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十九話 恋のピリオド

 大型連休に入って二日目の朝。ルイーズのもとに一通の書簡が届いた。差出人は親友のソレンヌ。

 そこには「どうしても相談したいことがある」とだけ記されていた。

 ルイーズはすぐに返事をしたため、翌日に会う約束を取り付けた。


 ──そして翌日。


 ふたりは王都内の喫茶店で、落ち着いた雰囲気の個室を借りて向かい合っていた。けれど、ソレンヌは注文した紅茶に手をつけようともせず、俯いたまま沈黙を保っている。


 ルイーズは無理に言葉を引き出すことはせず、目の前の紅茶をゆっくりと口元に運びながら、静かに時間を待った。


 部屋に満ちる沈黙が落ち着いた頃、ようやくソレンヌは意を決したように顔を上げた。その目には決意が宿っており、同時に深い不安の影も見え隠れしていた。


「……実は、帰宅したその夜。お父様から呼び出されて、ある重大な話をされたのです」


 静かに語られた言葉に、ルイーズは耳を傾けながらも、ソレンヌの様子に目を留めた。彼女の目の下には、注意深く見ないと分からないほどの薄いクマがあり、目元もどこか赤く腫れているように見える。


「一人で考えてみても、どうしたらいいのか分からなくて……」


 ソレンヌは眉をひそめ、唇をきゅっと結んで俯いた。その姿は、誰にも打ち明けられずにずっと悩み続けてきたことを如実に物語っていた。


 ──ああ。そういうことね。


 ルイーズは心の中でそう察すると、静かに立ち上がってソレンヌの隣に移動し、きつくスカートの生地を握る彼女の手にそっと自分の手を重ねた。

 この仕草は、ソレンヌが感情を抑えようとするときにいつも見せるもの。そしてそれは、たいていレナルドにまつわる話のときだ。


「話してちょうだい。一人で抱え込むよりも、誰かに聞いてもらった方が気持ちが少しは軽くなるものよ」


 ルイーズは片手でソレンヌの手を包み込み、もう一方の手で彼女の背をやさしく撫でる。


 本当なら、彼女が自分の言葉で語り出すのを待ちたかった。けれど、今のソレンヌは、自分の気持ちを整理して言葉にする余裕すらないほどに追い詰められている。

 ならば、まずは感情のままに吐き出してもらった方がいい。そう判断して、ルイーズはそっと言葉を促した。


「おねっ…さまぁぁ……!」


 その瞬間、ソレンヌは目に涙を浮かべたままルイーズを見上げ、堪えていたものが一気に溢れ出した。

 声をあげて泣きじゃくり、ルイーズの肩にすがるようにしながら、ソレンヌは感情の奔流に身を任せる。

 ひとしきり泣いたあと、すすり泣きを交えながらも、ようやく何があったのかを語り始めた。


 大型連休で久々に帰宅したソレンヌは、日が暮れて王城から戻った父ジョゼフに呼び出され、書斎でふたりきりになったという。そして、そこで告げられたのは、彼女の人生を大きく揺るがす話だった。


「レナルド殿下とルベン殿下の王位継承資格を認めないことが、正式に決定した。そして代わって、第四王子ドナシアン殿下に王位継承権が与えられ、継承順位第二位となられた」


 そう、父ジョゼフは重々しい口調で告げたのだという。

 公表の時期についてはまだ未定だというが、そんな重大な事実をソレンヌが打ち明けたのは、よほど堪えきれなかったからに違いない。


 普通であれば、こうした情報を漏らすなど到底許されることではない。ルイーズは黙って話を聞いていた。

 ソレンヌが自分を信頼し、誰にも言えない想いを託してくれたことが、ひしひしと伝わってきたからだ。

 そして何より、ソレンヌの様子から感じ取れる苦悩の理由は、継承資格の剥奪という事実そのものではない。もっと個人的で、もっと深い感情がそこにはあるのだと、ルイーズは確信していた。


「レナルド様とルベン殿下は……卒業後、王宮の離れに蟄居されるそうなのです」


 ソレンヌの言葉に、ルイーズは眉をひそめた。話の中に、どうしても引っかかる点が二つある。


 一つは、レナルドとルベンをパストゥール家、すなわち彼らの母方の領地に送るわけでもなく、新たな領地を与えて臣下として治めさせるわけでもないこと。

 継承権を認められない以上、彼らの母レリアの動向には注意を払う必要があるのは当然だが、それを理由に二人を王宮内で保護──いや、実質的には軟禁するという決定には強い違和感を覚えた。


 「蟄居」とは、名目上の保護ではあっても、実質的には行動を制限する処置だ。表立って称号を剥奪されるわけでも、王室離脱を命じられるわけでもないだけまだ穏当ではあるが、果たしてレナルドとルベンがそれを受け入れるだろうか。

 今の彼らであれば、形式的な公務を与えられてもやり遂げられるとは思えない。むしろ反発し、王室離脱すら言い出しかねない。


 ──陛下は、一体彼らをどうするつもりなのでしょう?


 もう一つ気になるのは、ドナシアンが「継承権第二位」となっている点なのだが……


「わたくし、分からないのですっ!」


 突然、ソレンヌの震える声がルイーズの思考を断ち切った。


「わたくし……レナルド様に、身分があろうとなかろうと関係なく、そのお人柄を好きになったのです」


 その言葉は、堪えていた想いを吐き出すように、途切れがちに紡がれた。


「レナルド様が王位を継がれるのなら、隣に立っても恥ずかしくないようにと、わたくしなりに努力して参りました。けれど、王位を継がれなくても、ただ隣にいられるだけでわたくしは幸せだったのです。たとえ王族でなく、身分がなくなったとしても……生涯を共にしたいと思えるほど、レナルド様を慕っておりました」


 その想いを、ルイーズはよく知っていた。

 長い歳月をかけて、ただ一途にレナルドを想い続けてきたソレンヌの姿を、ルイーズも、そしてエドも、ずっと見守ってきたのだから。


「わたくしから望んだ婚約です。レナルド様にとっては、政略結婚に過ぎなかったのかもしれません。それでも『ソレンヌがいてくれるから頑張れる』と、あの方がそう仰ってくださったとき、わたくしは心に誓ったのです。この方を生涯支えていこうと」


 ソレンヌの身体がかすかに震え出す。堪えていた感情が、涙となって双眸から溢れ落ちた。


「けれど……お父様は、レナルド様との婚約を白紙に戻すと仰っているのです」


 胸元を押さえ、搾り出すように続ける声には、苦悩と混乱が滲んでいた。


「わたくし……ずっと、ずっとレナルド様をお慕いしてきました。でも、今はもう、自分の気持ちすら分からなくなってしまったのですっ……!」


 ソレンヌの顔は涙に濡れ、心の叫びが露わになる。


「……レナルド様には今、想いを寄せている女性がいます」


 ──ラシェル。


 ソレンヌを最も苦しめているのは、彼女の存在に他ならない。

 もしラシェルが現れなければ、ソレンヌはこれまで通り、レナルドと共に在り続けたに違いない。


 ルイーズは彼女の言葉に、胸の奥で苦く切ない思いを抱いていた。

 レナルドとルベンの境遇はルイーズもソレンヌもよく知っている。

 彼らは陛下とも実母とも異なる髪色を持ち、生まれたときから「本当に王の子なのか」と噂されていた。真実は分からない。ただ、その影響で実母レリアからさえ愛情を注がれることはなかった。

 親の愛を知らずに育った彼らは、自然と心に空洞を抱えたまま成長した。そして、その隙間に入り込んだのがラシェルだった。

 けれど、それでも納得がいかなかった。


 ──なぜ、レナルドはソレンヌでは駄目だったのか。


 彼女はレナルドのすべてを知っていた。孤独も、傷も、不安も、そして重責に押し潰されそうになっていた心の内も。


 スタニスラスの死が公になったあの日から、次期国王としての期待が一気にレナルドに向けられた。出生に疑いのある彼を、世間も実母も、今度は持ち上げて利用しようとした。


 スタニスラスは完璧な王子だった。正妃の子で、生まれからして申し分なく、何事にも秀で、国の未来を担うと誰もが信じて疑わなかった存在。

 そんな兄の遺影の中に、いつもレナルドは閉じ込められていた。

 どれだけ努力しても、どれだけ人望を集めても、世間は「スタニスラスだったら」と彼を比べ、縛り付けた。


 ソレンヌは誰よりもレナルドの近くで、その苦しみを共に背負う覚悟を、まだ幼い少女の頃から決めていたのだ。

 励まし、支え、盾となり、筆頭公爵家の令嬢としての立場をもって、レナルドを守ってきた。黒い噂にさらされても、冷たい視線に晒されても、ソレンヌは諦めなかった。

 だからこそ、彼女自身も努力を重ねた。ソレンヌ自身が優秀な令嬢として周囲に認めさせることで、彼女がいれば安泰だと周囲の見る目も変わりつつあった。

 にもかかわらず、レナルドはぽっと出のヒロインであるラシェルに心を奪われてしまった。


「レナルド様はもう……わたくしを見てくださることは無いのでしょうか」


 その問いかけに、ルイーズの胸が締めつけられるように痛んだ。

 ソレンヌの悲しみが、まるで自分のことのように迫ってきて、苦しささえ感じる。

 かつてルイーズも、スタニスラスの隣に立つに相応しい令嬢となるために必死に努力してきた。

 あの方と肩を並べても恥じぬよう、己を磨き続けた。

 それが報われないというのは、心が削られるほどに辛く、悲しいことなのだ。


「ソレンヌは、今でもレナルド殿下をお慕いしているの?」


 静かに問うルイーズに、ソレンヌはわずかに首を振る。


「……分かりませんわ。わたくし……日に日に、ラシェル嬢に対して、よろしくない感情を抱くようになってしまって……。こんな醜くて汚い気持ち、知りたくなかったのに……」


 ソレンヌは自分の顔を両手で覆った。

 まるでその醜さを、誰の目からも隠すように。


 ルイーズはその姿を見つめながら、胸の奥から込み上げてくる感情を噛みしめた。

 わかっている。彼女のその痛みも、葛藤も、どうしようもない憎しみの気持ちさえも。

 なぜならルイーズもまた、同じ気持ちを経験したからだ。

 乙女ゲームの夢の中で、あの時のルイーズは、今のソレンヌとまったく同じ感情を抱いていた。


「レナルド様は、わたくしの、こんなに汚くて、狭い心を見抜いておられたのでしょうね。あきれられて当然ですわ。でも、それでも……それでも彼女がいなければと思ってしまうのです」


 ソレンヌの声は震え、言葉の端に未練が滲んだ。


「今では、自分のこの想いが、本当に恋なのか、それとも未練や執着なのか……もう、心の中がぐちゃぐちゃで、自分でも分からないのです……」


 それが、彼女の本音だった。

 ラシェルに想い人を奪われたソレンヌは、初めは必死に抗おうとした。

 取り戻したい一心で、努力もしたし、あきらめなかった。

 けれど、レナルドはもうソレンヌの方を見なかった。


「お父様に、婚約を解消すると言われたとき……嫌だと思う自分がいました。けれど、心を向けてくれないレナルド様に、わたくしの人生を捧げてでも添い遂げる覚悟があるかと問われれば、何も答えられなかったのです……」


 深い悲しみと、自責の念に揺れるソレンヌに、ルイーズはそっと寄り添った。


「……ソレンヌ。貴女が、ずっとレナルド殿下を想い続け、支えてきたこと誰もが知っているわ。今すぐに前を向けなんて、わたくしは言わない。けれど、少しずつでいい。貴女には、過去に縛られることなく、幸せになってほしい。心から、そう願っているの」


 ソレンヌには、自分と同じように過去に囚われてほしくなかった。


 お互いを傷つけようと思って傷つけ合っているわけではない、ルイーズとジェルヴェール。

 けれど、レナルドは違う。彼は、自らの意思でソレンヌの心を切り裂いた。

 恋のかたちは違っても、「傷つく」という痛みだけは同じなのだ。


 ルイーズは、自分からいばらの道を選んだ。

 一歩踏み出せば棘が突き刺さり、すぐに血まみれになるような道。

 それでも、進んでいる。終わりがあると信じて。

 どれほど傷ついても、いつか癒えると信じて。

 たとえ、それが叶わぬ願いだったとしても。


 けれど、ソレンヌにはそんな道を進ませたくなかった。


 彼女には、過去ではなく未来を向いてほしい。

 痛みではなく、希望を選び取ってほしい。

 その想いが、ルイーズの言葉に滲んでいた。


「ソレンヌの心が汚いだなんて、狭いだなんて……わたくしは、そうは思わないわ」


 ルイーズは、優しく語りかけるように微笑んだ。


「貴女は、心の底からレナルド殿下を愛していた。それは誰にも否定できない、誇るべき想いよ。だから、わたくしの前ではもう我慢しなくていいの。好きなだけ泣いていいのよ」

「お姉さま……っ、ふっ、うぅぅ……わたくしはっ……レナルド様のことを……本当に……本当に愛して……ましたのに……っ、うわあああああんっ……!」


 ソレンヌは、抑えていた感情をついに堰を切ったように吐き出し、声を上げて泣き崩れた。

 ルイーズはそっと膝を折り、ハンカチを取り出してソレンヌの頬に伝う涙をぬぐう。

 その手のぬくもりに、ソレンヌは安心したように顔をくしゃくしゃに歪め、子どものように泣き叫んだ。


 ──これ以上、ソレンヌを悲しませないでほしい。


 ルイーズの心は、ただその一念でいっぱいだった。


 ソレンヌを自由にしてあげたい。

 もうレナルドに縛られなくていい。

 この涙の理由が彼である限り、彼女はきっと何度でも傷ついてしまう。だからこそソレンヌにはこれ以上辛い恋愛に囚われてほしくなかった。


 どれだけ寄り添っても、励ましても、当たり前のように隣にソレンヌがいると信じて疑わず、不遜に振る舞いながら、別の女性に心を奪われた。そんな不誠実な人に、ソレンヌは渡せない。


 もちろん、レナルドとの間には楽しかった思い出もあったはずだ。

 幸せだった瞬間も、心をときめかせた出来事も、きっとあっただろう。

 だが、ここ最近のソレンヌは、毎日のように辛そうな表情をしていた。

 五歳の頃から、九年間もひたむきに思い続けてきた恋。

 けれど、苦しみしか生まない恋ならば、終わりを迎えてもいいのではないかと、ルイーズは思った。


 そして、ソレンヌもまた、それに気づいた。

 どれだけ愛していたとしても、今のそれは恋ではなく、ただの執着だったのだと──

 自分自身の手で、執着に終止符を打つ。

 後日、ソレンヌは静かに婚約解消の申し出を受け入れた。


 ルイーズと語り合った日から、彼女は二日ほど泣き続けたという。

 ずっと押し殺してきた感情を、ようやく吐き出すことができたからだ。

 涙が枯れ、心にわずかな余白ができたとき、ようやく彼女は前を向けるようになった。


 連休五日目。

 再会したソレンヌは、どこか吹っ切れたような、清々しい笑顔を浮かべていた。

 その姿に、ルイーズは静かに微笑んだ。

 新しい一歩を踏み出したソレンヌの未来が、どうか幸せで満ちたものでありますように──と、心から祈りながら。


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