが嫌いです。ですが、貴方様は我が主にとってかけがえのないお方。この意味、聡明な貴方様であれば、お嬢様の態度からも容易に察せられるはずです」


 サビーヌがルイーズの専属侍女として仕えるようになったのは、まだ幼い頃だった。

 その日から彼女は、心に一つの決意を抱いた。


 海の女神とも称される美しき母を持つルイーズは、さながら海の精霊のような存在だった。

 愛らしくも気高い少女に、専属として仕えることが叶った喜び。さらに、自分よりも遥かに強い力を持つ主のもとに身を置けることに、サビーヌは心から歓喜した。


 ルイーズは、愛する者のためなら命さえも惜しまぬ、まっすぐな少女だった。

 傍から見ればその情熱はただの執着にすぎないかもしれない。だが、サビーヌは知っている。それが、ルイーズの愛の形であることを。


 そして、その愛を向けられている相手がジェルヴェールであるということに、サビーヌは気付いていた。

 無論、嫉妬もあった。自分の知るルイーズのあらゆる感情の中で、最も深く強く向けられている相手が自分ではないという事実。

 しかし、それでもサビーヌは理解していた。

 ルイーズが、本当に幸せを掴むためには。

 愛する人と共に歩むことが、あの方にとって何よりの幸福だと。


 だからこそ、サビーヌは誓ったのだ。命を懸けてでも、ルイーズを護ると。彼女が選んだ未来を支えると。

 そうして、彼女の傍らで、幸福の時間を共に歩む“その人”が現れる時まで——


「……あなたも、その……知っているのですね」


 ジェルヴェールは、走りながらふと口を開いた。

 いつもルイーズの傍に控えるサビーヌの、無言の眼差しに彼は気付いていた。

 普段、感情を表に出すことのないサビーヌ。だが、ことジェルヴェールに向けるその瞳だけは、何処か責めるような、時に刺すような色を帯びていた。

 それが、仕える主の秘めた想いを知ってのものだとするならば、その視線にも納得がいく。


 あの日。まだ八歳だったルイーズと初めて出会った、あの南の森で。

 彼女は幼いながらも、真っ直ぐな想いをジェルヴェールに向けていた。


 そして、時が流れ再会した十五歳の彼女は、変わらぬ気持ちを抱き続けていた。

 自らの記憶が戻り、自分がダルシアク国の第一王子・スタニスラスであったことを思い出したあの日。ジェルヴェールは、彼女の想いの強さを改めて知った。


 それから、彼の心にも変化が生まれた。

 自分に向けられる笑顔。何気ない一言に、嬉しそうに頬を綻ばせる彼女。

 それを「可愛い」と思う感情が、確かに胸の内にあった。


 けれど、ルイーズのその笑顔を見るたびに、胸の奥がちくりと痛む。

 あの微笑みは、誰に向けられているものなのか。

 ジェルヴェールとしての自分か。

 それとも、彼女が知る“スタニスラス”という名の第一王子か。


 想いは本物だとわかっていても、どこかに影を落とすその疑問が、ジェルヴェールの心を締め付けていた。


「……今は、お嬢様を助け出すことに集中致しましょう」


 サビーヌの静かな言葉に、ジェルヴェールはふと我に返った。

 顔を上げると、先を走りながらも振り返ったサビーヌと目が合う。

 ジェルヴェールは無言のまま頷いてみせると、彼女は再び前を向いて駆け出した。


 その背中を追いながら、ジェルヴェールは腰付近のポケットに意識を向ける。

 中には、青と菫色のパワーストーンが交互に連なるブレスレットがしまわれていた。

 それは、あの日。王都巡りの最中、ルイーズが露店でじっと見つめていたものだ。

 ジェルヴェールは、誰にも気づかれないようそのブレスレットを手に取り、気づけば会計を済ませていた。

 意識して買ったわけではなかった。身体が、心が、勝手に動いたのだ。

 気がつけば、それはもう彼の所有物となっていた。


 だが、彼はルイーズにそれを渡すことはなかった。

 彼女がくれたペンダントと同じように、そのブレスレットをただ毎日持ち歩いていた。


「……まだ、彼女の気持ちに応えられる自信はない。けれど、彼女を救い出すことができたら、その時こそ、これを渡そう」


 胸の内で呟く。

 彼女は受け取ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。


 このブレスレットには、幸運のストレンジを持つ職人が力を込めたという。

 願わくば、彼女を守るための小さな力となってくれれば——


 思考を振り切るように、ジェルヴェールは眼差しを鋭く変えた。

 一刻も早く、彼女を救わなければ。そのために今はただ、サビーヌの背を追い続ける。


 東棟へと足を踏み入れた途端、空気が変わった。

 まるで漆黒の幕に覆われたような、重く沈む闇が続く。西棟とは明らかに異なる、異質な気配。

 その不穏な気配を感じ取りながらも、二人は迷いなく奥へと進む。


 やがて行き止まりとなった通路の先に、それはあった。

 重厚で、どこか禍々しい気配を放つ巨大な扉。

 ただそこに立っているだけで、何かが違うと肌が警告してくる。

 ナンバーを名乗っていた者たちと同等。いや、それ以上の存在が、扉の向こうにいる。


 そして——ギィィィ……と、鈍く軋む音が静寂を裂いた。


 誰も触れていないはずのその扉が、ひとりでに開いてゆく。


「ここまで来るとは、流石に思わなかったな」


 薄闇に沈んだ部屋の中。

 月明かりが、上部の窓から斜めに差し込んでいた。


 その光に照らされていたのは、何重もの鎖に縛られ、椅子に拘束されたルイーズ。

 それと、彼女のすぐそばに立ち、頬から顎へと撫でるように手を這わせる一人の男の姿。


 月光の中、男の表情は笑みを浮かべていた。

 それは侮蔑か、余裕か、それとも——


 ジェルヴェールの目に、静かに怒りの焔が灯った。

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