九話 収束
声を掛けられた方に目を向けると、二人の男性がルイーズ達の元へと向かって来た。
一人はダークブラウンの長髪で、前髪をセンター分けにしている。その凛々しい眉に宿る強い意志と、燃えるような赤い瞳が印象的だ。彼の落ち着いた雰囲気は、年齢よりも大人びて見せ、実年齢以上に成熟した男性である。
もう一人は、先程の男性の数歩後ろから付き従い、彼とは正反対の雰囲気を醸し出している。全体的に寒色を思わせるような、どこか冷徹さを帯びた印象を与えていた。
「ロラン殿下にジェルヴェール様!?」
驚きの声が漏れ、思わず名前を呼ぶと、ロランは優しく微笑んだ。
その笑みは人懐っこく、どこか安心感を与える。
「如何してこちらへ?」
「皆様とご一緒ではなかったのですか?」
彼らの後ろに目を向けると、テラスへの出入口を見遣ったが、他の面々が店内に入ってきた様子はなかった。
ルイーズとソレンヌが目を丸くして問いかけると、ロランは少しバツが悪そうな表情を浮かべた。
「実は、教室に忘れ物をしてしまってね。まだ学園の構造をよく把握していなくて、迷子になっては困るだろう?だから、同じクラスのルイーズ嬢に案内してもらおうと探していたんだ」
「まあ、そうでしたのね。ご時間を取らせてしまった上に、ロラン殿下自ら出向かせてしまい、誠に申し訳ございませんわ」
他国の王太子であるロラン自ら探させてしまったことに、思わず謝罪の言葉が出る。だが、その直後、ふと考え込んだ。
本当に彼の言う通りなのだろうか。
いくら、同じクラスだから案内を頼みたいという理由であっても、ドナシアンがこんな揉めている場所に他国からの賓客を送り出すはずがないと、ルイーズは感じていた。
彼が言う理由には、少しばかり無理があるように思えてならなかった。
「もしかして、ロラン様とジル様ですか!?」
真意を探ろうと顔を上げると、背後から喜色を顕にした声が響き、ルイーズとソレンヌは驚愕の表情を浮かべた。
言葉を発したのは、もちろんラシェルであり、そのあまりにも不敬な態度に、ルイーズやソレンヌだけでなく、周囲にいた人々も驚き、ざわめき始める。
──というか、ラシェル嬢、貴女、今ジェルヴェール様のことを「ジル様」と愛称で呼んだな。許すまじ。
ルイーズでさえ、愛称で呼べるようになるまでには一年近くの時間がかかった。ましてや、再会してからはまだ一度も愛称で名前を呼んでいない。
自分よりも先にジェルヴェールの愛称を口にするとは、ラシェルはよほど自分を怒らせたかったのだろう。
その思いが、ルイーズの胸を激しくかき立てた。
「何故君が私と私の従者の名を知っているのですか?」
ロランの言葉は柔らかいが、目はまったく笑っていない。それどころか、問いかける前に一瞬細められたその目は、冷徹そのものであった。
同学年であれば、またクラスメイトであれば話は別だ。しかし、互いに自己紹介もせず、初対面で勝手に他人の名前を呼ぶ者がいるだろうか。
ラシェルたちは同学年ですらない。リボンやネクタイの色を見れば、それはすぐにわかることだ。
リボンやネクタイは学年ごとに色が決まっており、小等部、中等部、高等部で制服のデザインも異なる。
「え?あ、えーっと、ルイーズ嬢とソレンヌ嬢がそう呼んでいたので」
──うわぁ。何というか、もう、聞いていられない。
確かに、ルイーズとソレンヌは彼らの名前を呼んだ。しかし、それにしても自己紹介もしていない者が、どうして簡単に他人の名前を呼ぶことができるのか。
彼らが学園生活に慣れ、学年に関係なく留学生の名前が知れ渡るのは確かだろう。しかし、ストレンジ学園に来校したのは今日が初めてだ。そのため、留学生の名前は同学年の者たちにしかまだ公表されていない。
ラシェルの非常識な態度に、ルイーズとソレンヌは思わず頭を抱えたくなるほどだった。
おまけに、ルイーズとソレンヌが言葉を発したことで名前がわかったとしても、ロランには「殿下」という敬称がついている。彼が王族であることは、誰が見ても明らかだ。
下位の者が王族であるロランに許可なく話しかけることなど出来ないし、ましてやロランの従者の名前がジェルヴェールであることもわかるはずだ。
初対面であるラシェルが、愛称でジェルヴェールを呼ぶのは、どう考えても不自然で、あり得ないことだった。
「ロラン殿下、ジェルヴェール様、我が学園の生徒が御無礼を致しまして誠に申し訳ございません」
「ロラン殿下、ジェルヴェール様にはご不快な思いをさせてしまい、わたくし共の落ち度でございますわ」
ルイーズとソレンヌは即座に頭を下げ、深々と謝罪の言葉を口にした。
本当に、ラシェルはろくなことをしてくれない。
本来であれば、この場にいる同じ王族であるレナルドとルベンが真っ先に謝罪すべきだったが、能力低下が進んだ花畑たちには、そこまでの配慮が及んでいないのだろう。
「ルイーズ嬢、ソレンヌ嬢、顔を上げて。君たちが謝ることじゃ──」
「無礼とか不快って、私のことですか!?どうしてルイーズ嬢とソレンヌ嬢は私をいじめるんですか!!」
お願いだから、誰かこの脳内花畑を連れ出してくれないだろうか。
ルイーズはそう思わずにはいられなかった。
どれだけ不敬を重ねれば気が済むのか。
隣国の王太子であるロランの発言を遮るとは、もうラシェルには不敬罪で自殺願望があるとしか思えない。
ルイーズとソレンヌは、心の中でそう思いながらも、その光景をただ黙って見守るしかなかった。
「君、さっきからうるさいよ。それに、君と私たちは初対面だ。ルイーズ嬢とソレンヌ嬢が名前を呼んだからといって、君にまで私たちの名前を呼ぶ許可を出した覚えはない。ああ、それと、勝手に私の従者である”ジェルヴェール”を愛称で呼ばないでくれないか。非常に不愉快だ」
ロランの声が、いつもより一段と低く、冷徹に響いた。
普段は温和で優しい印象のロランだが、その瞳には怒りが宿っていた。
その怒りの波動を、ルイーズとソレンヌは肌で感じ、無意識のうちに身を縮めた。
「ひ、酷いっ!」
ラシェルはロランの言葉に傷ついたように目を見開き、涙ぐんだ顔を手で覆った。
その様子に、周囲からは微かなざわめきが漏れた。
観衆は思わずラシェルの態度に疑念を抱き、どちらが「酷い」のか、明らかに感じ取っているようだった。
「ロラン王子っ。そのような言い方、流石に失礼ではありませんか」
ラシェルの肩を抱きながら、ルベンが鋭くロランを睨みつけて抗議の声を上げた。
その目は冷ややかで、決して譲歩しようとしない姿勢を見せていた。
ただし、この場において失礼なのは、誰がどう見てもダルシアク国側に非があることは明白だった。
──本当に、この人は悪知恵だけはよく働くのに、常識に関しては何一つ理解していないらしい。
「やめろ、ルベン。ロラン王子、ジェルヴェール殿、大変失礼致しました」
動きが止まっていたレナルドがようやく反応し、珍しくルベンを制止した。
冷静にロランとジェルヴェールに向かって謝罪の言葉を口にする。
最近、思考が鈍ってきたのかと心配していたが、どうやら他国の王族に対する礼儀はまだ忘れていなかったらしい。
「レナルド!だけど、ラシェルが侮辱されたんだぞ!」
「先に不敬を犯したのはこちらだ。我が国の者が誠に申し訳ございません」
ルベンの言葉を無視し、レナルドはロランとジェルヴェールに向かって頭を下げる。
それを冷ややかな目で見つめるロランとジェルヴェール。
「ルイーズ嬢とソレンヌ嬢が即座に謝罪をして下さいましたし、彼女達には私達もお世話になっているので、ルイーズ嬢とソレンヌ嬢に免じて今回は水に流しましょう」
ロランの発言に驚きつつ彼を見遣ると、彼はルイーズとソレンヌを見て柔らかく微笑んだ。
レナルドとルベン、そしてラシェル、さらにその取り巻き達に対しても、ルイーズとソレンヌのおかげで国際問題に発展することなく事が収束することができたのだと、ロランはストレートに伝えた。
本来であれば、ルイーズやソレンヌがどれだけ謝罪しようと、マラルメ国の王太子である彼には何の罪滅ぼしにもならないはずだ。
それどころか、ダルシアク国国王から謝罪があってしかるべきところを不問とし、ロランはルイーズとソレンヌを話に持ち出すことで、二人の失態とならないよう守ったのだ。
「では、私達は失礼します。ルイーズ嬢、ソレンヌ嬢、参りましょう。ジェルヴェール、ルイーズ嬢のリードを頼むよ」
ロランはレナルドとルベンに軽く挨拶をして、ルイーズとソレンヌに向き直った。
ロランは近くにいたソレンヌへと手を差し出し、ジェルヴェールへと命じる。
「ルイーズ嬢、御手を」
ロランの命令を受け、ジェルヴェールの手が目の前に差し出された。
ジェルヴェールの口から約八年ぶりにルイーズの名前が紡がれる。
声変わりを終えた彼の低い声に、名前を呼ばれるだけで頬に熱が集まるのが分かった。
「ありがとうございます…」
ジェルヴェールと再会してからというもの、隙あらば彼を凝視して観察していたルイーズだったが、今は彼を見ることができなかった。
俯きがちに差し出されたジェルヴェールの掌に、ルイーズは手を重ねた。
子供の頃から少しひんやりとした冷たさは変わっていないようだ。
ルイーズの手を包み込むほどに大きくなった彼の手のひらは、触れてみると表皮が硬く、どれだけの訓練をしてきたのかが伝わってきた。
「さあ、ソレンヌ嬢もお手をどうぞ」
その声にルイーズは顔を上げた。
言葉を発する前に、ロランがルイーズたちを見て微笑んだような気がしたが、気のせいだろうか。
ロランとソレンヌの方を見ると、ソレンヌが戸惑っているのが見て取れた。
ソレンヌはレナルドが婚約者であるため、異性からこのように紳士なリードを受けたことがなく、免疫がなく戸惑ってしまったのだろう。
ソレンヌは一度、ルイーズたちの方を見た。
ルイーズがジェルヴェールの手に手を重ねているのを見て、ソレンヌもおずおずとロランの掌に手を添えた。
「他の面々も痺れを切らしている頃だろうから、そろそろ戻ろうか」
ロランは遠慮がちに置かれたソレンヌの手を優しく握り返し、ソレンヌの頬がほんのりと色づく。その瞬間、ロランの顔には優しい笑みが浮かび、ソレンヌの手を引いて静かに歩き始めた。
ソレンヌは一瞬、戸惑いを見せたが、ロランの手の温かさに安心し、自然と彼の歩調に合わせる。
まだ何か言い募ろうとしていたラシェルとルベンは、レナルドが一応止めてはくれたようだ。
ルイーズ達四人は、静かに歩きながらテラス席へと向かった。
「あ、あの。ロラン殿下、忘れ物は宜しいのですか?」
「ああ、それは嘘だ。教室には戻らなくて大丈夫だよ」
彼等がルイーズとソレンヌを探しに来た理由を思い出してロランに尋ねたが、彼はしれっとあの発言は嘘だと明かした。
その言葉にルイーズとソレンヌが驚いていると、ロランは疑問に答えるように口を開いた。
「実は、喫茶店に入ってからのルイーズ嬢の様子が気になったジェルヴェールが、頻りに店内の方を気にしているのを見てね。ドナシアン王子達には、ジェルヴェールと大事な話があるから外に出ると言って席を立ってきたんだよ」
「殿下っ!」
ジェルヴェールが慌てた様子でロランの発言を止めようとするが、彼は楽しそうに笑うだけで続けた。
「ジェルヴェールは周りがよく見える優秀な人材だ。
それにしても、まだ二回しか顔を合わせていないルイーズ嬢の異変にも気付くとは驚いたよ」
ルイーズはジェルヴェールを見上げると、彼と一瞬目が合ったがすぐに目を逸らされた。
髪の隙間から見えるジェルヴェールの耳が僅かに赤くなっているのに気づき、思わず微笑んだ。
「ありがとうございます……ジル様」
ロランとジェルヴェールに向けて感謝を伝えるも、最後は隣にいる彼にしか聞こえない声で名前を呼んだ。
再会してからずっと呼びたかった愛しい彼の愛称。
嬉しさとジェルヴェールだけが自分の異変に気づいてくれた面映ゆさに、頬が緩むのが止められなかった。
空いた手で弛む口元を隠しながら、握られている手に僅かに力が込められたのが分かった。
「あまり笑うなよ…」
若干不貞腐れたように、ルイーズだけに聞こえる声で紡がれた言葉。
六年前、逢瀬を繰り返した日々を思い出し、懐かしさと決まり悪そうなジェルヴェールの態度に愛おしさが込み上げ、ふふっと小さな笑い声を漏らした。




