七話 留学生
六月に入る前、無事にルベンの婚約者候補から外れることができたとの報せがマルセルから届き、それと前後して王家の印が押された正式な書類と、陛下直筆の手紙がルイーズ宛に届けられた。
憂い事がひとつ消え、心も幾分軽くなったところで、本日、ついに例の案件が実行に移される日がやってきた。
今、ルイーズはソレンヌと共に、王城の奥に位置する豪奢な扉の前に立っている。
「……あの、そろそろ扉をお開けしてもよろしいでしょうか」
扉の前に控えていた警備兵がドアハンドルに手をかけ、何度も深呼吸を繰り返している二人に静かに問いかけた。
「は、はい」
「よ、よろしく……お願いしますわ」
二人とも、緊張のあまり声がやや裏返ってしまった。
ソレンヌは純粋に“他国の王族”と顔を合わせることに緊張しているのだろう。
一方ルイーズは、確かに王族と対面する緊張もあるにはあるが、それよりも専ら、あの扉の向こうに“彼”──ジェルヴェールがいるかもしれない、という思いで胸がいっぱいだった。
「ルイーズ・カプレ様、ソレンヌ・ペルシエ様、ご到着です」
警備兵が場内に向けて声を上げる。すぐに中から、落ち着いた声で入室の許可が下された。
「どうぞ」
重厚な扉が静かに開かれる。
その先にはすでに複数の人物が在室しており、ルイーズとソレンヌが足を踏み入れると、すぐに扉は後方で閉ざされた。
二人は最上級の礼をもってカーテシーを取り、慎ましく名乗る。
「お初にお目にかかります。わたくし、ルイーズ・カプレと申します」
「ソレンヌ・ペルシエと申します。以後、お見知り置きを」
頭を下げたその一瞬、ルイーズは部屋の中をそっと確認した。
視線の端に捉えたのは、すでに着席している外務卿ヤニクとドナシアンの姿。
どうやら彼らは、先にマラルメ国およびオルディアナ国からの留学生たちを接待していたようだった。
留学生一行は昨日、ダルシアク国へ正式に入国し、既に陛下との謁見を終えている。
そして今日は、彼らの学園生活を支える案内役──ルイーズとソレンヌを紹介するための“顔合わせ”の日。
舞台として選ばれたのは、留学生たちの滞在地でもある学園近隣に建造された迎賓用の王城であった。
「ルイーズ嬢、ソレンヌ嬢──顔を上げて、此方へ」
ドナシアンの落ち着いた声に促され、二人は視線を上げ、彼らのもとへと歩み寄る。
室内には長いテーブルが設えられ、席の上には国際交流にふさわしい多種多様な茶菓子が美しく並んでいた。
上座にはマラルメ国の王子、そしてオルディアナ国からの留学生たち五名が座し、その対面に外務卿とドナシアンが控えている。
侍従たちは壁際に控えていたが、各国王子のすぐ背後には、それぞれの殿下に付き従う側近と思しき若者たちが三人、控えめながらも鋭い眼差しで立っていた。
三人はいずれも学生の身でありながら、殿下の身辺を護る役目を担っている者たちであるらしく、整った姿の中に、ただならぬ気配と鍛え抜かれた気品を漂わせていた。
「ルイーズ嬢、ソレンヌ嬢、此方の席へお掛けなさい」
外務卿の指示に従い、二人は下座にあたる末席へと静かに腰を下ろす。
「さて、これで全員そろいましたな」
外務卿が一同に向けて声を発すると、それに被せるように、ひときわ明るい声が響いた。
「へえ、それがストレンジ学園の制服?可愛い~! 私も早く着たいな~!」
元気に身を乗り出してきたのは、オルディアナ側の留学生のうちの一人と思われる少女だった。
彼女は目を輝かせながら、ルイーズとソレンヌの制服に興味津々の様子で視線を注いでくる。
なおルイーズたちは、外務卿の指示により授業後すぐ、制服姿のままここへ直行していた。
同様に、接待のため今日の授業を休んでいたドナシアンも、ストレンジ学園の制服を身に纏っている。
「ロマーヌ、そう身を乗り出すな。品がないぞ。……妹が申し訳ない。それにしても、お二人とも実にお美しい。まるで女神のようだ」
少女の隣に座っていた男性が、爽やかな笑みと共にルイーズとソレンヌに向かってウィンクを飛ばす。
「うぉっほん。本題に入ってもよろしいかな?」
外務卿が場の空気を引き締めるように咳払いを一つすると、騒いでいた男女はすぐに口をつぐんだ。
「まずは紹介いたしましょう。今後、皆様をストレンジ学園にて案内役としてお迎えする、由緒正しき公爵家のご令嬢、ルイーズ嬢とソレンヌ嬢です」
促され、ルイーズが先に席を立ち、淑やかにカーテシーをしながら口を開いた。
「改めまして、ご紹介にあずかりましたカプレ公爵家長女、ルイーズと申します。中等部第三学年を担当いたしますわ」
続いてソレンヌも丁寧に礼をし、しっかりとした声で名乗る。
「同じく、ペルシエ公爵家長女ソレンヌと申します。中等部第二学年を担当させていただきます」
「そして、僕、ドナシアンが中等部第一学年を担当いたします。よろしくお願いいたします」
ダルシアク国側の自己紹介が終わると、外務卿は席を少し正し、留学生側の紹介へと移った。
まず、華やかなカジノや娯楽で知られる国、オルディア国からの留学生──
第二王子のデジレ・パリ(3年)、第一王女のロマーヌ・パリ(1年)、そして護衛を務めるピエール・ギー(3年)。
続いて、ダルシアク国の隣国であり、精密技術と機構魔導に長けたマラルメ国からの一行──
王太子ロラン・ブランシェ(3年)、その親友でありストレンジの能力値も高い侯爵家の嫡男ヴィヴィアン・パスマール(2年)、
ヴィヴィアンの婚約者であり公爵令嬢のエルヴィラ・ムニエ(2年)、さらにロランの側近候補であり騎士を志すセレスタン・ミッサ(2年)。
そして──
六年前には頭一つ分も差のなかったあの人は、今では見上げるほどに成長していた。
服の上からでも分かるほどに程よく引き締まった体躯、肩まであった髪は短くなり、きりりとした眉と凛とした目元。
優しげだった面差しは、どこか国王陛下に似た威厳を宿す大人びた表情へと変わっていた。
銀糸のように美しく光を反射する髪、深海を思わせる澄んだ青い瞳。
全体的に寒色を纏った佇まいは、彼の持つストレンジの特性ゆえか、あるいは生まれ持った気質なのか──
どこか近寄りがたい冷たさと神秘性を感じさせる、ルイーズの想い人──ジェルヴェール・ド・レオン(3年)。
──成長されたお姿も、凛々しくて素敵だわ。
ルイーズは、気付かれぬようにそっと彼の姿を見つめ、思わずうっとりと頬を緩める。
一方のジェルヴェールも、ルイーズの姿に一瞬驚いたようだったが、今は表情を落ち着かせ、ロランの後方に立つセレスタンやピエールと並んで控えていた。
会話は次第にストレンジ学園での生活や制度についての簡単な説明へと移行していたが、ルイーズの意識は終始ジェルヴェールに釘付けだった。
──早く彼と話したい。早く彼と、行動を共にしたい……
逸る気持ちをなんとか理性で押さえつけながら、耳を傾け続けた。
事前に主要な説明は済まされていたようで、その場での説明は形式的な確認程度で終わり、短い時間で顔合わせの場はお開きとなった。
──明日からは、ジェルヴェール様と共に学園生活が始まる。
そう思っただけで、頬が自然と綻んだ。
その晩、学生寮に戻ったルイーズは、終始にやけ顔のまま過ごし、部屋を共にするサビーヌに呆れ顔で見つめられていたが……もちろん、気付かないふりをした。
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喧騒が満ちている。
授業を終えたルイーズは、中等部第三学年に留学してきた面々を校舎に隣接する喫茶店へと案内していた。
廊下に姿を現すや否や、同じ制服を着た生徒たちは一様に端へと寄り、進行方向に道を開ける。彼女たちの存在が、それほどまでに特別で、近寄りがたいものだったのだ。
「この学園の子女はレベルが高いなぁ。美人が多い上に、案内役は女神のようなご令嬢がついてくれるんだから、実に良い国だよ、ほんとに」
オルディア国の第二王子、デジレ・パリが道を譲った女生徒たちに向かって笑顔で手を振る。
彼の視線を受けた女生徒たちは、熱のこもった眼差しを向けながら、顔を赤らめては小さく悲鳴を上げていた。中には、感極まった様子でふらついている者までいる。
彼はその様子を楽しんでいるのだろう。
悪びれることなく微笑を浮かべると、今度はルイーズに視線を移し、軽やかにウインクを飛ばした。
「デジレ殿下にそう言っていただけるなんて、わたくしたちダルシアク国民にとっても光栄なことですわ」
ルイーズは笑顔で応じつつも、内心では彼の軽薄な態度に若干の呆れを感じていた。とはいえ、こうした応対も貴族の社交においては常である。
軽口の一つや二つ、上品に受け流すのが嗜みというものだ。
デジレは根元に茶の色を残す金髪を肩口まで伸ばし、長い前髪を遊ばせた柔らかな髪型をしていた。色素の薄い青い瞳と、常に笑みを浮かべた甘いマスク。その目尻の緩やかな角度と、伏し目がちな目元が、どこか人を惑わせる雰囲気を纏っている。加えてフレンドリーな性格が相まって、彼に「遊ばれてもいい」と願う令嬢が後を絶たないのも頷ける話だ。
──しかも、彼のストレンジは【フェロモン】だというのだから、質が悪い。
ルイーズはため息をつきたくなるのを抑えつつ、後ろから聞こえてきた冷静な声に耳を傾けた。
「デジレ、軽率な発言はよせと何度も言っているだろう」
そう窘めたのは、マラルメ国の王太子ロラン・ブランシェだった。デジレと同じく三年生で、以前デジレがマラルメに留学していた際からの旧知の仲でもある。口調こそ淡々としていたが、声の端には明らかな呆れが滲んでいた。
「はいはい、分かってるって。ロランは相変わらずお堅いなぁ」
口では素直に返しているものの、その軽快な口調には反省の色は見えない。
「なぁ、ピエールもそう思うだろう?」
話題をそらすように、今度は背後に控える人物へと声をかける。デジレとその妹ロマーヌの護衛を務めるピエール・ギー。整った顔立ちと誠実そうな眼差しを持つ彼は、主人の軽口に対し、困ったように眉を下げながらも、冷静に返答した。
「殿下、私に話を振らないでください」
静かな拒絶を受け、デジレは肩を竦めながら不満げな表情を浮かべた。
「お言葉ですが、デジレ殿下。そこがロラン殿下の良いところではございませんか」
ロランのすぐ背後に控えていたジェルヴェールが、柔らかい口調でそう口を挟む。
「ジェルヴェールはロランに甘すぎるよ。まあ、君の言いたいことも分かるけどさ。ロランの誠実なところ、嫌いじゃないし」
デジレは肩をすくめつつ、どこか不満げに呟いた。それでも、ジェルヴェールの言葉を真正面から否定することはなく、むしろ内心では頷いているのだろうという様子だった。
彼ら四人のやり取りを見ていれば、自然とその関係性が透けて見えてくる。どうやら、形式上の付き合いというより、気を許し合った「友人」としての距離感がそこにはあった。
ルイーズは、その微笑ましい空気を黙って見守りながら、心の奥に小さな寂しさが灯るのを感じていた。
彼らはこの学園に来る前から、きっと何度も言葉を交わし、時間を重ねてきたのだろう。
たった二日目の知り合いにすぎない自分が、その輪の中に入れるはずもない。そう自分に言い聞かせながら、喫茶店へと続く廊下を静かに歩を進めた。
「ジェルヴェール、お前まで私のことを“堅い”と思っていたとは、初耳だな」
ロランがふと振り返り、胡乱げな目でジェルヴェールを見る。
「ロラン殿下、そういう意味ではっ。言葉の綾でございます、っ」
珍しく慌てふためくジェルヴェール。その姿に、ロランは小さく笑って言った。
「冗談だ」
それを聞いて、ルイーズの胸にほのかな笑みが咲いた。ジェルヴェールのそんな表情を見るのは初めてで、慌てた様子が可愛い。心の中でそっと拍手を送る。
──ロラン殿下、グッジョブです!
そう密かに賞賛しつつ、ルイーズは案内役に徹する。彼らの仲睦まじいやり取りに水を差さぬよう、静かに先導することにした。
本当は、もっとジェルヴェールの声を聴いていたかったけれど、やがて喫茶店へと辿り着く。ルイーズは扉を押し開けた。
店内には落ち着いた空気が流れており、奥にはガーデンテラスへと続く扉が見える。花の香りがほのかに漂い、心を和ませてくれる。
喫茶店には個室もあるが、何より特筆すべきはこのガーデンテラスだ。色とりどりの花々が咲き誇り、その奥には見事な花庭園が広がっている。春の陽光を浴びた花々が、風に揺れている様は、まるで絵画のようであった。
「テラス席の方で待ち合わせをしておりますので、ご案内いたしますわ」
そう一礼しながらルイーズは振り返る。
実は、第一学年担当のドナシアン、そして第二学年担当のソレンヌと事前に打ち合わせを済ませており、放課後の待ち合わせはこのテラス席と決めていた。
ここならば全員が揃うまでの間も、お茶を楽しみながら花庭園を眺め、穏やかな時間を過ごすことができる。
何気ない会話と、穏やかな時間。
それが、彼らにとっても、そして自分たちにとっても、大切なひとときになるといい。そんな想いでルイーズ、ソレンヌ、ドナシアンの三人で選んだ場所だ。
「何でそんな意地悪を言うんですか!!」
ガーデンテラスへ向かおうと店内を抜けると、奥から女性の声が聞こえた。
明らかに怒りを含んだ叫び声で、その声は喫茶店内に一瞬で響き渡る。
「──…様、店内にいらっしゃる方々や、お店の方々にご迷惑を──」
怒声の後、冷静で落ち着いた声が続いた。
その声は、ルイーズの位置からでは内容までは分からなかったが、明らかに先ほどの叫んだ女性を宥めているようだった。
どうしても気になるそのやり取りに目を向けると、そこにはハニーピンクの髪を持つラシェルと、彼女に仕える取り巻き達の姿が見えた。
対する相手は、衝立の向こうに隠れているため、その姿は見えない。しかし、その声には聞き覚えがある。
あの声は、まさにソレンヌだろうとルイーズは瞬時に確信した。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまい、誠に申し訳ございません。……さあ、こちらへどうぞ。他の方々はすでにお揃いのようですわ」
ルイーズはそう言って、さりげなく留学生たちの意識を店内の喧騒から逸らすように誘導した。
いかに学生が多く集う学園とはいえ、あのような騒動を他国の王族に見られてしまうのは、ダルシアク国の名誉に関わる問題だ。
彼女は深々と頭を下げ、丁寧に謝罪の意を表すと、落ち着いた所作でガーデンテラスへと歩を進める。
ソレンヌが対応しているのであれば、ひとまず安心できる。
とはいえ、彼らを無事にテラス席へ案内し終えるまでは、申し訳ないがソレンヌ一人に任せるしかない。
「皆様、お待たせいたしましたわ。」
ルイーズは、テラス席に到着した際、ドナシアンに向かって声を掛けた。ドナシアンは他国の留学生たちに丁寧に接している最中で、ルイーズの登場に一瞬だけ目を向け、微笑んだ。
だが、やはりソレンヌの姿が見当たらない。ルイーズもその点に触れることなく、三年生の面々を席に案内した。
「ルイーズ嬢、少しいいかな?」
その時、ドナシアンがルイーズに声を掛けた。その顔には、わずかな心配が浮かんでいる。
「ソレンヌ嬢に用事を頼んだのだけど思った以上に時間がかかっているようなんだ。申し訳ないがソレンヌ嬢を迎えに行って貰えるかな。何か思わぬ事柄に遭遇してしまって足止めされているのかもしれない」
ドナシアンはそう言いながら、ルイーズに託す。その表情からは、彼女への信頼と同時に心配の色が見え隠れしている。
ドナシアンがソレンヌに問題を任せたのは、理にかなった判断だ。
ダルシアク国の王子として、他国の王族を前にして席を立つことはできない。だからこそ、ソレンヌが対応に向かうのは自然な流れだとルイーズも理解している。
逆に自分がその立場であれば、ドナシアンを場に残し、対応するだろう。
「承知いたしました。」
ルイーズは頷き、ポケットから小さな機械を取り出し、ドナシアンに差し出す。
「こちらは私の二番目のお兄様、マティアス兄様の試作品です。この紫のボタンを押していただければ、エドと連絡が取れます。もし必要があれば、エドをお呼びください」
その機械には紫、黄色、水色と三つのボタンがあり、それぞれが異なる人物に繋がっている。紫のボタンがエド、黄色はソレンヌ、水色はルイーズへと繋がるようになっている。
「ありがとう。それじゃあ、よろしくね」
ドナシアンは機械を受け取ると、少しだけ真剣な表情でルイーズに礼を言った。
レオポルドが護衛として後ろに控えているため、留学生たちの接遇には問題ないだろう。だが、万が一、女手が必要な事態に備えて、機械でエドと連絡を取れるようにしたのだ。
「それでは、皆様失礼いたします。」
ルイーズは深々とカーテシーをし、再び店内へと戻った。ソレンヌとラシェルたちがいる場所へ向かうべく、足を進める。
少しの間、喧嘩の余波を収めるために苦労することになるだろうが、ルイーズは冷静にその場を収めるため覚悟を決めた。




