十四話 愛しいはずなのに
ソレンヌは今日も生徒会のメンバーと共に雑務に追われていた。
その時、突如として部屋の中央に光が渦を巻き、ゲートが開かれた。
和やかに業務を進めていた面々は一瞬にして凍りつき、緊張が走った。
大胆にも生徒会室にゲートを開くことができる人物はただ一人しかいない。レナルドの側近であり、ストレンジ騎士団団長の息子であるフェルナンだ。
「ソレンヌはいるか!」
ゲートの中から現れたのは、レナルドその人だった。目を吊り上げ、苛立ちを隠そうともしない声でソレンヌを呼ぶ。
かつて、レナルドに名前を呼ばれるたび、ソレンヌの胸は喜びで膨らみ、自然と笑みがこぼれたものだ。しかし最近、彼の声が響くたびに感じるのは恐怖だけだった。
レナルドがソレンヌを呼ぶ時、決まってその声は怒りに震えている。そしてその原因は、ソレンヌにも分かっていた。
すべてが変わったのは、ラシェルがストレンジ学園に編入してきた時からだ。
レナルドやルベンをはじめとする複数の男子生徒がラシェルの虜となり、学園には不穏な空気が漂い始めていた。
「レナルド様、そんな大声を出さなくても聞こえておりますわ。皆が驚いてしまいます。わたくしはここにおります」
ソレンヌは穏やかに、しかし慎重に言葉を選んで応じた。レナルドの表情を見れば、彼が怒っている理由が手に取るように分かる。
──また、彼女のことだろう。
ソレンヌの脳裏に、渡り廊下での出来事がよぎった。レナルドがこのような怖い顔をする時、それは必ずラシェルに関係している。
恐怖で震える身体を抑え込むように、ソレンヌは腹の前で手をぎゅっと握り締め、レナルドの前に進み出た。
「貴様、また飽きもせずラシェルをいじめたな」
「何のことか、身に覚えはございませんわ」
「嘘をつくな!ラシェルがソレンヌとルイーズの名前を出して震えているんだぞ!」
──またですか。
どうやら、ラシェルには虚言癖があるようだ。彼女は事実と異なることを言い、レナルドがソレンヌを叱る原因を作る。
ほとんどの生徒はラシェルの言うことを信じていないが、それでも信じている者も少なからずいる。
レナルドの背後ではまだゲートが開かれたまま、別の場所と繋がっている。おそらくその先は、ラシェルが運ばれた保健室だろうとソレンヌは推測した。
このまま生徒会室で押し問答を続ければ、他のメンバーの迷惑になると考え、ソレンヌは決断した。
「レナルド様、よろしければ場所を変えてお話し致しましょう」
「話し合いなど無駄だ。貴様が悪いに決まっている。だが、まあいい。元々ラシェルの前に連れて行くつもりだったから、こちらとしても手間が省ける」
「ついて来い」と短く言い放つと、レナルドは踵を返してゲートの中へ戻っていった。
ソレンヌは眉を寄せ、表情を引き締めた。一度深呼吸をして気持ちを整え、彼の後に続くべくゲートへと歩を進めた。
その途中、生徒会の仲間たちが心配そうな声でソレンヌの名前を呼んだ。彼女は振り返り、安心させるように柔らかく微笑んでみせると、そのままゲートの中へと消えた。
ゲートを抜けると、そこは保健室だった。
ベッドの上に上半身を起こし、座っているラシェルの隣には、レナルドが寄り添っている。
ラシェルを取り囲むように、彼女の取り巻きの男子生徒たちも集まっていた。
ソレンヌはその光景を黙って見つめ、胸を抑えて立ち尽くしていた。胸が引き裂かれるように痛んでいたが、それを必死に抑えていた。
「ラシェル、大丈夫か?ソレンヌを謝らせるために連れて来たぞ。」
「へ?え?ソレンヌ様、連れて来ちゃったんですか!?」
「ああ、今ルベンもルイーズを呼びに行っている。」
レナルドの言葉に、ラシェルは一瞬戸惑ったような表情を見せた。
ソレンヌはその一連のやり取りを無言で眺めていた。胸の痛みは増すばかりだが、表情には出さないよう努めた。
「さあ、ソレンヌ。ラシェルに謝罪をするんだ」
レナルドの声が低く響き、命令口調でソレンヌを突き放す。
「先程も申しましたがわたくしには何のことか身に覚えがございませんわ」
ソレンヌは毅然とした態度で応じ、声を震わせないよう気を張った。
「まだ言うかっ!では、何故ラシェルは保健室に運ばれたんだ!」
レナルドの語気が荒々しくなり、彼はソレンヌを鋭く睨みつけた。
ソレンヌは沈黙を続け、ラシェルに目を向けると、彼女は大袈裟に肩をびくりと上げた。その瞬間、レナルドが素早くラシェルを隠すように、ソレンヌの前に立ちはだかった。
レナルドの怒りが滲む表情に、ソレンヌは一瞬たじろいだ。
「ラシェルを睨み付けるとはなんて怖い女だ」
取り巻きの男子生徒の一人が囁き、その声はソレンヌの耳に冷たく届いた。
彼女はただラシェルを見ただけだ。睨んだつもりなど毛頭ない。それを説明しようにも、彼らは耳を貸すことはない。ソレンヌを悪者と決めつけることは、これまでのやり取りで嫌というほど分かっていた。
弁明しても無駄だ。彼らの耳は、彼女の声を受け入れる気など最初からない。
ソレンヌは唇を噛み、胸に渦巻く悔しさと無力感を押し殺した。
「ラシェル嬢はひまわりランチャーの誤射に驚いて、腰を抜かしてしまわれたのです。ですから、ルイーズ様の侍女が彼女を保健室までお運びしたのですわ」
ラシェルが保健室に運ばれた理由を滔々と説明すると、やっと彼らはソレンヌ達に非がないと理解したのか、気まずそうな表情を浮かべた。
だが、そのわずかな空気の緩みに水を差すように、ラシェルが再び声を上げた。
「そ、そうですけど、でも!ソレンヌ様もルイーズ様も私を見て笑っていました。あれは嘲笑です!!きっと、ひまわりの種を飛ばした男子生徒ともグルだったんだわっ!」
突如放たれた虚言に、ソレンヌは言葉を失った。
笑ってなどいない。ラシェルの姿を見て嗤った記憶もなければ、男子生徒との共謀など論外だ。何より、ひまわりランチャーが誤って発射されたことは、ラシェル自身もその場で見ていたはずだ。分かっているはずではないのか。
何を思い、何を企んで、こんな真似をするのか。ソレンヌにはその意図すら掴めなかった。
「なんと!ソレンヌ!貴様はどこまで性根が腐っているんだっ!」
レナルドの鋭い視線が、怒りを孕んでソレンヌへと向けられる。何年もそばにいて、ラシェルよりもずっと長い時間を共に過ごしてきたというのに、裏切られたような心地がした。
胸が締めつけられる。心臓が痛い。喉が詰まり、息がうまくできない。
──なぜ……なぜ、レナルド様は彼女の言葉にしか耳を傾けてくれないのですか。
彼が悪戯好きで、心に闇を抱えていることは知っていた。彼が少し歪な形で人の心を掴もうとしていることも、うすうす感じてはいた。
スタニスラスがいなくなってから、レナルドに向けられる期待は日に日に重くなっていった。民の目、教師たちの視線、王太子としての責任。彼に注がれるものは、重圧ばかりだった。
だからこそ、ソレンヌは隣に立ちたかった。
盾となり、支えとなり、どんな時も彼の味方でいようと誓った。彼の孤独を少しでも和らげる存在でありたかった。
レナルドが、昔一度だけ言ってくれた。
「ありがとう。ソレンヌがいてくれるから、頑張れる」
あの言葉が、何よりも嬉しかった。その一言で、世界が満たされた。たった一度のその言葉だけで、どれほどの日々を乗り越えてこられたか。
レナルドの心根が優しいことを、誰よりもソレンヌは知っていた。周囲が陰口を叩いても、彼が努力することで認められ、ルベンへの風当たりを和らげようとしていることも理解していた。
自分のことよりも他人を思いやり、大切にする彼だからこそ惹かれた。そんな彼だから大好きになった。
けれども、彼は変わってしまった。
──もう、わたくしには大好きな貴方の笑顔を向けてくれる事は無いのですか。
最後にその笑顔を向けられたのは、いつだったか。思い出そうとしても、指の間からすり抜けていくように曖昧だ。ただ確かなのは、ラシェルと急速に距離を縮め始めた頃から、あの笑顔がラシェルに向けられるようになったこと。
──なぜ、わたくしでは駄目なのですか。
レナルドの心には、今やラシェルがいる。それが、どうしようもなく辛かった。
どれだけの時を共に過ごしてきたかなど、もう意味を成さないのだと、思い知らされた。
──貴方に釣り合うように、貴方を支えられるように励んで来たけれど、レナルド様の瞳はもうわたくしに向くことは無いのでしょうか。
ソレンヌの胸に渦巻く想いは、言葉にならないまま、ただ溢れてゆく。どうして。なぜ。無数の問いが頭を巡り、心を締めつける。
苦しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうだ。
涙が、視界を滲ませる。嗚咽をこらえても、震える身体は止まらない。
「ふん!貴様が震えて見せても、演技であることなどお見通しだ。そんな下劣な手段、此処にいる者たちには通用せんぞっ!」
冷たい嘲りの言葉が、鋭く胸を貫いた。
もう限界だった。俯いたまま、下唇をきつく噛み締め、なんとか耐えようとする。それでも、張り詰めた心は今にも崩れそうで、この場に居続けることが恐ろしくて堪らなかった。
気づけば、足が勝手に出口へと向かっていた。理性よりも、心が叫んでいた。
「ソレンヌ!!逃げるなっ!」
追いかけてくるのは、かつて誰よりも信じ、誰よりも慕っていた声。
愛しいはずのその声が、今はただ恐ろしかった。
怖い。怖い。怖い。どうして、こんなに怖いの──。
──助けて、お姉様。エド。もう無理なの。消えてしまいたい。誰か、誰か助けて──!
ソレンヌは心の中で、必死にルイーズとエドの名を呼んだ。助けを乞うように、何度も、何度も。
レナルドの怒声を背に受けながら、ソレンヌは振り返ることもせず、保健室を飛び出した。




