十話 事故
留学生が来てから一週間が経った。
徐々に生徒たちも留学生の存在に慣れてきた様子だが、相変わらずその影響は大きい。
「ああ、今日もデジレ殿下が美しいわ」
「ロマーヌ殿下は本日もなんてお可愛らしいことだ」
「はあ…俺もムニエ嬢に叱られたい」
「ロラン殿下のあの大人びていて落ち着いた雰囲気…最高だわ」
留学生が集まって廊下を歩くだけで、すでにこんな反応が飛び交っている。
生徒たちがヒソヒソと話しているつもりでも、その声は丸聞こえだ。
「それにしても、本当に申し訳ないですわ。特にジェルヴェール様とセレスタン様、ピエール様には何と感謝と謝罪を申せば宜しいのか……」
ルイーズは少し後方を歩きながら、各国の従者たちに目を向けた。彼女の心配そうな声に、デジレが軽く笑いながら返す。
「ははっ、まあピエールたちもいい腕試しになるし、ルイーズ嬢が気にすることじゃないよ。そうだろ?」
デジレは楽しげにそう言いながら、ピエール達を振り返る。ピエールたちは一斉に頷き、その言葉を受け入れた様子だ。
ルイーズたちは今、演習場に向かっている。
何でも、レオポルドとエドが各国のお付きの者たちと模擬戦をしたいと願い出たらしい。
ジェルヴェール、セレスタン、ピエールに手合わせをお願いしたところ、彼らは快く承諾してくれた。その他の面々も観戦したいと言い出し、演習場へと絶賛大移動中だ。
ソレンヌだけは生徒会の仕事があるため、ルイーズたちとは別行動で生徒会室に向かっている。
「あたし、模擬戦とか見るの初めてだからワクワクする!ね、ドナシアンっ!」
ロマーヌが興奮気味に、跳ねるようにして話を振ると、ドナシアンはにこやかに返答した。
「そうだね」
ドナシアンの返事に、ロマーヌがさらに嬉しそうに顔を輝かせる。
普段、ドナシアンはルイーズやソレンヌ、エドの後をついて回り、甘えん坊の弟のような存在だった。しかし、今ではその反応が以前とは少し違って見える。
ドナシアンが落ち着いて答えたその姿に、ふとルイーズは感慨深くなっていた。思えば、ドナシアンももう十歳ではない。初めて会った頃から三年が経ち、少しずつ大人っぽくなったのだと感じる。
ロマーヌが天真爛漫で好奇心旺盛な性格だからこそ、余計にドナシアンが大人びて見えるのだろう。
ルイーズは思わずドナシアンの成長に驚き、しばし彼を見つめていた。彼の成長を感じると同時に、少し寂しい気持ちも湧いてきた。
「きゃあああっ!」
「危ないっっ!」
生徒たちの悲鳴が響き、ルイーズは思わず顔を向けた。
普段、勉強や生活をする校舎とは別に、いくつかの別棟が並んでいる。それぞれの別棟は等間隔で配置され、校舎と繋がる吹き抜け廊下が屋根付きで渡されている。
ルイーズたちは演習場や体育館がある、最も大きな別棟に向かう吹き抜け廊下を歩いていた。
隣の吹き抜け廊下には、たくさんの資料を抱えたソレンヌが歩いているのが見えた。
資料室や図書館がある資料棟から校舎に向かって歩いているところだ。
その時、ソレンヌに向かって何かが飛んできた。しかし、ソレンヌは大量の資料を落とさないように必死にバランスを取りながら歩いており、飛来物にも、先程の生徒たちの叫び声にも気付いていない様子だ。
ルイーズのストレンジではその物体を止めることができない。水球で打ち落とすことはできるが、あまりに速すぎて間に合わない。
「ソレンヌ!後ろに避けて!」
「ジェルヴェール!」
ルイーズが叫ぶのとロランが指示を出すのはほぼ同時だった。
ソレンヌはルイーズの声に反応し、即座に反射的に身体を後ろに仰け反らせた。その直後。
ボンッ──
ソレンヌは間一髪で飛来物を避けた。
その物体は、ひまわりの種だった。そして、無数のひまわりの種は突如として火がつき、ソレンヌの前を通り過ぎる前に燃え尽きた。
この火をつけたのは、炎のストレンジを持つロランだ。
「「きゃあっ」」
ソレンヌは、ほぼ反射的に身体を反らせたため、荷物を持っていたこともあって後ろにバランスを崩しそうになった。
倒れそうになったその瞬間、黒い影がソレンヌの身体を支え、倒れるのを防いだ。
その黒い影の正体は、ジェルヴェールだった。
ロランが指示を出すと、ジェルヴェールは即座に動き、倒れ込むソレンヌの背中をしっかり支えて、彼女が倒れないようにと身体を支えた。
そして、ソレンヌの手から離れようとした資料が、地面に落ちることなくそのまま空中に留まった。
資料から氷の柱が生え、資料が投げ出されるのを防いでいた。
ジェルヴェールのストレンジが、資料を安全に保持したのだ。
「お怪我はございませんか?」
「は、はい。ありがとうございます。」
ジェルヴェールはソレンヌを気遣いながら立たせ、氷のストレンジを解いて手元から離れた資料を見事に受け止めた。
ルイーズはソレンヌに怪我がないことを確認し、ほっと胸をなでおろす。ソレンヌとジェルヴェールの元へ向かおうとした時だった。
「いったぁい!」
そんな声が突然聞こえ、顔を向けるとソレンヌと同じ吹き抜け廊下で座り込んでいる人物が目に入った。
そういえば、ソレンヌが叫び声を上げた時、もう一つ別の声が重なっていたのだ。
その人物はラシェルだった。どうやら、ラシェルは校舎側から資料棟に向かおうとしていたところだったようだ。
──というか、ラシェル嬢の方には飛来物が飛んでいなかったのだが。
思わず呆れたような視線を送ると、すぐに謝罪の声が響いてきた。
「あ、あの。お怪我はありませんか? 植物を運んでいた際に、ひまわりランチャーが誤射してしまいまして。誠に申し訳ございませんっ!」
吹き抜け廊下の向こう、外から一人の男子生徒が駆け寄り、ソレンヌとジェルヴェールに深々と頭を下げた。
その男子生徒が抱えているのは「ひまわりランチャー」と呼ばれる武器。
ひまわりランチャーとは、植物を武器に変えるストレンジを持つ生徒が育てたひまわりで、まるでロケットランチャーのように、ひまわりの種が乱発される仕組みになっている。
男子生徒はそのひまわりランチャーの誤射が原因で、先ほどの騒動を引き起こしてしまったのだ。
「お気になさらないでください。わたくしは大丈夫ですので」
平謝りする男子生徒に安心させるように微笑んで許すソレンヌ。聖女だろうか。その場にいた誰もが思った。
──優しい上に、非常に出来た人格だ。私の自慢の妹だ。血は繋がっていないけれど。
「ソレンヌ、大丈夫?」
取り急ぎ、ラシェルのことは気にせず、ルイーズたちはソレンヌの元へ駆け寄った。
「はい、お姉様の声が聞こえたので、間一髪でしたわ…──あ。」
ルイーズの姿を確認したソレンヌは、安堵の表情を浮かべて、柔らかな笑顔で言った。
元々少し抜けたところのあるソレンヌだが、今回はその抜けた部分が、安堵と共に気を抜いた瞬間に出てしまったようだ。
いつもは冷静でしっかりしている彼女が、今回は思わぬミスをしてしまったことに気づき、顔を青ざめさせた。
「よかったわ、ソレンヌに怪我がなくて。ソレンヌはわたくしにとって、可愛い妹のような存在だもの。ジェルヴェール様、ロラン殿下、ソレンヌを助けていただき、ありがとうございました」
顔を青くしたソレンヌの柔らかな髪を優しく撫で、無事を確認した後、ルイーズはロランとジェルヴェールに向き直り、深く頭を下げて感謝の言葉を述べた。
「わたくしからも、助けていただき誠にありがとうございます」
ソレンヌもルイーズの後に続き、頭を下げた。
「二人とも顔を上げて。ソレンヌ嬢を助けるのに間に合って良かったよ」
「いいなぁ、俺も炎のストレンジだったらかっこよく助けられたのに」
「デジレ、ちょっと黙っていようか」
ルイーズとソレンヌには柔らかい笑顔を向けていたロランだが、横からデジレが口を挟むと、彼の方に顔を向け、笑顔を保ちながらも、どこか冷たさを感じさせる言葉を投げかけた。
「それと、私達の前だからと無理に繕わなくていいよ。君達の学園生活を窮屈にしている身で言える立場ではないけれど、できるだけ普段通りに過ごしてくれると嬉しいな。呼び方だって、いつも君達の間で呼び合っている呼び方で構わないよ」
「そ、そんなっ。窮屈だなんて思っておりませんわ。むしろ、毎日が新鮮で楽しいですもの」
ロランの発言に、ソレンヌが慌てて答えた。
確かに以前のソレンヌは、時間があればレナルドのことを考え、悩んでいた。
留学生たちが来てからというもの、少しずつ留学生たちと仲を深めているのを実感している。ソレンヌが笑顔を見せることが増えたのも、そのおかげだろう。
特に、同じ学年であり、同じように恋する乙女であるエルヴィラとの友情は大きい。二人はお互い、婚約者を一途に慕っているという点で深い共感を覚え、親しくなったのだろう。
「そうか。それなら良かった。だが、呼び方は本来、先ほど呼んでいたように、いつも呼んでいるのだろう?」
「はい…」
「ならば、気にせずその呼び方をしてくれて構わない。ルイーズ嬢もそれで構わないだろう?」
ロランの問いに、ソレンヌは少し恥ずかしそうに頬を染めながら頷いた。
普段はお堅い部分もあるソレンヌにとって、少し気まずかったようだ。おそらく、はしたない場面を見せてしまったのではないかと心配しているのだろう。
「そうですわね。皆様がお許しくださるのなら、わたくしもいつも通りに呼んで欲しいですわ。お姉様と呼ぶソレンヌが、それはもう可愛くて可愛くて、わたくしの毎日の癒しですの」
「ル、ルイーズ様っ」
ルイーズの言葉に、ソレンヌは慌てて声を上げ、さらに頬を赤くした。少しいじめすぎたかもしれないと思ったが、やはりお姉様と呼んでくれるのはとても嬉しいし、彼らが許可してくれるのであれば、いつも通りにしたいと思った。
「えー、何かずるーい。あたしももっと皆と仲良くなりたーい!そうだ!あたしもロマーヌ殿下じゃなくてロマーヌって呼んでよ!」
ルイーズとソレンヌのやり取りを見ていたロマーヌが挙手をし、会話に加わる。
「そうだな。俺達も殿下じゃなくて名前で呼んでくれ。ロランもドナシアンもいいだろ?」
「ああ。問題ない」
「はい、僕も構いません」
ロマーヌに続いて、デジレも同意し、ロランとドナシアンも頷いた。
「では、お言葉に甘えてロマーヌ様、デジレ様、ロラン様、ドナシアン様と今後は呼ばせて頂きますね」
「いたぁぁい、骨が折れたかもしれないいい。一人で立てないよおお」
和やかな空気が、一人の女生徒の声で一変した。
──というか、まだ居たんですかアナタ。
叫び声に、ようやく皆も気づき、校舎側に目を向けた。そこにいたのは、あのラシェルだ。
彼女はあからさまに尻もちをついて、瞳に涙を浮かべている。普段は、取り巻きと一緒にいるはずのレナルドやルベンが見当たらないことに、皆は不審を覚えた。
彼女に関わるとろくなことがない、とルイーズとソレンヌは思っていた。だからこそ、早々に彼女には退場してもらいたかった。
「サビーヌ」
「お嬢様、こちらに」
ルイーズの呼びかけに、どこからともなく現れたサビーヌに、留学生たちは驚きの表情を見せたが、気にせずに言葉を続けた。
「彼女を保健室まで運んであげて」
「承知致しました。ラシェル嬢、失礼致します」
サビーヌは一言断りを入れると、素早くラシェルを姫抱きにし、無駄のない動きで体勢を整えた。
彼女の歩幅は大きく、優雅ながらも力強い足取りで、周囲を寄せ付けない存在感を放ちながら、保健室へと向かっていった。
「ちょ、降ろしてよっ!私に触らないで!あんたはお呼びじゃないのよおおぉぉ!」
遠ざかるラシェルが叫びながら、無駄に抵抗していたが、正直、気にしない方がいいだろう。
サビーヌが抱き上げた瞬間からじたばた暴れていたので、「骨が折れた」とは到底信じられない。誰もがその様子に呆れていた。
「それじゃあ、皆さん、演習場へ向かいましょうか」
ラシェルの騒ぎが収まり、ルイーズは晴れやかな笑顔で振り返り、気を取り直した。
「ドナシアン様、恐れ入りますが、わたくしはソレンヌの手伝いをしてから演習場に向かってもよろしいでしょうか?」
ルイーズは申し出ると、ドナシアンは了承してくれた。
「分かった。じゃあ、僕たちは先に向かっているよ」
ドナシアンの返事に、ルイーズは感謝の意を込めて一礼し、彼が先に行くことを確認した。
大量の資料を一人で持つのは大変だと判断したルイーズは、ソレンヌを目的地まで送ることに決めた。
「ならば、ルイーズ嬢とソレンヌ嬢には護衛としてジェルヴェールをつけよう」
ロランが提案すると、すぐにソレンヌが反応した。
「しかし──」
その言葉を遮るようにロランが続ける。
「私にはセレスタンがついているから大丈夫だよ」
「はい、ジェルヴェール様には遠く及びませんが、俺も騎士を目指す者として、殿下の身は死んでもお守りします!」
ソレンヌと同学年のセレスタンは、マラルメ国の騎士団長の嫡男だ。
真摯な言葉を発するセレスタンは背筋をぴんと伸ばし、ロランに頼まれたことが嬉しいのか、目を輝かせ、誇らしげな表情を浮かべている。その意気込みに、周囲もどこか和やかな空気に包まれた。
学園内には外部からの侵入を防ぐ結界が張られているため、危険な事態が起こる可能性は低いが、セレスタンの意気込みと覚悟は充分に伝わってきた。
「彼がいればロラン殿下は大丈夫ですよ。それに、荷物持ちも必要でしょうから、私で宜しければお供させてください」
ジェルヴェールが静かに、しかし確かな声で答えると、ソレンヌが取り零した資料をきちんと抱えたまま、ルイーズとソレンヌに向き直った。
「では、お言葉に甘えさせて頂きますわ」
「ジェルヴェール様、よろしくお願いします」
ロランの申し出に甘んじて受け入れ、ジェルヴェールに同伴を頼む。
三人は演習場に向かう面々と別れ、生徒会室へと向かった。
「お姉様、ジェルヴェール様、本当に助かりましたわ。ありがとうございます」
ソレンヌを生徒会室まで送り届けた後、ルイーズとジェルヴェールも皆が待つ演習場へ向かうことに決めた。
まさか、こんな形でジェルヴェールと二人きりになれるとは思っていなかった。緊張で、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。
「あの、ジル様。先程は本当にソレンヌを助けて頂いた上に、資料まで運んで下さり、ありがとうございました」
吹き抜けの廊下を歩きながら、ルイーズは風に揺れる髪を押さえつつ、ジェルヴェールに向かって感謝の言葉を述べた。
彼は少し目を細め、微笑んだ。
ジェルヴェールは普段、表情を崩さず冷徹な雰囲気を纏っている。ルイーズはその微笑みに驚き、思わず目を見開いた。
「気にするな」
その一言と共に、彼は本当に柔らかな笑みを浮かべた。
ゲームでも彼は滅多に笑わないキャラで、好感度がかなり上がらないと笑顔は見られない。だが、ここでジェルヴェールがルイーズに向けて微笑んでくれたことが、心の奥に強く響いた。
その瞬間、胸の奥が跳ねるように熱くなる。どうしようもなく、好きが溢れる──
最後の逢瀬から六年もの時間が過ぎ、再び彼の前に立てるなんて夢のようだ。
焦がれて焦がれて、待ち焦がれた想い人が目の前にいる。
「ジル様…」
ルイーズは足を止め、ジェルヴェールを見つめた。彼もまた、足を止めて彼女に視線を合わせる。
あの頃、互いに想いを抱いていたあの日々を思い出し、思わず言葉が喉元までこみ上げる。
しかし、そんな想いを口にしようとしたその時──。
ルイーズの後方、斜め上から、ものすごいスピードで石が降ってきた。ジェルヴェールの目端にその飛来物が映る。
彼は迷うことなく、ルイーズの腰を抱きしめ、飛来物を避けた。
「わっ!」
飛んでくる物には気づいていた。避けた場合、ジェルヴェールに当たってしまうと思い、反応が遅れてしまった。
結果として、ジェルヴェールに腰を力強く引かれ、彼の胸板に密着してしまう。
普段、服に隠れていても分かるその胸板の厚さ。程よく鍛え抜かれた肉体が、服の上からでも伝わってくる。
顔を上げると、鋭い目つきで飛んで来た石の方向を睨みつけているジェルヴェールが目に入った。
「無事か?」
彼の声は冷静でありながら、心配と焦りを含んだものだった。
ルイーズは、心臓が高鳴るのを感じながら、息を呑んで答える。
「は、はい。ありがとうございます」
飛んで来た石は、ジェルヴェールが瞬時に作り出した氷の盾に阻まれていた。
ジェルヴェールは一瞬だけルイーズを見下ろし、無事を確認する。その目には、ほんの少しの安堵が感じられた。
「誰だ。こんなことをするのは」
ジェルヴェールの声が低く響くと、周囲の空気が一気に緊張感を帯びる。
彼は強くルイーズを抱き寄せながら、周囲に向かって声を張った。
その声からは、彼がどれほど怒りを感じているのか、そしてルイーズの安全を何よりも優先していることが伝わってきた。
その声に応じて現れたのは、ダルシアク国の第三王子、ルベンだった────




