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十五話 助け

「ありがとうございます」

「助かったよ、エルヴィラ嬢」

「いえ、お役に立てたのなら光栄ですわ。では、わたくしはこれで失礼いたします」

「ああ。セレスタンの手当てが済んだら、私たちもすぐに戻るよ」


 マラルメ国からの留学生であるエルヴィラは、模擬戦で負傷したセレスタンとその付き添いのロランを保健室近くの廊下まで送り届けたところだった。


 エルヴィラのストレンジは【次元移行】。

 空間そのものを歪ませ、現実を折りたたむようにして、別の場所へと瞬時に移動する能力である。

 まるで空間そのものを折り曲げるように、彼女の手元で現実がねじれ、周囲の空間が異様な歪みを帯びる。その領域では通常の物理法則が崩れ、障害物や距離を無視して移動が可能となる。

 この歪みは能力者であるエルヴィラ本人にしか視認できず、他人から見れば瞬間移動したようにしか映らない。

 ロランとセレスタンを残し、エルヴィラは再び次元移行の能力で、演習場へと消えていった。


「ソレンヌッ!」


 ふたりが廊下を歩いていると、鋭く響く怒声が遠くから届いた。

 声の主に聞き覚えがあるロランとセレスタンは、顔を見合わせた直後。


 ──いやッ。そんな、恐ろしい顔で。恐ろしい声で、わたくしの名前を呼ばないで。


 ソレンヌはその声に心が凍りついた。

 レナルドの怒気を帯びた叫びが、皮膚の奥を突き刺すように響く。

 今までは、ルイーズやエドがそばにいてくれたから、かろうじて心を保っていられた。

 けれど、もう限界だった。


 嫉妬が渦巻く。

 どれだけ自分が努力してレナルドの傍に立ち続けてきたか。なのに、わずか数ヶ月で彼を奪ったラシェルが憎くて堪らない。

 黒い泥のような感情が、じわじわと胸の内に広がっていく。身体中を巡って、重く、苦しい。

 日に日にその感覚は強まり、それに比例してラシェルへの憎しみも膨らんでいく。ソレンヌ自身、その感情の醜さを自覚していた。


 ──こんな醜い気持ち、誰かに知られたら……


 その想像だけで恐怖が押し寄せる。


「そんなことになれば、お姉様にもエドにも嫌われてしまいますわ……」


 それだけは、嫌だった。

 これ以上、大切な人に背を向けられるのは、もう耐えられない。

 これ以上感情を揺さぶられたくなくて、レナルドとラシェルの姿が見えない場所へ一刻も早く逃げ出したかった。


「……っ!」


 振り返ることもせず、レナルドの制止を振り切って、出口へと駆け出す。


「お前たち、ソレンヌを捕まえろっ!!」

「はいっ!」


 レナルドの命令に、数人の男子生徒が一斉にソレンヌを追った。中には「ストレンジ」を発動させようとする者もいた。能力が使われる前に、ソレンヌは保健室の外へと飛び出した。

 その瞬間、心に秘めていた涙が溢れ出し、堰を切ったように頬を伝った。

 胸の奥が軋み、息がうまく吸えない。

 それでも、ここで捕まれば、再び愛しい婚約者レナルドから心を抉るような罵声が浴びせられる。そう思うと、足を止めることなどできなかった。


「ソレンヌ嬢?」

「殿下、お下がりください!……って、ソレンヌ嬢!?」


 廊下に出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、ロランとセレスタンだった。

 突然の出現に、ふたりは驚愕の表情を浮かべて立ち尽くしている。

 ソレンヌもまた、なぜ二人がここにいるのかと一瞬疑問に思ったが、その思考は背後から響く声に掻き消された。


「ソレンヌを逃がすなっ!!」


 背後から迫る追手たちの声。

 恐怖に突き動かされ、ソレンヌは反射的に振り返った。


 空中を浮遊して迫る者。縄を自在に操り、縄で足を絡め取ろうとする者。手足を伸ばし、触れようとする者。

 能力を駆使して伸びてくる手が、すぐそこに迫っていた。


 ──捕まる……ッ!


 咄嗟に、ソレンヌは身を屈め、目をぎゅっと閉じた。


「セレスタン」

「御意!」


 ロランの呼びかけに応じるように、セレスタンの短く鋭い返答が響いた。


「がっ!」

「ぐあっ!」


 背後から男子生徒たちの呻き声が立て続けに上がる。いつまで経っても追手の攻撃は届かなかった。


 ──え?


 不思議に思ったソレンヌは、ぎゅっと瞑っていた瞼をそろりと開ける。


「ソレンヌ嬢、怪我はないかい?」


 穏やかな声と共に、片膝をついたロランが目の前にいた。蹲る彼女へと、気遣うように手を差し伸べている。

 まるでロマンス小説の一幕のような光景に、ソレンヌの胸が高鳴った。その姿はまるで王子様のようで、思わず見蕩れてしまった。

 彼は実際に隣国の王太子であるというのに、その姿は夢に見る理想像そのものだった。冷静さと優雅さを併せ持ち、誰の目にも眩しく映るであろう、絵に描いたような王子様。


「は、はい。ありがとうございます……」


 戸惑いながらも、ソレンヌはその手を取った。温かな手のひらに包まれながら、そっと立ち上がる。

 ふと後ろを振り返ると、男子生徒たちの前に半透明の結界が張られており、まるで見えない壁のように彼らの動きを阻んでいた。


「セレスタンは、結界を展開するストレンジの使い手なんだ」


 ロランが簡潔に説明する。


「ソレンヌ嬢、よろしければこれを」


 そう言って、ロランはポケットから淡い水色のハンカチを取り出し、そっと差し出した。

 涙はすでに引いていたものの、頬にはまだ涙の跡がうっすらと残っている。


 ──恥ずかしい……。


 感情が昂り、制御を失った自分を思い出すと、頬がみるみる熱を帯びる。

 だが、王太子自ら差し出してくれたものを拒むなど、出来るはずもなかった。


「飛んだ醜態をお見せしてしまい、誠に申し訳ございません。それと、助けていただき、本当にありがとうございます」


 ソレンヌは、心からの感謝と深い謝意を込めて頭を下げた。


「お前たち、どうした」


 外の異変に気づいたレナルドとフェルナンが、保健室から姿を現した。

 その声に、ソレンヌの肩がびくりと震える。


「ロラン王子!?」


 レナルドとロランが対面した瞬間、場の空気が一瞬にして張り詰めた。

 緊張の糸がぴんと張る中、ロランは無言でソレンヌの前へと進み出て、彼女を庇うようにして立ちふさがる。

 それはまるで、先ほどレナルドがラシェルの前に立った姿をなぞるようだった。

 ロランの隣では、セレスタンが鋭い視線で男子生徒たちを睨みつけている。

 ただならぬ気配に、誰も軽々しく口を開くことができなかった。


「これはどういう状況なのか、説明していただけますか?レナルド王子」


 ロランの声は穏やかだったが、その奥に秘められた威圧感は否応なしに場を制した。

 レナルドは言葉に詰まり、わずかに目を伏せる。


「……これは、我が国の問題でして。ロラン王子には関係のないことです」

「なるほど。一人の女生徒を複数の男子生徒が怖い形相で追い回す。それがダルシアク国における“問題解決”の流儀ですか?」


 ロランの口調は静かなままだが、言葉の一つひとつに鋭い棘がある。

 レナルドは顔を強張らせながらも、すぐには反論できなかった。


「いや、それは……」

「この件は見過ごせるものではありません。しかし、我々が事情を把握していない状態で軽々しく口出しするのも本意ではない。だからこそ確認したいのです。彼女を複数人で取り押さえる必要が本当にあったのか、詳しくお聞かせ願えるだろうか」


 語尾に向かってわずかに声を強めながら、ロランは貫禄を漂わせた穏やかな笑みを浮かべた。

 その笑みは、表面上は柔らかくとも、決して拒絶を許さぬ強制力を孕んでいる。

 重苦しい沈黙が流れ、場の空気はさらに緊迫する。

 最終的に、話し合いは保健室の中で行うことに決まり、一同は扉の中へと足を運ぶことになった。

 その直前、ロランはソレンヌの肩にそっと視線を落とし、柔らかく声をかけた。


「ソレンヌ嬢、大丈夫かい?」


 心から案じるような声音だった。


「すまない。本来なら、彼らから君を引き離すべきなのかもしれない。でも、どちらか一方の話だけを聞くのは良くないと思ってね。安心して、何かあれば私とセレスタンが必ず君を守る。だから一緒に来てくれるかな?」


 その言葉に、ソレンヌの胸がじんと熱くなる。

 なんて誠実な人だろうか。

 端麗な彼の眉宇が申し訳なさげに歪む。ソレンヌは、自分を助けるためにロランがこの話し合いを持ち掛けたのだと理解していた。

 この場を対話で収めようとするその姿勢に、彼の人柄のすべてが現れていた。


 ──放っておくことだって、きっとできたはずだ。


 けれどロランも、そしてセレスタンも、自分が悪意ある人間ではないと信じてくれている。

 その信頼が、何よりも心強かった。


「ありがとうございます。わたくしは、大丈夫です」


 本当は怖い。彼らとまた向き合うのは、恐ろしくてたまらない。

 だけど、これほどの思いをかけてもらって、自分だけが背を向けるなんてできない。

 覚悟を決めたようにソレンヌは息を吸い込み、背筋を伸ばした。

 こうして、ソレンヌ、ロラン、セレスタンの三人は、レナルドの後に続いて保健室の扉の向こうへと足を踏み入れた。


「えっ、ロラン様にセレスタン様!?どうしてこちらに!?もしかして、私のお見舞いに来てくれたんですかあ?」


 保健室に入った途端、ベッドの上に腰掛けていたラシェルが目を輝かせながら声を上げた。


 ──彼女はまた、なんという無礼を。


 ソレンヌは思わず謝罪しようとするも、ロランが静かに手をかざし、それを制した。


「君は確か、セレスタンやソレンヌ嬢と同じクラスの子だったね。私たちが来たのは、別件なんだ」


 ロランは人好きのする柔らかな笑顔をラシェルに向けた。


「あれぇ?まだ自己紹介してませんでしたっけ? 私、ラシェルって言います!ラシェルって呼んでくださいねっ!」


 甘ったるい猫撫で声の自己紹介。しかしその前に彼女がぽつりと呟いた言葉を、ソレンヌは聞き逃さなかった。


「ルイーズが邪魔ばかりして、ロラン様たちに近づけなかったのよね……」


 その忌々しげな声に、思わず息を呑む。だが他の誰も気づいていないようだった。


「君は……私たちが留学初日に伝えたことを、もう忘れてしまったのかい?」

「え?初日……?」


 今まで誰もが見惚れるような優しい笑みを浮かべていたロランの顔から、笑みが消える。代わりに、冷たい静けさが表情に宿った。

 学園では、権力を振りかざす行為は禁じられている。だがそれは、決して目上の者に対して無礼な振る舞いを許すものではない。

 あくまで、互いに敬意を払い、節度ある言動を求めるためのルールである。

 国際問題に発展しかねない空気に、ソレンヌは内心あたふたとする。だが隣のセレスタンは終始冷静で、今は見守るのが最善と判断しているようだった。


「レナルド王子、やはり場所を変えましょう。ここでは、休んでいる彼女の邪魔になってしまいますから」

「っ……わかりました。別の部屋をご用意いたします」


 ロランの提案に、レナルドはすぐに同意し、立ち上がる。


「待ってください!!」


 突然、ラシェルが声を上げた。


「ラシェル?」

「よく分かりませんけど、まだここにいてください!私とお話ししませんか?私、保健室で一人で寂しくて……」


 うるんだ瞳でロランを見つめるラシェル。その姿に、男子生徒たちが思わず気を引かれていく。


「ならば、話し合いはレナルド王子だけでも問題ありません。残りの生徒たちは、彼女の傍に残って差し上げたらいい」

「え!? いや、その……っ」


 予想外の反応に、ラシェルは動揺する。先ほどまで溢れそうだった涙はすでに消え、取り繕う暇もなかった。


「私、ロラン様たちとお話ししたいんです!」

「愚か過ぎるのも考えものだな。君は、自分の振る舞いがどれだけ周囲に迷惑をかけているか、考えたことはあるのか?」


 ロランが一つ、深く息をついた。静かながらも、その言葉には重みがあった。室内が沈黙に包まれる。


「え、あの……ロラン様?なんか怒ってます?」


 ラシェルはようやくロランの異変に気づいたのか、小首をかしげて尋ねた。だが、まだその意味は理解していない様子だった。


「えーと、迷惑って……ソレンヌ様が、言ったんですか?」


 鳩が豆鉄砲を喰らった顔とはこの事だろうか。彼女の斜め上を行く発言に驚かずにはいられない。

 ロランの隣で、セレスタンが「うわぁ……」と、心底呆れたような表情でラシェルを見つめている。ソレンヌだけが驚いたわけではなかったようだ。


「なぜそこで、ソレンヌ嬢の名前が出てくるのか分からないが。君は一度、自分の行いをよく振り返るべきだな」

「じゃあ、ルイーズ様ですか!?ロラン様、だめですっ、彼女たちの言うことを信じちゃ!ソレンヌ様もルイーズ様も私の事が嫌いだから酷いことしか言わないんです!」


 そう叫ぶや否や、ラシェルは泣き出した。


 ──本人を目の前にして嘘を付けるとはもう何と言ったら良いのでしょうか……。


 そんな人に、あの愛しい婚約者を奪われたのかと思うと、ソレンヌはどうしようもない不快感に胸がざわつく。

 だが、ラシェルの愛らしい容姿が、男子たちの庇護欲をくすぐるのだろう。数人が彼女の周囲に集まり、慌てて宥めていた。


「話にならないな。不敬罪で、今ここで身柄を抑えてもいいのだが──」

「ロラン王子!ま、待ってください!! 非礼は、私が詫びます!ラシェルは……下町の出身で、貴族社会の常識を、まだよく知らないのです!」


 ロランの呟きに反応したレナルドが、即座にラシェルを庇って頭を下げた。

 その姿に、ソレンヌの胸は再び軋む。けれど、前のように息が詰まるほどではなかった。ほんの少しだけ、何かが変わってきている。


 少し前までなら、レナルドが他の女性の為に頭を下げる姿など見れなかっただろう。今も、胸の痛みは消えないけれど──。


「……よろしいでしょう。今回も見逃します。ですが、次はありません。以後、彼女と私たちが接触しないよう、注意されることをお勧めします」


 ロランは、あくまで穏やかに、だがきっぱりと告げた。その懐の深さに、ソレンヌは改めて感嘆の念を抱いた。


 そのとき、保健室の扉が数度ノックされた。


「失礼します。先生はいらっしゃいますか?」


 姿を現したのは、一人の女生徒だった。

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